方代の修羅・・・第二十回方代忌基調講演 2006.9.22009/10/25 13:58

 方代さんが亡くなった後に、『山崎方代追悼・研究』(一九八六年刊)が不識書院から出ました。その中でわたしはヴィヨンと方代について書いたんですが、このたび何を話そうかと思ったときに、やはりこのヴィヨンということが頭に残っていまして、方代の「無頼」ということ、あるいは「修羅」ということについて話してみたい、考えてみたいと思いました。

 方代さんは、没後二十年もたつにもかかわらず、たくさんの方がこうやって集まる、そういう右左口村の「民衆」歌人、温かい、ふるさとを思わせるような歌人として知られているんですけれども、それと「無頼」とどこで結びつくのだろうか。確かに、定職にも就かないような暮らしをしてきたということはあります。

 とくに敗戦後の大変な時代に、「無頼」な日々を過ごしたということはあると思うんですけれども、しかし、ふるさとの歌人、温かい方代さんというのと、「無頼」の歌人というのと、どうもわたしの中でうまく結びつかないんですよね。

 「無頼」とヴィヨンという組み合わせはとても似つかわしいのですが、「無頼」と方代はちょっと齟齬がある。よくわからないという思いが残っていました。
 レジュメに、「方代の歌におけるヴィヨンの意味」と書きましたけれども、わたしが追悼集の評論で指摘したのは、次の三つです。


 一つは、ヴィヨンの「『追放流竄』の運命という悲しみ」における共感。これは玉城さんがあるところで、「戦争を山津波と同じ『自然』として受容するのであれば方代の嘆きはないのである」「戦争は『二つの星』とひきかえに、方代に永遠の『流竄』を宣告した」、そうお書きになっていらっしゃいます。
 戦傷者にされ、まともな人生を歩めなくなった方代、戦争によって人生を追放流竄された方代。そういう方代が、ヴィヨンの追放流竄に共鳴したのだろう、ということは考えられます。

 もう一つは、ヴィヨンの詩を読むことで、方代は、歌の中に〈方代さん〉という人物を演出登場させるようになった、そのヒントになった。たんに名前が気に入っていたことによる自然発生的なものではないということ。
 
 それからまた、方代の読んだヴィヨンは、文語に口語の入り混じった五七調の鈴木信太郎訳であったということ。

 こう整理をしてみたのですが、それにしてもやはり、わたしの頭の中にはどうしても納得できないものがずっと残っていたみたいなんです。それで、今日はその「無頼」ということをもう一度考えてみたいと。

 レジュメのⅡのところに書きましたけれども、右左口村方代おぼえがきという自筆のものがありますが、それにもヴィヨンの詩、ことに形見分けの詩が、歌の出会いになったと書いてあります。

 そらでいえるくらいになったというんですが、なぜあれほど吸わぶりつくすと言うくらいにヴィヨンの歌を読んだのか。読めたのか。
 フランスの、中世の、ずいぶん長い詩でしょう。暗記したくなるほど面白いとは、すくなくともわたしには思えません。そこまで読みこなせない。方代にはなぜそれができたのか。
 戦後の方代には、なぜそれほどヴィヨンの形見分けの詩が胸に響いたのか。今回、三つほど理由を考えてみました。

 一つは、方代の身体ということですね。方代が生まれたときに、方代の親父さんは六十五歳、逆算すると一八四九年か一八五〇年くらいになります。
 一八五〇年と言いますと、ペリーが来航したのが一八五三年なんですね。まだ江戸の時代。そこに書いていますように、フランスやドイツは二月革命があったり共産党宣言の出た年なんですけれども、明治になるのはそれからおよそ二十年もたってからなんです。ですから、父親の龍吉はほとんど江戸時代の人。江戸幕末期の山梨の寒村の農民であったということなんですね。

 お母さんは二十くらい年が違っていて、それでも、一八七〇(明治三)年。お父さんの一八五〇年生まれというのは、正岡子規なんかよりもうんと年上なんですね。

 子規は、明治元年の前の年、慶応三年生まれです。伊藤左千夫がそれより何歳か年上。斎藤茂吉とか、そのほか近代の有名歌人、みんなあれは明治の十年から二十年ぐらいまでの生まれであって、この親父さんのほうがうんと年上なんです。
 明治国家形成後の新体制下、新しい環境に生まれて物心がついた人と、この親父さんのように二十歳ぐらいまでを江戸時代で過ごしたというのでは、相当に大きな違いがあるはずです。
 
