阿木津　英　の　仕事

　少々値段が高くても有機農法栽培をした野菜を買ったり、生活習慣病の予防のために糖分や脂肪分の摂取量を毎日の食事のなかで控えたり、昨今、誰もが気をつけている。しかし、これほどの熱心さで、心の体質改善に気をつけている人はまれだろう。

　心も、毎日見たり聞いたり、ものを読んだり、そういう栄養摂取を絶えずおこなっている。だから、添加物のあるようなものばかり“食べて”いると、心の質が悪化するし、口においしくて楽に噛めるものばかり“食べて”いると、心が肥満して病気になる。毎日の心の生活習慣は、身体と同じくらい大切なことなのだ。身体の側面にばかり気を取られて、心の体質改善とか、心の生活習慣とかいったことをまったく顧慮しないわたしたちの生活は、どこか「愚民」「愚衆」といった言葉を連想させる。

　島木赤彦は、短歌の上に写生道・鍛錬道を唱えて、のちの歌人たちにそのリゴリスティック（厳格主義的）な倫理臭さを厭(きら)われたが、しかし、古来「道」といわれてきたものにはどれも心の体質改善をしなければ達成できない何ものかがあった。武道・芸道のみならず、落語だろうが、幇間芸だろうが、また大工や人形作りにだって、心の体質改善をしてはじめて達成できる域というものがあった。

　いま、たとえば、わたしのやっている短歌だって、よい歌を作るには心の体質改善がいるということに頷く歌人が、どれくらいの数いることだろう。わたしと同世代の人々にも、このような言い方は賛成があまりないのではないかと、おそれる。

　わたしは、そのことを、自分が歌を学んでいく過程で、いつのまにか理解するようになった。二十代半ばで歌をはじめたが、そのときの心の質は今とは変化しており、その変化をわたしは「改善」だと思う。

　リゴリスティックな「鍛錬道」に自らを縛るというのでは全くない。身体を顕れとしている、この自分という存在を調えて統合し、さらに高い統合へともっていきたいという欲求、これは心の世界というものをもってしまったヒトとしての基本的な欲求ではあるまいか。そういう意味における「改善」である。

　わたしが、歌を作るという行為によって「改善」されたことの一つが、自然に対する感受の仕方だった。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（西日本新聞2003.9.30）

　子どものころ、小説冒頭の風景描写を読むのが面倒だった。ストーリーばかりが面白くてたどっていたわたしが、自然描写の味わいというものに初めて目を開いたのは、中学校での国語の授業だった。井中先生という、南方の戦線で戦ってきた先生で、生意気盛りの生徒たちが舐（な）めようったって舐められない、隙（すき）のない締まった空気を作り出す厳しさがあったが、この先生の授業がすばらしかった。

　今でも覚えているが、「梓川の流れ」という文章を、一文ずつ解説してくれるのを聴いているうちに、眼前に雪渓の残っている梓川のほとりが見えてきた。そこをのぼっていく作者の息づかいさえ感じられた。ストーリーに引きずられていくのとはまったく異なる、文の味わいとでもいうようなものが、身のうちに立ちのぼってきたのである。

　ひとりで読んだときには、面白くも何ともない紀行文が、導き手について歩いていくうちにいままで見えなかった世界がそこに開かれた。

　かといって、すぐにわたしの好みが変わり、心が成長したというわけではない。　二十四歳のとき、


　　赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり


という斎藤茂吉の歌に偶然出会い、このような歌がすでにあったのかと驚嘆して、さっそく岩波文庫の『斎藤茂吉歌集』を買い、本気で短歌をやり始めたが、さて、文庫本を開くと、とくに中期以後の歌は、自然の歌ばかり。ほんとに退屈だった。

　それでも、出会った作家である。投げ出さずに、勉強のつもりで、面白かろうが面白くなかろうが、わかろうがわかるまいが、義務でいいから声を出して読んで、好きな歌があったときには○をつけた。

　わからないものに出会ったときには、放り出したり拒んだりするのではなく、わからないまま丸ごと抱えておけばよいのである。わたしも、自分自身の作歌の階梯をひとつひとつ乗り越えていくうちに、いつの間にか、茂吉の中期以後の歌の良さを味わうようになった。

　いまや、眼前にある街路樹や、道端の猫じゃらしや、広がる湖面や、遠くにけぶる低い山脈と向き合っている歌のほうが、なまじっかな小説より楽しい。そこに生まれる空気の厚みを感じるとき、もっとも歌の味わいが深いようである。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（西日本新聞2003.10.1）