寂しかりけり ――玉城徹の晩年の歌2010/12/17 14:31

  草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に



  暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日



                  「歳末歳首雑吟」『左岸だより』第六十九回
                           二〇一〇年三月十九日発行




 この「歳末歳首雑吟」十四首が、玉城徹の最後の発表歌ということになろうか。『左岸だより』は、主宰誌『うた』解散後、歌壇のごく少数の人々に「私信がわり」に送った玉城徹の個人的なペーパーのようなものである。第七十回を四月二十八日に発行したものが、最後となった。

 二〇〇八年梅雨の頃、玉城は沼津市西島町から静岡市の老人ホームに移る。従来、一年前に作った歌を出すようにしてきたというが、七月十六日発行第四十九回から二〇〇九年六月五日発行第六十二回まで、西島町にあって作った歌を発表し尽くしてのち、『左岸だより』に玉城徹の歌は見られなくなった。


「窓の前には、安倍川の堤が立ち塞がって、広い眺望が得られないのには困ってしまう。わたしが住むのは二階である。堤上の道の方が、ここより上に見えるのは、ここが低地だからであろう。」
                         (『左岸だより』第六十回後記)

「堤の上は、舗装されて二車線の道がある。車が往き来する。晴れた日には、車の反射がきらりと一瞬部屋の中へ差しこむ」「わたしは、一首も歌が作れない。その原因は、多分、自然との活きた交感が遮断されているからだろう。」
                          (『左岸だより』第六十一回後記)



 歌のない『左岸だより』が続いた。ところが、今年三月、わずか八頁にすぎなかったが、「歳末歳首雑吟」十四首を掲載する第六十九号が届いた。ホームで作った初めての歌ということになる。ひさしぶりに満ち足らう思いをして読んだが、なかでも掲出二首には胸をつかれるようであった。

「寂しかりけり」「この寂しさよ」という語には、思わず人をして駆け寄らしめるような響きがこもっている。窓の前に立ち塞がった阿倍川の堤の、その索漠たる風景がどんなに精神を苦しめるものであったか、伝わってくるようであった。

 さらに、歌の内容はそれだけではない。人の世のすべてが手元から去ってうつろになってしまった、という嘆きの声が聞こえた。人の世を愛憐して切に求めてやまぬ声が、時間と空間を越えた遠いところから聞こえた。



  うき我をさびしがらせよかんこどり    芭蕉



 「うし」とは、物事が思いのままにならず、厭わしく不愉快に思うこと。「さびし」とは、本来備わっているはずのものが欠けていて満たされない気持、もとの望ましい状態を求めようとする気持をいう。

「うき我」とは、つくづく世を厭うて遠ざけたいおのれの自覚である。人間(じんかん)の事は何もかもが不愉快であり、俗塵から離れてひとり籠もっていたい気持である。そういうわたしの心の向きを変えてさびしがらせてくれよ、かんこどりよ。人の世から遠ざかっていることが物足りなくて、人の世を求めてやまぬ、そういう気持にさせてくれよ――。芭蕉の句は、そういう。

古来、厭世を言う者は多い。まことに同感せずにはおれないが、しかし、それを越えて、「うし」ではなく「さびし」の境にこそ、人というもののありようがある――。そう、芭蕉はいうのである。

 この句は、元禄二年には結句が「秋の寺」であった。二年後、「かんこどり」と改める。遁世の場所である「寺」から「かんこどり=閑古鳥」への改作は、句の力点を「うし」から「さびし」「閑寂」の境へとおしひろげよう。

 このような芭蕉の「さびし」の世界があって、ここに玉城徹の「寂しかりけり」「この寂しさよ」の歌がある。

 最後の歌集となった『石榴が二つ』(二〇〇七年五月刊)には、「さびし」という語をつかった歌は七首を数える。もともと感情語の多い作者ではない。七首の「さびし」は突出しており、つぎに多い「恋し」の語とともに、この晩年の歌集を特徴づける。「恋し」とは、時間空間を遠くはなれた、ある対象を求める気持をいう。異性に限らないが、エロスの揺曳する語である。
以下、「さびし」の歌七首の用法をひとつずつ見ていこう。


 
  凝る雲の白のかがやき
   ほがらかに寂しきそらに
  かがやきの白を置きたり
  見つつわれ思ふともなし
  東門 西門 南門 北門
         
                    「雲 長歌並びに反歌一首」『石榴が二つ』



 長歌「雲」の第一節。青い空虚なそら、満つるもののないそら。その寂しさは、しかし「ほがらか」である。一つ、二つ、凝る白雲のかがやきによって、そらの空虚は寂しくも満たされている。反歌は〈住み古りて人の世うれし歩み出で端山(はやま)のあかきもみぢに向かふ〉。端っこではあっても、なお「人の世」の中にあって「住み古りて」いる。たしかにそう感じられるところからくる「ほがらか」さが、「寂しきそら」にながれている。



  道の辻家むらのそらの寂しけれ青くかたむく宝永火口



 「歳晩日日」より。これも「そら」の空虚のもたらす寂しさである。地上にごちゃごちゃと詰む家むらと、そのうえのそらの空虚さ。富士の山の宝永火口がくっきりと青く遠くに見える。



   吹き靡く街の青葉やわが心寂しと言はむのみにもあらず
 

   吹き入れて風ひえびえと五月なり金の憂へをここに呼ぶべく



 「五月」より。吹き靡く街の青葉よ、吹かれつつ歩くわたしの心を見てみれば、寂しいと言おうとするだけではない――。そう、歌はいう。では、寂しさのほかに何があるのか? 