 レジュメには、「明治近代国家による、身体の国民化近代化」と書きましたけれども、明治になってから軍隊と学校、それから工場というものができました。
 明治に徴兵制が始まりますけれども、明治五年でしたか、その徴兵制度で国民皆兵になるわけなんです。最初のころは、長男は免除されるということもあったようですが、原則として国民皆兵。そこで徴兵して訓練するときに、武士と農民とでは身体の使い方が全然違っていたらしい。
 
 江戸時代の庶民、ことに農民は走れなかったそうですね。普通の人は走らなかった。走る武士や飛脚というのは、子供のころから練習していて、特殊技能らしいんです。
 手と足をこう、わたしたちは左足を出すときには右手を前に振ります。そのような歩き方ができなかった。右足を出すときには右手、左足を出すときには左足を出して、ナンバ歩きというそうですが、だいたいそういうふうにして歩いた。
 
 つまり、軍隊の行進ができなかった。いくら訓練しても、行進ができない。回れ右もできなければ匍匐前進もできない。とにかくあらゆる兵隊らしい動きができなかったらしいです。それで、フランスかどこかから先生を雇って教え込んだらしいんですけれども、どうしても駄目だったと。それで、これは子供のときから教えなければいけないというので、小学校で体育の時間ができたらしいですね。

 小学校で、行進とか回れ右とか、そういう西洋式の身体の使い方を教えこんだ。西洋式の身体の使い方というのは、中心点があって支点があって、そして身体を捻って使うらしいです。日本式の身体の使い方には、そういう支点というようなものがない。これは武術家がそんなふうに言っていますね。全く身体の使い方が違っていた。

 ですから、二十歳まで江戸時代で過ごした方代の親父さんは走れなかったのではないかと思うんです。走れない親父さんに、子供の方代が、毎日の生活のなかでいろいろなことを教えてもらう。
 うさぎの糞が何かの薬になるとか、さまざまな生活の知恵を教えてもらうわけなんですけれども、そのなかで無意識のうちに親父さんの江戸時代の身体作法といったようなものも身にしみ込んでいったはずです。
 
 もちろん小学校に行っていますし、体育の時間もあるわけですから、方代が走れなかったとはまさか思いませんけれども、家庭で身につけた身体作法と学校の体育で教えてもらうことには若干のギャップがあっただろう。
 寒村の小学校だから、そんなにやかましいことはなかったかも知れませんが、軍隊式の身体の使い方には必ずしも器用ではなかったのではないか。


 それともう一つ、学校、軍隊、工場は、抽象的な時間による身体の管理がなされる場所です。
 工場労働者は、毎日、朝九時に仕事が始まって、昼になったら鐘が鳴って、一時間休んでというぐあいに、抽象的な時計の時間で、分秒単位で管理されます。ところが、農民というのは、いつ種を植えるか、いつ肥料をやるか、いつ稲を刈るか、決めるのに、具体的にその年の稲の育ちぐあいとか、その年の天候とか、総合的に見ながら決めていくわけですね。抽象的な時計の時間で決めるわけにはいきません。

 農民の身体に入っている時間感覚と、工場労働者のそれとはまったく違います。だから、産業革命後の資本主義社会では、抽象的な時間による身体管理を子供のときから学校で訓練して、有用な工場労働者を作り出していかなければなりません。

 ところが、方代はこれも駄目だった。戦前、古河電鉄かなんかに勤めたけれども、すぐに辞めた。五分くらい遅刻するものだから、出社しないでどこかで遊んで、時間になったら帰ったという話も残っていますけれども、そういうふうなサラリーマン、工場労働者になることが、方代にはなかなかできなかったわけですね。

 それはやはり、江戸時代の身体作法をもった農民である父親龍吉に育てられた方代の身体といったようなものがあったからではないか。とことん、こういう近代的なものに馴染まない身体がまずそこにあった。軍隊生活が馴染まなかったというのも、一つにはこの問題があるだろう。

