続『方代』論2009/11/14 13:55

 山崎方代没後、一周忌の夏、『山崎方代追悼・研究』(不識書院)が刊行された。一九八六年のことである。

 わたしもこれに、「鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩抄』から引き出されたもの」という、主として第一歌集『方代』を対象とした作家論を寄せたが、その末尾はこの種の文章としては破格の、終わったような終わらないような、フェイドアウトになっている。

 方代が方代となっていく過程はどのようなものであったのか、という課題を自らに課して書いたが、あれではまだ半分で、『方代』後半に色濃い高橋新吉や尾形亀之助との響き合いを書かなければならない、そのうち書こう、と思ったからであった。思い続けて、すでに十六年。

 この間に種々の方代論も現われた。この後にも現われるだろう。もう必要ないかもしれない。それでも、何か自分の始末がついてないようで、心が残る。そこで、このたびは、高橋新吉の言葉との響き合いを中心に少し考えて見ようと思う。

 全歌集年譜では、一九四八年の項に「この頃、詩人近藤東から尾形亀之助の詩集『障子のある家』を譲り受け、読む」「『新吉詩集』を耽読」とある。

 高橋新吉が、『高橋新吉の詩集』を出すのは、一九五〇年。『高橋新吉詩集』を創元選書から出すのは、一九五二年。この年、「工人」が終刊。方代の歌は、前年八月号を最後に、一九五四年六月まで全歌集「 資料」篇には見えない。

 歌の無い時期、方代は、この二冊の新吉の詩を読みこんでいたのだろうか。『方代』二百首中後半百首は、一九五四年から五五年夏にかけて作ったもののようだが、ここには高橋新吉の痕跡を随所に見ることができる。


  おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり


  高橋新吉先生の御説によれば神様も法則にして木の葉のごとし



 『迦葉』に収められた、死の数カ月前の作品である。尾形亀之助とともに、高橋新吉が現れている。方代のような歌人は、たんなる気まぐれや思いつきや偶然で、他の影響を受けるなどということはあり得ない。

 鈴木信太郎訳ヴィヨンと尾形亀之助と高橋新吉、そして甲陽軍艦は、方代の歌を形成していくための、ぜひとも必要な栄養素だった。その痕跡は、生涯にわたって見られる。方代は、それらを徹底的に吸わぶった。

 そこで、問うのである。『方代』刊行直前の方代は、とりわけ高橋新吉の詩が、なぜ必要だったのか。ばくぜんと疑問を心に置いて、全歌集資料篇をはじめから読んでいった。

 わたしは、この資料篇を読むのがじつに好きである。二十歳そこそこの短歌にのぼせた貧しい青年が、畑仕事もろくにしないで日がな歌会に出て行ったっきり、親の目を盗んでは金をくすねて会費に使い、昼も夜ものどが灼きつくように短歌のことを思っている。その希求の激しさに、おのずから新しい出会いの扉がひらき、青年はむさぼるようにそれを飲みほす。

 そこには、ほとばしるように歌うこころが、時に語のつながりの変な、時に文法まちがいの、歌の上に流れ出ている。



  父と母しかといだきて永久に土をたがやす吾が運命なり


  草ぶきの家屋の破れに露おりてたまたま燦めく星の明かりに
  

  十三人生まれしはらから十二人死してのこるは吾一人なり



 それぞれ、昭和十年九月、昭和十一年一月、同十一月の、山崎一輪時代の歌。すでに、父も母も目が不自由になっていた。
 
 歌は、父も母も盲いの貧しい家の一人子であることに、美しい昔話のような、自らをその主人公のようにも思いなし、そこに切実なる興趣を覚えて、うたいあげている。その叙事的な仕立てが、わざとらしさや自己陶酔の嫌みを伴わないのは、歌うこころにひたすらに言葉を乗せているからである。
 兄弟が十三人生まれて十二人死んだなんて、思わずわたしは年譜をめくり返してしまった。
 この嘘っぱちも、歌うこころが、その勢いに乗って、ちょうど筆が紙をはみ出してしまうように、はみ出したのである。
 有名な、ほんとの嘘、の機微は、ここにある。この歌うこころこそは、終生、方代の根っこだった。