言うまでもなく、「うき我をさびしがらせよかんこどり」が背後にながれているだろう。人の世にあって「憂し」という思いにとりつかれないではいない。不愉快なことばかりである。「わが心寂しと言はむのみにもあらず」、どうしても憂いの影が添わずにはいない。
しかしながら、厭世に嵌り込んでしまってはおしまいだ。だからこそ、「金の憂(うれ)へ」を呼び出そうとする。不満やくるしみがどす黒くてはいけない。あたかも白秋『桐の花』を思わせるような、はなやかな五月の「金の憂(うれ)へ」がそこに呼び出される。



  蝉のときはや終はりぬと部屋にわがひとり思へば寂しくもあるか



 「戸田みなと」より。しきりに鳴いていた蝉も絶え、いのちさかんな夏の季節が過ぎ去ろうとしている。過ぎ去った生気と活気にあふれた時節を思うと、いまさらにその欠けた虚しさを思うのである。「寂しくもあるか」は、季節の過ぎ去る気分的な感傷をいうのではない。過ぎ去ったのちの、どうしようもない虚ろの物足りなさのかたちがとりだされる。
 


  みんなみに満ちくるくもり伊豆の嶺の隠ろふ今日の心さびしも



 「窓に見る老人」より。「伊豆の嶺」を南から満ちてくる雲が隠してしまった。いつも見えていたものが、見えない。「心さびしも」という欠如をなげく感情が、そこに動く。



  港べは今年は早く草刈ればゑのころの穂を見ずてさびしき



 「残暑」より。毎年、秋口の港べに散歩にくると、一区画に雑草のしげっているのを見た。ところが、今年は草刈りを早くしたものか、さっぱりとしてしまって、あちこちを向いて揺れるえのころ草の穂を見なかった。あるはずのえのころ草の穂の無いのが寂しい。



  道のべに枯葉走りぬ楽しとも寂しともなくしばらくあはれ



 「白秋言」より。心が楽しさに満ちているとも、空虚で寂しいとも、いずれともない状態である。

 以上が、歌集『石榴が二つ』にあらわれた「寂し」の歌のすべてである。さらに、これよりのち、『左岸だより』第三十一回(二〇〇七年二月二十八日発行)には、つぎのような一首があった。「彫刻家飯田義国氏逝く。飯田氏はわが友、橋元四郎平氏の友人なり。悲しみて作れる歌」という詞書をもつ歌の二首目。さらに、第六十九号「歳末歳首雑吟」にはもう一首、「さびし」の古形「さぶし」を使った歌があった。



  義国のにはかに亡きに四郎平のさびしき心わが思ふかも
 

  貧しきが心さぶしく項垂(うなだ)るる心根も今うべなはむかな



このように、玉城徹の「寂し」は、たんに気分的な感傷をいうのではない。小環境において諸事情から生ずる一個の感傷を排出せんがための「さびしい」とは、まったく異なる。玉城徹という個人の「喉」を通しながら、歌はつねに「寂し」という語の淵源へ向かおうとしている。

 ふたたび、冒頭にかかげた「寂しかりけり」「この寂しさよ」二首、ここに改めて見てみよう。


  
  草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に
  

  暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日



これまでの歌の「さびし」の用例と異なるのは、過ぎ去った「蝉の時」や、あるべき「伊豆の嶺」「ゑのころの穂」など、欠如の対象が歌の上にあらわにされていないことである。

 眼の前には、草枯れの堤にしろじろと日が照っているばかり。ほかには何にもない。何という索漠たる風景。
 年改まって五日となるが、暮れはてた窓の外を風が鳴る音のみ。そのほかには何にも聞こえず何にも見えない。

 かつては人の世を「憂し」と感じないわけにはいかなかった。しばしば不快は襲い、怒りは来たり、厭わしい思いは去ろうとはしなかった。だが、もう、いまはいっさいが愛憐される。驕りたかぶるものも、卑小なものも、人の世のすべてに愛憐を覚えないではいられない。それほど、人の世は遠くなってしまったのである。

 老い果てた玉城徹という個人の喉を通して遠く果てしない彼方から「寂し」という語が響いてくる。人の世というものが根源にもっている寂しさが、耳に響いてくるかのようだ。



                            (『短歌現代』2010.9)

http://www4.ocn.ne.jp/~tanka/page027.html
短歌新聞社刊『左岸だより』8500円

孫崎享著『日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて』祥伝社新書、2010.9.102010/11/06 11:51

   戦略とは自己に最適な道の選択
           



世界情勢は歴史的な転換期を迎えているというのに、日本の政治も経済もずいぶん長く停滞している。しかも先頃の尖閣諸島の問題など、何かしら危うく不安な思いをそそられる。本書のような領域にはまったくの門外漢ではあるが、一人の有権者として考えずにはいられず、手にとってみた。


 著者は、外交官・大使として「悪の帝国」「悪の枢軸」とレッテルを貼られるソ連・イラク・イランで勤務してきたという。この間、チェコ事件、中ソ国境衝突、イラン・イラク戦争、9.11米国同時多発テロに遭遇し、「間違った戦略を採用した国の悲劇を目の前で見てきた」。


また、1985年、ハーバード大学国際問題研究所で安全保障を学ぶ中で、米国では「日本人は戦略的思考ができないと馬鹿にされているのを見た」。キッシンジャーは「日本人は論理的でなく、長期的視野もなく、彼らと関係をもつのは難しい。日本人は単調で、頭が鈍く、自分が関心を払うに値する連中ではない」と嘆いたそうだ。日本人は「独自の判断ができない。他に従っているだけ」という認識は国際的に定着しているという。


 政治・軍事の領域ばかりではない。企業戦略の第一人者マイケル・ポーター・ハーバード大学教授は「日本企業はほとんど戦略をもっていない」と述べているそうだ。しかもこれは戦後の特徴ではない。第二次大戦中でも各国に比較すると日本は戦略面で非常に弱かったという評価が出ている。そもそも日本人社会全体が「戦略に弱い」。


 孫崎氏はいう。戦略とは「人、組織が死活的に重要だと思うことにおいて、目標を明確に認識する。そして、その実現の道筋を考える。かつ、相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する手段」。戦略論の歴史を見渡し、現在の研究水準を視野におさめて、こう定義する。