 方代のみならず、そのころはまだ、田舎の農民にはそういう人が何人もいたと思うんです。詩人の井上俊夫さんに『初めて人を殺す』という本があります。これは岩波現代文庫に入っています。井上さんもやはり農民出身で小学校卒の学歴ですが、詩や文学が好きで、独学で勉強していた。昭和十八年に二等兵で入隊していますが、中国大陸で初年兵教育を受けたときのことを書いているのが、この『初めて人を殺す』という本です。

 同じ仲間に、馬場二等兵がいた。これはグループのなかで一番とろい人です。小学校を出てから百姓一筋でやってきた人で、井上二等兵と同じ農民出身だから親近感を感じているらしく、手紙が来たといっては読んでくれ、手紙を書いてくれと、頼まれる。

 馬場二等兵の家は、お父さんが早くに亡くなって、お母さんと妹の三人暮らし。母親は文盲で、妹が手紙を書いてくるのですが、「お母ちゃんと二人で、兄ちゃんが無事で帰ってくるのを首を長くして待っています」と、そんなことばかり書いてある。

 これでは具合が悪い。御国のために頑張ってくださいと、一言付け加えてないと、お前のところは一体どんな銃後の生活をしておるのかと注意されるそうなんです。馬場二等兵は馬場二等兵で、「おかんの顔を見たい」「田圃がどないになってるか気にかかって仕様がない」と、そんなことばっかりを手紙に書いてくれと頼む。それでは困るわけですね。検閲が必ず入るわけだから、天皇陛下のためにわたしは一生懸命頑張りますと、最後に付け加えないといけない。

 また、字が読めないものだから、一回読んでやった手紙を何回も読んでくれ読んでくれとやってくるわけです。仕方なく読んでやると、時と場所もわきまえずに大粒の涙を流して泣く。そんなのを見られた日にはビンタです。読んでやった方も、読んでもらった方も両方ビンタですよ。あぶなくてしようがない。

 それに動作がとろくさくて、へまばかりする。軍隊式に身体が動かない。夜中に非常呼集がかかると、闇の中で自分の服装を整えなければいけないんですが、馬場二等兵は間違って人のものを着たりするから、となりの兵隊は困るわけですよ。結局列に並ぶのが最後になってしまって、またビンタを張られるわけですね。この馬場二等兵が、一番リンチを受けていたそうなんです。

 ある晩、夜中に非常呼集がかかった。営庭に並ばされて、行進していくと、炊事当番かなんかしていた中国人の捕虜が日本の兵隊服を着せられて、木に縛りつけられていた。リュウという名前だったのですが、それを今から、初年兵教育の仕上げとして銃剣で突けというわけです。刺突訓練というんでしょうか。中国大陸ではだいたい組織的にこのような初年兵教育の仕上げが行われていたらしいです。

 だいたい捕虜をそんなふうに扱っては絶対にいけないわけで、国際法の違反です。けれども、日本の軍隊は、中国大陸では捕虜をとらないと決めていた。つまり、殺す、処分するということ。同じ処分するなら有効利用をと、各部隊に下げ渡して、初年兵教育の仕上げの刺突訓練に使った。将校教育の仕上げには、下士官が一人ずつ日本刀で斬首したそうです。それが、組織的に行われていた。

 で、一列に並んだ初年兵に、さあ誰が一番に突くかと、隊長が言うわけです。当然みんな尻込みをします。最初に来た者からやらせてはどうでしょうと教育係が言うと、隊長が「いや、一番最後に来たやつにやらせろ」と言う。最後に来たのは、馬場二等兵なんですね。

 リュウは「私、殺す、いけない。私、殺す、いけない」と叫び、馬場二等兵は「嫌だ、絶対に嫌だ、それだけは堪忍しておくなはれ」と梃子でも動こうとしない。

 誰か最初に行くやつはいないのか、幹部候補のやつはどうした、そう言われて、幹部候補生を目指している者は点数を稼ぎたいので、渋々ですが、行くんですね。わあっと言って、突進して、太股かなんかを突き刺すわけなんです。

 そうやって一人一人木に縛りつけられている捕虜を突いてゆき、井上二等兵も突きます。ところが、馬場二等兵は最後まで頑強に抵抗して動こうとしない。これでは教育係としては面目がたたないので、どうやらこうやら手をそえて、息絶えた捕虜をかたちばかり突かせたということです。