  あれは地球の壊れる音ではないか。      
 
  茶碗の中に梅干の種が二つある。       




  ほしいままに地上に充ちているものもすでにおかされていると思う 

                 

  茶碗に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ



 前者は、高橋新吉詩集『霧島』の「不思議」という詩の「一」である。二行の間は、一行分あけてある。
 後者は、歌集『方代』から。隣同士に並んだ歌である。



  わが父は                  
  日まはりのかげに
  たたずみて
  猫とたはむれゐたまひしに、
  秋風の吹き初めしころ
  冷きむくろになりたまひて
  手には乾きたる一握りの土を持ちて
  ゐたまひたり。




  死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ



前者は、詩集『新吉詩抄』の「わが父」。後者は、『方代』。



  父上よ わたしが生きて居りますことはあなたのおかげで
  あります。何うか此のやうな見苦しい朽葉のやうな言葉を書きつらね  て 多くの人の目に触れるやうな事をするのをとがめないで下さい。  冷えた茶を啜り終るやうに私もやがて残生を急ぎ足で終ろうと思つ  て居ります。



  がぶがぶと冷えたるお茶を呑み終る如くせわしく終らんとする



前者は、詩集『雨雲』の「残生」。後者は、『方代』。

 高橋新吉の詩といえば、一九五〇年刊『高橋新吉の詩集』に収められた「日が照つてゐた//今から五億年前に」(「日」)、「留守と言へ/ここには誰れも居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る」(「るす」)というような詩が有名だ。のちに飯島耕一が「詩人の笑いとはこのようなものである」といいつつ、発表当時には「ちょっと禅坊主臭」く感じられたという(「形而上的詩人・高橋新吉」)これらの詩を、方代はむさぼるように読んだのであったろう。


 これ以上新吉の詩をいちいち引く事はさし控えるが、「皿の上にトマトが三つ盛られおるその前におれがいる驚きよ」「机の上にひろげられたる五本の指よ瞳に見えるものみな過去である」などなど、『方代』後半の存在・死・時間・空間をうたう歌は、新吉の詩に響き合うようにして生まれている。

 五億年も一瞬も同じ、存在の現前も消失も同じ、とするこのような超時間的な思考法は、『方代』前半百首で、ヴィヨンに刺激されつつ「方代」という語を歌に詠みこみ「方代」誕生をさせたのち、そのような歌の叙事化の方向にある種の矯正を加えたといっていいだろう。
 後半百首では、「方代」という語を歌いこんだ歌は、一首のみ。次のようなものであった。



  このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし



 「方代」から、方代を完全に引き剥がすために、このような否定の一段階が必要だった。そういえないだろうか。
 叙事化すると、歌がだめになることは、わたしたちのさんざんな試行錯誤による経験から明らかである。方代は、そこを乗り越えるために、超時間的な思考法、物の見方を必要とした。つまり、歴史ではなく、神話化へと向かうために。

 また、新吉の、禅語的な短簡な直観的な詩語も、引用に見るように、詩の一部を歌に仕立て直すような形をとりつつ、大胆な口語取り入れの呼吸を作り出していくのに役立っただろう。 
 しかし、高橋新吉の詩と山崎方代の歌と、遠望するとき、明らかな違いが見える。新吉の詩はあくまでも散文詩、禅などの教養もときに露出し、大上段から切って捨てるようなところがある。
 じつは、この切って捨てるような、突き放すような否定の調子も、『方代』の時期の方代には必要なこころの調子だった。
 だが、方代の歌はもともと、歌うこころの所産である。禅臭などはきっちりと避けた。その思い切った口語も、歌うこころによってこそ、すみずみまで血が通うのであった。


                                    (『方代研究』2002年?)