 従来の戦略思想とは「相手より優位に立つ」「相手をやっつける」視点から手段を考えるものだった。相手の損は自分の得、相手の得は自分の損。孫崎氏自身もかつてはそう考えていたが、いま新しい「ゲームの理論」に裏づけられて「相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する」ことが自らに最大の利益をもたらすと確信したという。勝利とは、敵対する者との関係ではなく、自分自身がもつ価値体系との関係で意味を持つ。相手に力で優位に立ったように見えても、それで自国が疲弊しては勝ったことにならない。「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という孫子の兵法が、最先端の戦略論で注目されているという。


 このような最新の戦略思想にもとづいて、本書の後半では日米安全保障問題を具体的に見ていくのだが、驚くべき現実がつぎつぎに暴かれる。60年安保条約改定によって、ダレス国務長官の「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる」という方針は是認された。以後変更されていない。しかも、日本人の多くが何となく信じ込んでいる「核の傘」は、じつは無い。日米安保条約を精緻に読み込めばわかる。


 それでもかつての外務省中枢は、米国の世界戦略に巻き込まれないよう知恵を絞って「縛り」をかけた。だが、小泉政権以来、それを外そうとしている。日米同盟の深化というと良さそうだが、じつは米国の世界戦略に日本が使われることであり、また日本に核武装させて日中相打ちをさせる戦略さえあるという。


 われわれは、新聞テレビで識者の意見を聞いて判断するよりほかないが、孫崎氏は、世論こそが国の運命を決めるのだから、肩書などに惑わされず、戦略的思考を一人一人が養って、何を述べているかで判断してほしいというのである。



            (熊本日日新聞読書欄コラム「阿木津英が読む」2010.10)

堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』岩波新書、2010.1.202010/11/05 16:15

   民営化の果ての借金漬け国民
           

それにしても、本書の内容はすさまじい。本当かしらと疑いたくなるほどだが、どうやら九・一一以後のアメリカ社会は根本から変質していっているようだ。


二〇〇九年一一月、カリフォルニア州立大学で何千人という学生が建物を占拠し、「大学民営化反対」「役員ボーナスをカットしろ」「教育をマネーゲームにするな」と書いたプラカードをもって行進したという。年間三二%の学費値上げを大学側が発表したのだ。学生たちのほとんどは奨学金やローンで学資をまかなっている。収入はあがらないのに学費が高騰し、中流家庭を直撃している。


米国には手持ちの資金がなくとも高等教育を受けられる学資ローンというものがある。それが今では学生たちを借金漬けにしているらしい。なかには日本の消費者金融まがいの高利率のものがある。払いが滞ると、ローン債権は知らぬまにつぎつぎと転売され、さらに高利率の利子がつき、やくざのような脅しによる取りたてが始まる。しかも、この借金は自己破産ができない。


「中流階級にとって最も大きな夢であるマイホーム、そして誰にも開かれた教育という二つが、借金地獄という底なし沼となり、人々を飲みこむことになるとは、いったい誰が予想しただろう?」と、著者はいう。


また、国民皆保険制度のない米国では、医療費が高額なのは周知のこと。「二〇〇九年に医療費が払えず破産を申請している国民は約九〇万人、そのうち七五%が医療保険をもっている」。医療保険制度改革は急務であり、オバマ大統領はそれを公約して当選した。ところが、このたびも医療保険会社や製薬会社など医産複合体とメディアとの結託により、巧みな情報操作がされて、中途半端な骨抜き案となってしまった。


医療活動家デイビッド・ワーナーは言う。「金さえ出せば長生きできるという考え方が医療を商品化し、富める者を薬漬けに、貧しいものを借金漬けにし、いつしか人間が本来持つ生命力を奪ってしまいました」。すべてを数字で測る利益と効率至上主義は、患者と医師との繋がりや、医師のなかにあるはずの誇り、充実感さえも医療現場から奪っていった。


さらに信じられないのが、第四章「刑務所という名の巨大労働市場」である。トイレットペーパーから図書館の利用料にいたるまで有料、刑務所でも囚人たちは借金漬けだ。さらに、第三世界より安い囚人労働力の「国内アウトソーシング」によって、民営化された刑務所ビジネスは「夢の投資先」だというのである。「テロとの戦い」で加速した厳罰化によって囚人の数には困らない。三度有罪になると終身刑になるというスリーストライク法によって、終身刑になる若者が増えてもいる。


九・一一以後、昔の日本の治安維持法に似た愛国者法があっというまに成立したというが、その後の米国社会のありさまを著者は、本書の前編である『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書)および本書、そして『アメリカから〈自由〉が消える』(扶桑社)と、三部作のつもりで書いたという。他の二冊も、驚くようなことばかり。一読をお勧めしたい。


民営化民営化と自由競争があたかも良いことであるかのように言われてきた。その行きついた果てがこれだ。郵政民営化・裁判員制度などを含む年次改革要望書が米国から毎年送られてきていたというが、対米追従政策はもうゴメンだと思わないではいられない。



           (熊本日日新聞読書欄コラム「阿木津英が読む」2010.6)

茅野雅子「女の詩」・・・・詩歌のジェンダー2010/10/14 09:30

 与謝野晶子・山川登美子とともに「明星の三才媛」と言われた増田雅子は、同じ『明星』の歌人であった茅野蕭々と恋愛、結婚して茅野雅子となったのち、『青鞜』第二巻第一号(明治四五年一月号)に「女のうた」と題する次のような詩を寄せた。


    一
君はなほ夏の鳥の如く
楽しげに浅はかに歌ひ給へば、
我が苦しみも涙も
蒼白き頬も知るに由なからむ。

況して我が背負へる十字架を、
『子』といふ重き黒き荷を、
降りつもる雪を、赤き我が素足を、
如何で知り給はむ。
恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、
君は男にて我は女なれば。

実に恋は男に快楽を歌とのみ与ふれど
我等には尽きざる苦みと、子と、涙と、
それより生るる新しき真の大なる生命をもたらしぬ。女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。

     二
夕ぐれの心を如何に云ひ出でむ
この女のみ感じ得べき或ものを。

遠き地平に消えてゆく光の微動と
しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂を、
我等が細き皮膚ならで
何物かよくわかち得む。