 こういう話を、じつはこの夏、ある大学の集中講義で話しましたところ、そこに中国からの留学生がいました。中国人は、この初年兵教育に捕虜を使ったということを誰でも知ってるそうです。

 ところが、わたしたちはほとんど知らなかった。少なくともわたしは、この本で初めて知りました。いま、『蟻の兵隊』という映画が来ているそうですが、そのなかでも初年兵教育の仕上げに捕虜を使ったことが一つのテーマになっているようです。(後注・捕虜だけでなく、スパイの嫌疑をかけられた村人や女学生も犠牲になったという)。

 確かに戦争なのだから、人を殺すということはあるわけなんですけれども、訓練の仕上げに、無抵抗の捕虜をこのように殺して、それで度胸をつけさせる。つまり、一線を踏み越えさせるわけです。それが手始めで、病みつきになって、快感にもなる、やめられなくなる。日頃、リンチを受けている兵隊は、中国人の民家を襲って、窃盗し、強奪し、強姦する、そういうことが快感になるということがあるらしいです。

 方代がいたのはチモールですから、状況はまったく同じとは言えません。しかし、将校としてチモールにいた前田透の文章を、田澤拓也さんが引用していましたが、上陸すると、あたりはひっそりとしていて、荷物を担ぐ原住民のほかには住民の影一つなかったと書いてあるんですね。
 ええっと思うんですね。原住民は、そうすると住民ではないのかと。そういう意識をもった日本軍がいるわけです。

 方代が、実際に戦地では病院にいる時間が長かったとしても、少なくとも四年間のうち半分は南方の戦場にいたわけですから、何があったかわからない。どんなことも起り得たと考えたほうがあたっているのではないか。

 「追放流竄」というのは、方代が戦傷者にされてしまったからではなくて、むしろ自分が加害者だったからではないか、加害者の思いがあったのではないか、あったはずだ、と、『初めて人を殺す』のようなものを読みまして、わたしは思うようになりました。

 方代は、この馬場二等兵ほどとろかったとは思いませんけれども、もう少し要領良くやっただろうと思うんですけれども、似たような身体感覚をもった方代が、実際に人を殺すという加害者の立場で過ごした戦争の後、非日常から日常の世界にもどってきたとき、その記憶にどれくらい耐えられるんだろうか、と思うんです。
 馬場二等兵は、最後に嫌々突いたのですが、誰よりも耐えられない思い出になっているはずだと、容易に推測がつきます。井上二等兵も、その最初の殺人が忘れられなくて、誰にも妻子にも言えないできた。(後注・ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』の主人公もそうだった)。

 そういう目で、方代の歌を見てみました。戦争中の歌はありませんが、戦争から帰ってきてから歌が出てきます。



  甲板の結べる霧ににぶき重き額をおしあてなどして支へたり                                『一路』昭和二十三年一月号
  食い飽きしナナスカラバを尚食いて郷愁の言の雨をふらしき                                同三月号
  ゴム林をゆりし自決の一弾の短き重き音のまぼろし
                           右同



 こういう戦争で苦労した歌、いわば被害者としての歌が出てくるんですけれども、昭和二十三年四月号の、これは何だろうと思うんですね。



  死にたれば額の際のなびきたる赤き生毛にふれてもみたり
  
  身震ひをし乍ら急ぐ手の中に温められしはライターのみなり



 四月号には、この後に〈幼児の頭をなでて戦の終りたる日を聞くはせつなし〉〈交はりの線をはづして批評するかなしき垢を心につけて〉がありますが、右の二首はどうしても続けて読みたくなります。

 死んだので、額際のなびいている赤い生毛に触れても見た。身震いをしながら急ぐ手の中に、ぎゅっと握って温められていたのはライターのみだった、という。
 「死にたれば」というのは、何なのだろうと思うんです。様々な状況が考えられますけれども、一つの可能性としては、殺すつもりではなかったけれども殺してしまったというふうな場面とも考えられる。

 それから、「赤い生毛に」という、この赤い生毛って何だろうと思うんですよ。赤毛の人かな。日本人じゃない感じだなと思うし、謎の歌ですよね。よくわからない歌です。
 このような歌があるということですね。これ以外に、方代の歌に自分が殺人をしたと読めるような歌は見つからない。
 そういう目で見れば、これが一番そう見える歌。正規の戦闘とは別の出来事のように見える歌です。

 ヴィヨンは司祭を殺して、窃盗もして、そういう犯罪者ですが、方代も俺も人殺しだと。
 部隊の一人として戦闘中には当然誰かを傷つけている可能性が高いわけですが、それは兵士としての義務であり、「正義」です。
 しかし、先ほどの初年兵教育の話のように、戦場では殺す必要のない殺人がしばしば行われている。戦闘が終わったあと、民間人の家に押し入って強奪したり、強姦したり、そんな話は日常茶飯でした。
 とくにチモールでは輸送ルートが絶たれて、食糧がなくて飢えたようですから、何があってもおかしくない。そんななかに方代もいて、右のような謎めいた歌がある。

 そういうふうに考えてみたら、ヴィヨンが人殺し、窃盗犯でありながら、偉大な、何世紀も後に名が残る詩人であり得た、というのは、方代にとっては、大きな救いだったかもしれないんです。

 方代には、やはり自分は人殺しだと、あるいは犯罪者だというような思いが・・・まあ、だいたいの人は戦争中のことは戦争中のこととして、割り切って、黙って過ごして、善良な市民として戦後を生きていったのでしょうけれども、腹の中ではそれは絶対に消えない記憶として残ります。

 香川進という歌人がいますけれども、この人は将校でしたが、『氷原』という歌集に歌が残っています。生きて帰れると知っていたらやらなかったことがたくさんあると。やはり、同じような状況だろうと思うんですね。

 自分は人殺しだ、犯罪者だ、まともな道を踏み外した人間だ、こうなっちまったからにはもっと悪くなってやる、そんなふうに思っても仕方がない。思うほうが、戦中から戦後への切り替えを器用にやるより、自分自身のなかに齟齬が起きない。
 自分は、戦争なんかに引っ張られて人非人にされちまった、人非人になっちまったからには、この道を行くところまで突き進まなければしようがないんだと。
 そのとき、たった一つの杖は歌である。歌が救いとなっている人生ですね。そういう生き方を教えてくれたのが、ヴィヨンだったかと思うんですね。

 ヴィヨンの詩集を手に入れたのは昭和二十四年一月のようですので、それを読んで、歌を作って誌上に出てくるのは、二月か三月くらいになります。とくに、昭和二十四年三月くらいになりますと、もう歌の勢いが違ってきます。
 はっきり自分の位置は犯罪者、ならず者のほうですね。



  汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく



 「汚れたるヴィヨンの詩集をふところに」、すなわちヴィヨン詩集を杖とし、歌一筋に、歌だけをふところにして、「夜の浮浪の群」つまり市民の生活ではなくて、市民外、欄外の生活、まっとうな人生ではない、これこそは無頼といっていいわけなんですが、そういう生活を積極的に選んで入っていくのだという勢いが、この歌には感じられます。

 これは、自分は戦傷者で、まともな仕事ができない、仕事を見つけることができないので、やむなく浮浪者の群に入っていかざるを得なかったという、そういう消極的なものではなくて、積極的に自分は浮浪者の群に入っていくのだと、そういう勢いのようなものが、レジュメにあげた昭和二十四年三月あたりの歌からは、はっきりと見てとれると思います。


 
  ゆく所までゆかねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ                             『工人』昭和二十四年四月



 人非人になってしまったからには、人非人の道を最後まで貫くよりほかしようがない。
 歌を手に握りしめながら。「ゆく所までゆかねばならぬ告白」は、歌一筋という以上に、人非人の道を貫くと読んではじめて「ヴィヨン」が生きてくる。



  十月三十日のあけのわさびの強い香よ人間に近い泪をながす                              『工人』昭和二十四年十一月



 「わさびの強い香よ」というのは、あのわさびを食べると鼻がつーんとして涙がぼっと出る、あの感じですね。「人間に近い泪をながす」、自分は人間ではないんですね。一人の「修羅」なわけです。