また見えそむる星に、水の皺に、
我が長き黒髪に響き出づる
この妙なる歌を如何に云ひ出でむ。
あはれ夕ぐれのこころを。女の秘密を。

     三
言葉には云へざる故に黙すを、
なほ語れとせめ給ふや、

広く大なる世界より
我等が感ずるものは、
大方かく妙に細かければ
男も知る粗き言葉には云ひ難し。

あはれ君の女ならましかば。



 茅野雅子は、この詩で、<女の領土>ともいうべき場所を採り出している。それはまず、「苦しみ」「涙」「蒼白き頬」「『子』という黒き重き荷」に象徴されるような場所、男の永久に知らない、知ろうともしない、うち捨てられた場所だ。新しい天地を求めた恋の結末に、女はこのような苦い重い十字架を負わされるが、男はあさはかに夏の鳥のごとく歌い続けている。しかし、考えてもみよ、重い十字架を背負うものほどいっそう「新しき真の大なる生命」を生み出すことができるのだと、雅子は価値を逆転させ、男にうち捨てられた場所を<女の領土>化した。これまでのようにただ忍従するというのではなく、男より「大なる生命」を生み出す機会として、苦悩をすすんで引き受けようとする強い新しい女性像をうちだそうとした。
 この「女のうた」は、大正六年に刊行された『金沙集』に収められている。それを見ると、この詩の少し前に、



  あさはかの思ひなりけり男をばいな自らを頼みてしこと
  子の上と厨のことを思ふ外に命ひまなし浅くもあるかな



などを含む、「浅き心」六首が並ぶ。「男をばいな自らを頼」んで、ともに学び合う、新しい男女の生活が営めるものと結婚したが、それは「あさはか」なことであった、現実の女の生活は「子の上と厨のことを思ふ」ばかりで、命の浅い日々であると嘆く。「あさはか」な「浅い」存在は、歌では、女である自分の方なのだった。
 また、「浅き心」一連の次には、「見えぬ世界」と題する、次のような歌を含む六首が並ぶ。



  我等より見る天地の外をゆく星に等しと男をおもふ
  女には見えぬ世界に時ありて如何なれば君の行き給ふらむ
  夢にだに我れの見がたき国へゆく刹那の君の憎くもあるかな



 さらに、子の歌三首を含んで「女のみ感じ得べき或もの」の言語化を意図したかに思われる「五月」一三首を並べ、そして冒頭の詩「女のうた」が来るのである。


 これらは、明らかに同一主題による変奏といえよう。わたしたちは詩と歌と合わせて読むとき、雅子の採り出そうとした<女の領土>の輪郭をいっそう明確にたどることができる。


 それはまず第一に、現実生活における女の、その周縁化されたあり方を暴き出そうとするものであった。女にも同等の精神を認めようとする男と<恋愛>し、新しい男女の生活を夢見て結婚したはずの女が、いよいよ現実生活に入れば、いかに社会のジェンダー規範という罠に陥って、締めつけられ、周縁化され、苦しまざるを得なかったか。なかでも「『子』という重き黒き荷」は、当時にあっては女のみに課された、女の逃れられない宿命と感ぜられた。


 じつは、雅子の詩「女のうた」の四カ月前、同じ『青鞜』創刊号(明治四四年九月)巻頭に掲載された与謝野晶子の詩「そぞろごと」一連にも、そのような女の苦しみは充分に表現されている。「山の動く日来る」という高らかな言揚げで始まる「そぞろごと」一連の詩が、現実に直面して憔悴した「青白き我顔」のイメージで締め括られていることは、よく知られている。類似の語句と発想のある雅子の詩「女のうた」は、四か月後という時期から考えても、同じように現実生活に女として苦しんでいるものからの、いわば返し歌であったともいえよう。


 晶子の「そぞろごと」一連の詩は、眠りから目覚め、理想に燃えて出発したはずであった女が、やがて現実をまえに破れ去る理想の惨憺たるありさまを描きだして迫力がある。実世界の前に必ず想世界は破れるといった北村透谷を思わせるような晶子の詩は、男のみならず、女にとっても現実の前に理想は破れるのだと告げる。それは、いま理想を掲げて船出したばかりの若い世代平塚らいてうらに対する、教訓めいた意味合いさえ感じ取れないこともない。


 しかし、雅子の詩は少し違った。雅子の詩は、晶子に応えるかのように、その惨憺たる女の現実を受容する強さを持って、なおかつそこから理想へと踏み出そう、理想を失うまいと呼びかけた。


 さらに、もう一つ、この詩の大きなポイントは「恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、/君は男にて我は女なれば。」というところ、『金沙集』の歌をも援用すれば、「女には見えぬ世界」があるということを採り出したところにある。


 社会に周縁化された<女>という場所からは、男の住む広大な世界は決して見通すことはできず、もちろん渡っていくこともできず、女の「天地の外」の隔絶した世界であるということを、雅子の詩と歌とは告げる。周縁化された場所から、中心へは決して視線は届かないのであった。また、そのような周縁化された場所に生まれる思いは、中心たる場所からは永久に知られず、知ろうとさえもされず、うち捨てられた場所なのである。雅子の詩と歌は、このような社会に周縁化された場所に立って、そこからの遠近法=ものの見え方を採り出し、非対称な<女>と<男>の関係を採り出した。現実生活を生きる女の場から、ジェンダー構造をつかみ出したといっていいのである。


 では、さらに具体的に「女のうた」に即しつつ、見ていってみよう。まず、第一連では、右に述べたように、この周縁化され、うち捨てられた苦悩の深い<女>の場所を、キリスト教の教えを借りつつ価値を逆転させる。むしろ、あえてそこを「新しき真の大なる生命」を生み出すことのできる場所として<女の領土>化する。そして、「女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。」と、なお<恋愛>を讚える。 しかし、現実には、この価値の逆転はいかにも危ういだろう。雅子自身、「浅きこころ」六首にもうたったように、現実を前に敗北寸前なのであった。