 このように、もともと軍隊というようなところにはまことに馴染みの悪い身体をもった方代が、戦争にむりやり引っ張られて戦傷後遺症を負ったのみならず、人非人にされちまった。
 まともな人間の道を踏み外した者であるという記憶をもち、その身体の中の記憶を器用に割り切ることができない戦争帰りの男。
 軍隊に馴染みのわるかった身体だからこそ、いっそうそうである。そういう身体が、戦中戦後を齟齬なくおのれを貫くことのできる生き方、それを方代はヴィヨン詩集に教えてもらったといっていいのではないでしょうか。


 さらにもう一つ、ヴィヨンの詩から獲得したものは「復讐と贈与」ということだと思います。
 復讐の表出の仕方といいましょうか、復讐、怒り、「何で俺をこんな人殺しにしちまったんだ」という怒りですね、その表出をしていいんだということ。
 軍隊に馴染みのわるかった身体、その身体の底から嫌だった軍隊生活のなかで、リンチを加えた上官や、さまざまな許せない出来事があったことでしょう。それらに対する復讐の心の真っ直ぐな表出、それがこの昭和二十四年のヴィヨン読後からはっきりと出てきています。

 広中淳子という名は、方代が慕情を捧げた相手としてよく出てくるんですけれども、今回、高村寿一さんがその著書で広中淳子の歌を掲載してくださっているのを見て、はっとしました。
 広中淳子という名から想像するような美しいおとめの歌ではないではないか、と思ったんですね。
 まったく、復讐と哀願、呪詛の歌ですね。騙した男を許せない、その哀願と呪詛をうたっている歌です。



  君が娶る春の夜にして七度の七十倍までの寛き心なく
  
  里遠き深夜の窓に哀願と呪詛をいだきて歩みよりたり
  
  復讐は身にかえりくることと知りながら思い描きぬ硝子窓透きて                  


 歌は拙い、歌を始めたばかりかなというような感じの歌ですけれども、これは絶対に裏切った男を許すことができない、復讐してやる、呪ってやる、そういう歌なんですよね。
 思い切った復讐の表出をしています。これを見たときに、方代がなぜあんなにまで広中淳子を慕って、というか、会いたいと、会いに行こうとまで思ったのか、わかったような気がしました。
 
 まさしく同じ魂をもっている、「広中淳子の、あなたの心は俺しかわからないよ」といったような思いだったんだろうな、この暗い怒りをわかってあげられるのは俺しかおらんと、そういうふうに思ったんだろうなと思うんですね。
 同じような気持を、ヴィヨンが形見の歌で書いています。とびとびに部分的に引用しますと、



  恋愛の獄舎(ひとや)の覊絆(きづな)を 断ち切ろうと
  思ふ気持が 強く浮かんだ。

  女に対する復讐を 恋愛の
  あらゆる神に 祈願して、
  恋の痛手(いたで)を和(やはら)げる 祈りを献げた。

  五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。
  所詮、この身は 恋愛の聖者の中に
  名を残す 殉教者(じゅんけうしゃ) 恋の使徒。

  一(ひとつ)、さきに語つた わが恋人に、
  あまり邪険(じゃけん)に 棄てられて
     ・(略)・・
  俺は 自分の心臓を 手筥(てばこ)に入れて女に贈る
                                   (鈴木信太郎訳)



 この形見の歌は、窃盗してとんずらするというときに書き始めるわけなんですけれども、その出だしに、今まで邪険に扱われてどのようにしても振り向いてくれなかった女に、思いを断ち切るちょうどよい潮にするというんですね。

 「五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。所詮この身は恋愛の聖者の中に名を残す殉教者恋の使途」、そう言って、関わりのあった一人一人に、こういう形見をおまえに残そうとあげていく。それで形見の歌なんです。

 この女には、「あまり邪険に棄てられて・・俺は自分の心臓を手筥に入れて女に贈る」と言っています。好きで好きでたまらなくて、哀願するのに、邪険に「あんたなんか死んでしまえばいい」と言われて、とうとう自分は断ち切るんだと。そのあなたに愛憎こもごもまじった復讐として「心臓」を贈る。

 どうも、わたしが思うには、方代には広中淳子以前に、何かそのようなことがあったんじゃないかと思うんですよね。想像ですけど。
 たとえば、



  自首に立つドンホセにあらず墓山を降りて夜の海に近づく
                            『工人』昭和二十四年三月
  可愛さあまって憎き心の行動を押えんと白夜の駅に下りたつ                                『工人』昭和二十四年五月