 ところが、「女のうた」の第二連では、「女のみ感じ得べき或もの」があると、ジェンダーではなく、セックス(生物学的性差)に基づいた<女の特性>を展開する。女は、男よりはるかに「細き皮膚」を持っているので、「夕ぐれの心」「遠き地平に消えてゆく光の微動」「しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂」「見えそむる星に、水の皺に、我が長き黒髪に響き出づる/この妙なる歌」を感じ分けることができる、という。


 じつは、晶子の「そぞろごと」一連中にも、「われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を」「愁ふるは、若し粗忽なる男の手に砕け去らば。ーー」というように、<女の特性>を繊細で脆く、<男の特性>を粗忽とする詩句は見えていたが、雅子はそれをいっそう組織的に展開した。


 このような生物学的性差に基づく特性の称揚は、あたかも負け惜しみであるかのような周縁化されたジェンダーとしての<女>の場所からの価値逆転より、男の身体を持つものに対して、いっそう対等たり得る価値の根拠を<女の領土>に与えるように見える。


 それにしても、雅子がここで「女のみ感じ得べき或もの」として列挙したものの、何としめやかでおぼろでこまやかで〃女らしい〃ことか。ほんの四カ月前、『青鞜』創刊号には、与謝野晶子の「山の動く日来る」という堂々たる女性覚醒の宣言があり、また平塚らいてうは「元始、女性はじつに太陽であつた、真正の人であつた、いま、女性は月である」と、これまでの月としての女性像を否定して、赫赫たる太陽としての女性像を掲げたのであった。従来の〃女らしさ〃を否定する〃新しい女〃というイメージにぴったりの、これらの女性像の力強さに比べて、雅子の「夕ぐれの心」「星」「水」「黒髪」に象徴される女性像は、あまりにも〃女らしい〃。しかし、雅子は、これをあえて対置した。


 のみならず、目覚ましいことには、第三連でこれを「言葉」の問題へと転化させたのである。「言葉には云へざる故に黙すを、なほ語れとせめ給ふや」「男も知る粗き言葉には云ひ難し」ーー「細き皮膚」の感じ得る「微動」や「匂」を言い表す<女の言葉>はいまだない。「男も知る粗き言葉」ーーすなわち男の耳にも届くような「粗き言葉」では言い表せない。だから、女はしばしば沈黙せざるを得ないという。


 こうして、雅子の「女のうた」は、現実社会を生きる女として周縁化された場所に立たされながら、なおかつそこを領域化すべく、<女の特性>の根拠を女の身体に求め、その感受のゆたけさがいまだ認知されないのはそれを現わす<女の言葉>が無いからなのだという地点にまでいたる。


 しかし、雅子がいう「夕ぐれの心」から生まれるような、おぼろかな「光の微動」やしめやかな「匂」や、繊細なかすかな<女の言葉>は、本当にいままで存在しなかったのか。歴史文化を振り返るなら、日本的と称されるものには、しばしばこのような徴がついていたのではなかったか。


 たとえば、北原白秋は、『創作』明治四三年六月号の「桐の花とカステラ」で、「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精である」と述べ、さらに次のように書いている。




私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤が私のこころの小さい古宝玉の緑であり一弦琴の瀟洒な啜り泣である。

  


 さらに、「なんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしい」「私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい」とも述べる。白秋は、日本の古い歌を、西欧のオーケストラや油絵に匹敵するようなものへと近代化しようとするあまり、「一箇の小さな緑の古宝玉」たる歌に過重な負担を担わせがちな当時の幾多の試みに反論して、このように言うのであった。それも、たんに歌を古いままに墨守していこうというのではない。右に引いたエッセイ「桐の花とカステラ」の文章だけを見ても歴然とするように、カステラをはじめとして、吹笛・西洋料理店・フラスコ・アレンヂメント・タッチ・フレッシュなどなど、ひんぱんに片仮名語を混ぜ合わせながら、あたかも異邦人が日本の古い歌を初めて発見したかのような視線をもって、その小さなかすかな美しさを讚え、その美を損なう過重な近代化を戒めるのである。これは白秋だけのことではない。白秋が属した『パンの会』のような、いわば文学の科学的近代化ともいうべき自然主義思潮に抗して、そういう一つの流れが当時あった。


 同じ新詩社の歌人である茅野雅子には、このような白秋たちの流れは共感しやすかっただろうし、また当時新進気鋭の詩人でもあった白秋のエッセイ「桐の花とカステラ」は必ずや読んでいたはずである。雅子が、晶子やらいてうの堂々たる「山」や赫赫たる「太陽」に象徴される、白昼の光のもとに立つ新しく力強い女性像を排して、いかにも〃女らしい〃ほのかな繊細な「夕ぐれの心」を対置したのは、このような白秋たちへの共感があったことはまちがいないだろう。さらに、雅子自身の国文科(日本女子大学)に学んだ経歴も、そこには関わっていたかもしれない。 


 雅子は、「星」や「水」や「黒髪」に象徴される「女の秘密」=女の美を、白秋のように異邦人の視線をもって(ということは、つまり<男>の視線をもってということにほかならないのであるが)、再発見しようとしたといえよう。王朝時代から「男手」「女手」「男文字」「女文字」といった対語のある日本では、このような〃女の美〃の提出の仕方は理解されやすく、説得力あるものである。 ところが、雅子が掲げるような、ほのかなしめやかな繊細な美は、歴史を振り返ればすぐわかるように、とくに実体としての女のみが担ってきたというわけのものではない。男である白秋も日本の古い歌に「空気の微動」「寂しい湿潤」「微かな月光」「陰影」を求めるように、<女性性>としての日本の美を求めるものは、とくに実体としての女である必要はない。だから、それらは、現実の周縁化された<女>という場所にあるものの存在証明にはならない。


 だからこそ、雅子は、現実に周縁化された場所で苦しんでいる女として、この文化の上での〃女らしさ〃(=女性性)を、女の身体を根拠として、実体としての女の上に奪回しなければならなかったのである。雅子には、実体としての女だけが放つことのできる「言葉」、女の身体にのみ根拠づけられた「言葉」、すなわち<女の言葉>がぜひとも必要だったのだ。それゆえ、現実における<女の言葉>の不在を論理的な帰結とせざるを得なかったけれども。


 現代のわたしたちはもはや、「細き皮膚」に象徴される女の身体を根拠に、「女のみ感じ得べき或もの」があり、それは夕ぐれの「光の微動」や、湿った「靄の匂」や、「星」や「水」や「黒髪」から生まれる歌のような、いわゆる〃女の感受性〃〃女の感覚〃といったようなものがあるとは、ほとんど信じない。あるように思われるとすれば、それはそのような感じ方の累積が、象徴体系のなかに組み込まれてジェンダー化されているのだ、といった方が正しいだろう。


 たとえば、漢詩vs和歌というときの和歌に代表されるような、小さなもの、優美なもの、繊細なもの、おぼろかなものを愛するといった特徴を持つ日本の文化を、<女>として比喩することに、わたしたちは耳馴れている。だが、ここに見る文化の上でのジェンダーと、たとえば明治という時代における社会規範としてのジェンダーとは、似て非なるものであることを、わたしたちはよく承知しておかなければなるまい。


 茅野雅子の詩と歌とが採り出したように、社会に周縁化された<女>という場所は、中心=<男>を成立せしめるためには無くてはならぬ下支えであるが、忘れられてよい、うち捨てられた場所なのであった。しかも、<女>という場所からは、<男>の世界はまったく見通すことのできない「見えぬ世界」である。


 一方、先進的な中国大陸文化に対する、あるいは西欧文化に対する自文化の特性を、みずから<女>としてジェンダー化するとき、この<女>は、中心たる中国大陸文化ないし西欧文化の無言の下支えであろうとするのではない。ここにおける<女>は無関心にうち捨てられるどころか、たとえば先の白秋の主張にも見るように、いつの時代にもつねに男たちにとって問題の一焦点であってきた。ここに、中心ー周縁の関係は無い。むしろ、彼らは<女>でもあり得る<男>として、先進文化たる<男>に対して差異化をはかり、たがいに対等な関係であろうと志向している。 茅野雅子の詩「女のうた」は、この二つの似て非なるジェンダーを、実体としての女の立場から直結させようとした。周縁化に屈しない新しい時代を生きる女として、女の身体を根拠に、新しい視線で〃女らしさ〃を再発見する歌、そのようなものを希求しようとしたのであった。


 だが、そんなことは可能なのか。




浅みどり遠き世界の消息を秘むるが如き森に来しかな
匂やかにかはせみ色の羅の中に我がある如し初夏の森
植木屋の小さく刻む鋏より真珠ちるかと耳立つる朝



 
 詩「女のうた」の直前に配された「五月」一三首より。『金沙集』全体に白秋の影響濃く、ここにもそれが見られる。「女のみが感じ得る或るもの」を言い表そうとするとき、男である白秋の影響を受けざるを得ないことの矛盾はさておくとしても、エッセイ「桐の花とカステラ」で言揚げした白秋が見事に歌集『桐の花』の歌へと脱皮していったようには、これらの歌はうまくいっていない。


 『桐の花』における白秋は、異邦人の視線をもって、それまでの日本の古い歌にまつわりついていたぬめりを洗い流すことができた。つまり、オリエンタリズム(サイード)を構成する西欧的主体の視線を模擬することによって、日本的なるものの自己否定と肯定とができた。だが、雅子の歌に、それはない。むしろ、「匂やかに」だの「真珠散るかと」だの、いわゆる固定観念としての〃女らしさ〃に全面的に自己同一化してしまっている。 これは、根本的には、雅子の才能にのみ帰せられる問題ではないのではないか。実体としての女(周縁化された客体)は、白秋のなし遂げたような西欧的主体(男=中心的主体)の視線を模擬して、自らを主体化することはほとんど不可能だということの証左ではあるまいか。<女>が<男>の視線を模擬するとき、<女>は、その内面化した視線によって自らをもう一度客体化する。雅子は、内なる<男>の視線によって、固定観念としての〃女らしさ〃にいっそう自己同一化してしまう。


 じつは、わたしは、この稿を書くために、いくつか近・現代詩史に類するものをひらいてみた。詩は、日本の伝統的な詩型である短歌や俳句に対して生まれた形式であり、ことに近代詩から現代詩へとわたる過程に「短歌的抒情」なるものを否定してきた経緯を持つが、わたしはあらためて詩が、日本的なるものあるいは〃女らしさ〃から遠ざかろうと一貫して努めてきたものであることを確認した また、<女性性>のみならず女性そのものをも排除してきたことを、中島美幸は、アンソロジー『日本の詩101年』(新潮社、一九九〇年)に採用された女性の詩の数が一割しかなく、しかも戦後女性詩人を全否定した選びを指摘して批判しているが(「女性の詩意識をめぐる現在ーー『戦後女性詩人』再考ーー」、一九九二)、そのとおりであろう。 しかし、わたしはまた、同アンソロジーでの辻井喬・平出隆対談「百年の詩史の光景」で、〃観念としての女性性復活〃が希望されていることに注目する。これは、一貫して<女性性>なるものから遠ざかろうとしてきた詩形式としては、当然起こって来るべき反省であり、欲求である。


 しかし、ここに茅野雅子の歌と詩に見たように、いまだ<女>という周縁化された場所から脱し切らない他ならぬ女であるものには、このような<女性性>なるものへの、何ら手続きなしの回帰は、自縄自縛に陥るも等しいことになろう。




              (『国文学 解釈と教材の研究』第47巻1号、学燈社。2002年1月)

方代散策――『迦葉』を読む(4)2010/09/21 09:04

   十一、学校


 学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる




 「一休」つまり一休みだから、ここで一服の「一ぷく」さんというわけかしら。本当の一休さんはとてつもなく偉い人らしいが、「学校を出ていないゆえ」難しいところはわからないので今も「一ぷくさん」などとダジャレで親しげに呼んでいる――。