 ドンホセというのはカルメンの恋人で、カルメンがどうしても「うん」と言ってくれないものだから、殺すんですね。その殺したドンホセが自首しに行くんじゃないんだ、逃げる、ということなんですね。
 それから、昭和二十四年七月には、



  そむきたる汝には絹の臀の重みにたえる紐を送らん



 自分に背いたおまえには、自分で首を吊るための絹の紐を送ってやろうというんですね。これは、形見の歌の中からヒントがあるんですけれども。
 しかし、ヴィヨンを読んで、その熱に浮かされてこんな文学的虚構をしたというより、多分、方代には、広中淳子以前にこういう、好きで好きでたまらなかったのに邪険にされた経験があるのではないのかなと思うんです。
 広中淳子も、男に騙され、哀願と呪詛に身のやるせない、追いつめられた者。同じ魂を発見した思いで、あんなに執着したのではないかなと思うんです。これは推測にすぎませんね。証明はできないわけなんですけれども。


 もう一つ、方代がヴィヨンの形見の歌から得たもの。方代は、この詩をそらで言えるようになったよというんですね。なぜ、それほど形見の歌が好きだったか。
 長いんですよ。ものすごく長い詩です。八行が四十節ある詩なんですが、これはそこに「復讐と贈与」と項目を立てましたけれども、「復讐とは、贈与の一形態である」ということを、方代は形見の歌から読み取ったんだなと、わたしはこの年になって形見の歌を読み直して、ようやく理解ができました。

 復讐するということは、贈り物をプレゼントすることと同じなんですね。御礼参りと言いますけれども、確かに御礼参りなんですね。しかし、お礼参りっていうのにはやはり、力には力でという感じがありますけれども、そうではなくて、プレゼント。
 で、そのプレゼントの仕方がヴィヨンはたいへん面白いわけなんです。わたしを可愛がってくれたお父さんには天幕(後注・天幕や陣幕を贈るのは自己を騎士として自負して残すのだという)をあげましょう、恋人には自分の心臓をやろう、そんなふうに関わった人にプレゼントの品々をあげるんですが、それがみんな空手形なんですね。自分がもってないものばかり。
 おそらくこの当時の人が、この形見の歌を聞いたらワッハッハと言って腹を抱えて笑っただろうと思われるんですね。
 非常に皮肉のきいたものなんです。相手を嘲弄したり、今ならギャグというんですか、皮肉があって、しかもそのなかに愛情もこもっていて、形見の品々をつぎつぎにあげていくことで意趣返しにもなるというものです。

 たとえば、屠牛夫(うしごろし)のジャン・トルーヴェには『羊』の看板に『牝牛』看板を添えてやると。こんな看板が中世の街路には目印としてあったようです。『牝牛』の看板には、「強力無双の百姓が背中に背負ってる」絵が描いてある。それを遺贈するというんです。もちろん、自分のものではありません。「若し、百姓が渡さない時は、手綱で首を絞め 絞め殺しても 苦しうない」。絵に描いた牛を渡せるわけも、殺せるわけもない。

 わたしは、この四十節もある形見の歌のおもしろさを、注釈があったってよくは読みこなせないのですが、それを方代はちゃんと受け取っているわけです。そうでないと、全部そらで言えるくらいに読めません。いったい、方代は、学者でもないのに、どうしてそこまで形見の歌を読みこなせたのか。
 それは、この形見の歌に通底している精神、復讐するとは贈り物をあげるということなんだということ、それを直観的に読みとったからにほかなりません。たとえば、つぎの歌は随分あとからのものではありますが、



  山椒の棘を生かせし摺り粉木を仕上げて形見の品に加える



 摺り粉木なんかも形見の歌に出てくるんですが、これは山椒の棘を生かした摺り粉木ですから、とげとげがあるんですね。とげとげのついた摺り粉木ですよ。これをプレゼントするんですね。誰にするのか。握ったらちくちくと痛いですよね。こういうふうな贈り方、まさしくこれがヴィヨンの贈り方なんです。
 ヴィヨン読後の昭和二十四年三月にもつぎのような歌があります。