 「今も呼んでいる」のは、人かわれか、特定できない。方代の歌は、時間軸の上に位置づけて解釈できないのと同様、歌の主体が「われ」か「人」かということも決定しにくい。そういう作り方をしていないのだ。読む方が、勝手にこれは方代(=作者)のことだと決めて解釈しているだけの話である。

 周知のとおり、一休禅師は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、後小松天皇の落胤とも言われ、自由奔放、風狂の精神に生きたとされる。とんちの一休さんは、民衆の共感によって江戸時代につくられたフィクションなのだそうだ。

 歌は、控えめになされた民衆の主張である。難しいことはいっさいがっさい丸め込んで呑み込んだ民衆の共感というものこそ真を突いている、それでいいではないか。「学校を出ていないので」と言い訳をしてへりくだりながら、歌はそう主張するのである。

 知的エリート層に対する「民衆」、歴史を動かす有名人に対する無名の人々、そういう層に照明をあてる学問や評論や運動はこれまでにもたくさんあった。わたしはいつもその前で立ち止まり、警戒しないではいられない。しばしば、そこから偽善と感傷と陶酔とがにおってくるからだ。「民衆」に知の照明をあてて対象化するというそのこと自体が、高みの位置を証している。

 そういう「善意」の知的エリート層の感傷から立ち現れた〈民衆〉の幻影を、民衆の側から内面化して反復する、という心理も、またあるのであって、それも嫌だ。

 方代のいう「民衆」は、それらに類似したものなのか。それとも違うのか。違うとすれば、どう違うのか。そういう疑問は、ながく胸にとどまっていた。

 わたしは、いまここにある「学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる」という歌を、ほとんど犬のように嗅ぎ分けてみようとする。そうしてついに、一片の偽善も感傷も、ルサンチマン(怨恨感情)もコンプレックスも感じられないことに、目をみはる。読後にまったく嫌な味が残らないのである。

 方代は、昭和初頭の片田舎の尋常高等小学校卒でしかない。立身出世の学歴社会にあって、貧困や家庭環境によって高等教育を受けることができず、やっと作歌に慰めを見出したり、奮起して働きながら学費を稼いだり、そういった歌人はいくらもいた。ことに大正末期から昭和初期にかけては労働運動が勃興し、渡辺順三や坪野哲久など、マルキシズムに覚醒していく者も多かった。

 当時のほとんど流行とも言うべき社会主義の方向に、なぜ方代は関心を惹かれなかったのか。なぜ、方代の歌には学歴コンプレックスらしいものが感じられないのか。社会主義の根底にはルサンチマンが潜むとニーチェは喝破したが、そういう社会に対する恨みつらみや、反語や当てこすりや居直りのような嫌味が、方代の歌にはまつわっていない。それでいて、ものの真を突く直観をもった民衆としての場所に立っている。

 方代は、いかにして民衆の言葉を語り得たのか。

 『甲陽軍鑑』によってであろう。今、そう言えるように思う。全歌集年譜を見ると、昭和三年、十四歳の年に「父龍吉から甲陽軍鑑を勧められ読む(方代談)」とあるが、『甲陽軍鑑』は以後、方代の土台をつくりあげた書であった。



  なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほつと安気なんだよ



 『迦葉』の最後の方にはこのような歌もある。『甲陽軍鑑』が方代にとって重要な書物であったことは、疑いない。しかし、それが歌そのものとどのように関わってくるのか。玉城徹は『迦葉』解説で、方代の方法論二方向の一つとして「叙事詩的性格」をあげ、「方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている」と短く触れたが、ほかにはこれまで論じたものをほとんど見ないようだ。

 わたしにしたところが、長く心に掛かりながらも探索を怠ってきた。(何しろ、軍鑑を軍艦だとばかり長いあいだ思い込んで、頭をひねっていたくらいの、ものを知らない者であったから)。

 このたびは思い立って、『甲陽軍鑑』を少々ひもといた。そうして、驚いた。方代の「民衆」の基盤はここにある。

 『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼二代にわたる全二十巻におよぶ歴史物語で、「武士道」という言葉がはじめて見出される文献であるという。原形をつくった筆録は、信玄の老臣高坂昌信(一五二七~一五七八)である。講談や歌舞伎狂言にも翻案され、江戸時代から庶民にもひろく読まれ、現代も組織の上に立つ者の心得の書として読まれているらしい。

 『甲陽軍鑑』の口書(はしがき)は、つぎのように始まる。引用は、佐藤正英校訂/訳『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫から。





 一、 この書物、仮名(かな)づかひよろづ無穿鑿(ぶせんさく)にて、物知りの御覧候(さふら)はゞひとつとしてよきことなくて、わらひごとになり申すべく候。子細(しさい)は、我等元来(ぐわんらい)百姓なれども、不慮(ふりょ)に十六歳の春召し出され(略)少しも学問仕つるべき隙なき故、文盲第一に候ひてかくのごとし。




        
 この本は、物知りが見たら仮名遣いも不調法で、笑い事になるようなものだろう、というのも私は元来百姓で、偶然召し出されてからも少しも学問する隙がなかったから、文盲同然なのだ、という。

 高坂弾正はつつましくしかも一徹な人だったようで、もちろん謙遜の弁でもあろうが、それにしても虚をつかれる。
 さらに三番目の項目には次のようにも述べる。





 一、この本仮名(かな)にていかゞなどゝありて、字に直(なほ)したまふこと必ず御無用になさるべし。結句(けつく)唯今(ただいま)字のところをも仮名に書きて尤(もつと)もに候。(略)さてまた仮名の本を用ふる徳は、世間に学問よくして物よむひとは、百人の内に一、二人ならではなし。さるに付(つ)き、物知らぬひとも仮名をばよむものにて候(さふらふ)間(あひだ)、雨中のつれ  にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうにとの儀なり。





 この本が仮名書きでは権威がないなどと言って字、すなわち漢文に直すようなことは絶対にしないでくれ、むしろ漢文の部分を仮名に書き直すのはよい、という。仮名書きの本がいいのは、世間に学問のある者は百人中一、二人もいないからだ。物を知らない人でも仮名は読むので、雨の日のつれづれにでも、無学の老いも若きもお読みくださるように、というのである。

 『甲陽軍鑑』の写本を、インターネットで見ることができるが、なるほど漢字仮名まじりの読み下し文であり、漢字の部分には多く振り仮名がふってある。信玄の書いたという五十七箇条御法度の部分のみは返り点のついた漢文で、ここが「字」の部分である。当時のきちんとした書物は、このような漢文であったのだ。

 十四歳の方代が、父親から勧められて手にとった『甲陽軍艦』とは、どんなものだったのだろう。国会図書館のネット検索をすると、甲府・温故堂が明治二十五年に出版した『甲陽軍鑑』というものがある。画像で見ることができるが、写本をほとんどそのまま大きめの活字で組んだ、分厚い二冊本である。おおよそ右の引用文から句読点をはずしたような文面である。現代から見ればけっして読みやすくはない文語文で、父龍吉が読んだとすれば口語訳があったとも思えず、父子の読み書き能力はあなどれない。

 高坂弾正の生きた時代から四百年後、右左口尋常高等小学校生徒である少年方代は、「雨中のつれ  にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうに」という配慮そのまま、雨が降って外仕事のできない日のつれづれに温故堂『甲陽軍艦』を棚から取り出してきて、土間で手仕事をする父龍吉に読み聞かせたのではあるまいか。戦国武将の物語に胸躍らせながら講談よろしく読み続けるその合間合間で、父龍吉は昔話や思い出話を差し挟んだかもしれない。

 こういう父子の語らいのなかで、『甲陽軍鑑』のモラルがしみこむように伝えられていく。『甲陽軍鑑』は、今のわたしたちが想像するようなストーリーでひっぱってゆく武田信玄の物語ではなかった。具体的な事例を掲げて物語りながら、いつのまにか武士としてのモラルが身についていくような、そんな書物なのである。

 折口信夫は、万葉集の「否といへど強(し)ふる志斐のが強語(しひがたり)このころ聞かずて朕(あれ)恋ひにけり」(二三六 天皇の志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜へる御歌一首)など解説しながら語部ということを言ったが、歴代の出来事を叙事しながら、そのことがそのままモラルを伝えることになるという、『甲陽軍鑑』はそういう古来の語り口をもった書物であった。

 先の口書冒頭からして、十六世紀戦国武士のもっていたモラルと、そのモラルを堂々と引け目なく押し出していこうとする、ほとんど強烈といってもいいほどの自信・矜持が感じられる。

 「我等元来(ぐわんらい)百姓」であった者が偶然召し出されて奉公専一、学問などするひまもなく文盲同然であると憚らず書くところ、さらには誰もが読めるようにあえて仮名書きで筆録すると書くところ、ほとんど何か革命的なことのように思える。これは、新しい時代の主体による、卑しめられてきた非公式文体の正式な認知をせまるものだ。





一、侍(さむらひ)衆(しゆう)大小ともに学問よくして物知り給はんこと肝要(かんえう)なり。但(ただ)し、なに本にても一冊、多くして二冊・三冊よみて、その理(り)によく  徹してあらば、必ず多くは学問無用になさるべし。ことに詩・聯句(れんぐ)などまであそばすは、なほもつてひがごとなり。(以下略)


一、学問の儀、右国持つ大将さへあまりはいかがと存ずるに、まして小身なるひとは、奉公を肝要(かんえう)にまもるひとの、学をよくとおぼさんには、無奉公に成りて家職(かしよく)を失なひ、不忠節の侍になる。(略)何(いづれ)の道も家職を失はんこと勿体(もつたい)なし。(以下略)






 「出家は仏道修行の儀」「儒者は儒道の儀」「町人はあきなひのこと」「百姓は耕作のこと」が家職である、どんな「諸細工人・諸芸能」でもその道々の業に心掛けるのが第一、武士に学問は無用と言うのである。無学無骨を嗤う公家階級に抗して、下積みから興隆してきたばかりの新しい階層のモラルを胸を張って押し通そうとする、そういう新鮮な矜持が行間にみなぎりわたっている。戦国時代がどのような時代であったか、肌で感じられるような気がする。

 父龍吉は、方代が小学校をあがると百姓仕事をたたき込み、「息子が本を読んだりするのをきらい、見付けると破ったり燃やしたりしてしまった」(方代随筆補遺『山崎方代追悼・研究』)というが、じつはこれこそが『甲陽軍鑑』のモラルなのであった。本は一、二冊でもしっかり読んでおけば、あとは学問無用でけっこう。それぞれの業をきちんと尽くせば大いばりで生きていいという大いなる自己肯定に生きる人々こそは、方代の「民衆」であった。

 だからこそ、百姓の子として生まれた方代が、父親の仕込みにも関わらず百姓としての分を尽くさず、「詩・聯句」などのようなものに嵌ってしまったこと、これは方代が年齢を重ねれば重ねるほどに、生涯の負い目になる。




  なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない





 高坂弾正の戒めにも関わらず、穴ぼこに落ちてしまって、引き返すこともままならない。しかしながら方代はその代償のように、「民衆」のすぐとなりにあって「民衆」の声を伝えていこうとする。

 方代の新仮名遣い口語混じりの歌体も、そのもっとも根底には、「仮名の本を用ふる徳」をもって非公式文体の正式認知をせまった『甲陽軍鑑』の記憶があったのに違いない。明治近代国家の上からの要請による「言文一致運動」、すなわち新時代には新時代の口語文体でというような「口語文イデオロギー」と、方代の口語混じり文体とは、動機の根底において異なっていた。それが、方代の歌が、他のどんな口語短歌とも異なって感じられる理由である。


                            (『牙』2010.8)