  おから寿司水と一緒にのみおろし売られゆく娘にマフラを投げる



 有名な歌ですが、これもマフラーなんか持っていやしないのに、マフラーを投げると言うわけなんです。プレゼントですね。自分はこの娘にこういうふうにあげたい、あげるぞと。同じ月の歌ですが、
 


  父知らぬ子を産みおろす若き娘に生の卵を一つ置いて去る



 そんなことしやしないのに、しかしまあ、そう言うわけですね。これはやはり自分の形見、プレゼントだと思うんです。必ずしもここには復讐は入っていませんけれども、そういう憐れみがプレゼントとして表現される。そして、自分を邪険にした者には「そむきたる汝には絹の臀の・・」となるわけですね。

 このような、復讐とは贈与の一形態だということ、このような復讐の仕方を、方代はヴィヨンから学びました。
 復讐というと、ふつう「憎悪」、憎しみを相手に返すんですが、恋の恨みのみならず、戦争なんかに引っ張り込んで俺を人殺しにしちまいやがってという、その恨み、呪詛や怒りをあらわすのに、贈与の形であらわしていく、そういう表し方を、ヴィヨンから方代は受け取ったんですね。

 ヴィヨン読後、方代はそれをただちに理解した。呪詛や怒りでいっぱいになっていた方代には、それが必要だったからです。
 そして、この贈与によってする復讐が、長い時間をかけて、方代の晩年にはまさしく贈与そのものになっていくわけなんですね。怒りが昇華されていくわけなんです。



  欄外の人物として生きてきた 夏は酢蛸を召し上がれ



 欄外の人物ですから、自分はまっとうな市民ではない、外側にはじき出された人間として生きてきた。当然、その恨みもあれば怒りもあるわけなんですが、それをすべてひっくり返すかのように「夏は酢蛸を召し上がれ」と贈与するんですね。
 「召し上がれ」というこの言い回しも、じつはヴィヨンの形見の歌のなかにあるんですが、これもプレゼント、贈与です。

 このような、怒り、復讐、そういったようなものを機知によって哄笑とともに相手に返していく。
 憎しみ、憎悪ではなくて、笑いとともに快活に相手に返していく、そして最後には笑いだけになるという、この形。
 方代は、最後にはそこまでもっていったんだなというようなことが、わたしには今回わかった、感じ取れたわけなんです。


 このような方代の傍証のような意味で、レジュメに、首の歌をすこしあげておきました。



  ギロチンはまずギロチンに生きながら己れの首をはねはぶかしむ                                  昭和三十年一月
  がむしゃらにゆかねばならぬがっしりとこの男には首がないのだ                                   昭和四十二年十月


 
 昭和三十年、もう徹底的に悪くなってやるという形で逃亡していって、「己れの首をはねはぶかしむ」。これは過去を振り向かない、きょろきょろして迷うような首を切らせたという意味もあると思いますが、一つの自己処刑、自己処罰ということも考えられます。
 昭和四十二年になりますと、首のない男が登場してくる。昭和四十四年には、首のない男が何首も出てきます。
 ところが、昭和四十八年四月になりますと、首が出てくるんですね。



  ずっしりと両肩に首をめりこまし季節の朱い花買っていた



 季節の朱い花を買うというのは、何か恋人にあげる花のような感じですが、昭和四十八年は『右左口』が出た年です。昭和五十年ではまだ「首のない博徒がひとり住んでいて」とうたうんですけれども、昭和五十三年三月になると



  両肩に首をがっしりとうめ込みし男が山を降りて来にけり
 


 首ががっしりとついて、振り向かなくてもいいような、振り向きもしないようにがっしりと首を埋め込まれた男が山を降りていくんですね。このような、犯罪者としてギロチンで首を刎ねられるべき男の生涯にわたる叙事詩といったことも、見てとれます。

 今回、もういちど方代におけるヴィヨンの意味を考えてみまして、戦争被害者としての方代ではなく、加害者としての方代という視点から見て、方代の修羅、方代の無頼といったことがいくらかは合点がいったというふうな思いをしております。

 そして、復讐とは贈与の一形態であるということ。ヴィヨンから学んだ復讐の表出の仕方は、笑いとともにプレゼントすることであった。これを、血を血で洗い、憎悪を憎悪で洗う戦争から帰った方代が掴んだことの現代的意味はまことに大きいと思われます。
 どうも今日はありがとうございました。

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