方代散策――『迦葉』を読む(4)2010/09/21 09:04

   十一、学校


 学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる




 「一休」つまり一休みだから、ここで一服の「一ぷく」さんというわけかしら。本当の一休さんはとてつもなく偉い人らしいが、「学校を出ていないゆえ」難しいところはわからないので今も「一ぷくさん」などとダジャレで親しげに呼んでいる――。

 「今も呼んでいる」のは、人かわれか、特定できない。方代の歌は、時間軸の上に位置づけて解釈できないのと同様、歌の主体が「われ」か「人」かということも決定しにくい。そういう作り方をしていないのだ。読む方が、勝手にこれは方代(=作者)のことだと決めて解釈しているだけの話である。

 周知のとおり、一休禅師は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、後小松天皇の落胤とも言われ、自由奔放、風狂の精神に生きたとされる。とんちの一休さんは、民衆の共感によって江戸時代につくられたフィクションなのだそうだ。

 歌は、控えめになされた民衆の主張である。難しいことはいっさいがっさい丸め込んで呑み込んだ民衆の共感というものこそ真を突いている、それでいいではないか。「学校を出ていないので」と言い訳をしてへりくだりながら、歌はそう主張するのである。

 知的エリート層に対する「民衆」、歴史を動かす有名人に対する無名の人々、そういう層に照明をあてる学問や評論や運動はこれまでにもたくさんあった。わたしはいつもその前で立ち止まり、警戒しないではいられない。しばしば、そこから偽善と感傷と陶酔とがにおってくるからだ。「民衆」に知の照明をあてて対象化するというそのこと自体が、高みの位置を証している。

 そういう「善意」の知的エリート層の感傷から立ち現れた〈民衆〉の幻影を、民衆の側から内面化して反復する、という心理も、またあるのであって、それも嫌だ。

 方代のいう「民衆」は、それらに類似したものなのか。それとも違うのか。違うとすれば、どう違うのか。そういう疑問は、ながく胸にとどまっていた。

 わたしは、いまここにある「学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる」という歌を、ほとんど犬のように嗅ぎ分けてみようとする。そうしてついに、一片の偽善も感傷も、ルサンチマン(怨恨感情)もコンプレックスも感じられないことに、目をみはる。読後にまったく嫌な味が残らないのである。

 方代は、昭和初頭の片田舎の尋常高等小学校卒でしかない。立身出世の学歴社会にあって、貧困や家庭環境によって高等教育を受けることができず、やっと作歌に慰めを見出したり、奮起して働きながら学費を稼いだり、そういった歌人はいくらもいた。ことに大正末期から昭和初期にかけては労働運動が勃興し、渡辺順三や坪野哲久など、マルキシズムに覚醒していく者も多かった。

 当時のほとんど流行とも言うべき社会主義の方向に、なぜ方代は関心を惹かれなかったのか。なぜ、方代の歌には学歴コンプレックスらしいものが感じられないのか。社会主義の根底にはルサンチマンが潜むとニーチェは喝破したが、そういう社会に対する恨みつらみや、反語や当てこすりや居直りのような嫌味が、方代の歌にはまつわっていない。それでいて、ものの真を突く直観をもった民衆としての場所に立っている。

 方代は、いかにして民衆の言葉を語り得たのか。

 『甲陽軍鑑』によってであろう。今、そう言えるように思う。全歌集年譜を見ると、昭和三年、十四歳の年に「父龍吉から甲陽軍鑑を勧められ読む(方代談)」とあるが、『甲陽軍鑑』は以後、方代の土台をつくりあげた書であった。



  なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほつと安気なんだよ



 『迦葉』の最後の方にはこのような歌もある。『甲陽軍鑑』が方代にとって重要な書物であったことは、疑いない。しかし、それが歌そのものとどのように関わってくるのか。玉城徹は『迦葉』解説で、方代の方法論二方向の一つとして「叙事詩的性格」をあげ、「方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている」と短く触れたが、ほかにはこれまで論じたものをほとんど見ないようだ。

 わたしにしたところが、長く心に掛かりながらも探索を怠ってきた。(何しろ、軍鑑を軍艦だとばかり長いあいだ思い込んで、頭をひねっていたくらいの、ものを知らない者であったから)。

 このたびは思い立って、『甲陽軍鑑』を少々ひもといた。そうして、驚いた。方代の「民衆」の基盤はここにある。

 『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼二代にわたる全二十巻におよぶ歴史物語で、「武士道」という言葉がはじめて見出される文献であるという。原形をつくった筆録は、信玄の老臣高坂昌信(一五二七~一五七八)である。講談や歌舞伎狂言にも翻案され、江戸時代から庶民にもひろく読まれ、現代も組織の上に立つ者の心得の書として読まれているらしい。

 『甲陽軍鑑』の口書(はしがき)は、つぎのように始まる。引用は、佐藤正英校訂/訳『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫から。





 一、 この書物、仮名(かな)づかひよろづ無穿鑿(ぶせんさく)にて、物知りの御覧候(さふら)はゞひとつとしてよきことなくて、わらひごとになり申すべく候。子細(しさい)は、我等元来(ぐわんらい)百姓なれども、不慮(ふりょ)に十六歳の春召し出され(略)少しも学問仕つるべき隙なき故、文盲第一に候ひてかくのごとし。




        
 この本は、物知りが見たら仮名遣いも不調法で、笑い事になるようなものだろう、というのも私は元来百姓で、偶然召し出されてからも少しも学問する隙がなかったから、文盲同然なのだ、という。

 高坂弾正はつつましくしかも一徹な人だったようで、もちろん謙遜の弁でもあろうが、それにしても虚をつかれる。
 さらに三番目の項目には次のようにも述べる。





 一、この本仮名(かな)にていかゞなどゝありて、字に直(なほ)したまふこと必ず御無用になさるべし。結句(けつく)唯今(ただいま)字のところをも仮名に書きて尤(もつと)もに候。(略)さてまた仮名の本を用ふる徳は、世間に学問よくして物よむひとは、百人の内に一、二人ならではなし。さるに付(つ)き、物知らぬひとも仮名をばよむものにて候(さふらふ)間(あひだ)、雨中のつれ  にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうにとの儀なり。





 この本が仮名書きでは権威がないなどと言って字、すなわち漢文に直すようなことは絶対にしないでくれ、むしろ漢文の部分を仮名に書き直すのはよい、という。仮名書きの本がいいのは、世間に学問のある者は百人中一、二人もいないからだ。物を知らない人でも仮名は読むので、雨の日のつれづれにでも、無学の老いも若きもお読みくださるように、というのである。

 『甲陽軍鑑』の写本を、インターネットで見ることができるが、なるほど漢字仮名まじりの読み下し文であり、漢字の部分には多く振り仮名がふってある。信玄の書いたという五十七箇条御法度の部分のみは返り点のついた漢文で、ここが「字」の部分である。当時のきちんとした書物は、このような漢文であったのだ。

 十四歳の方代が、父親から勧められて手にとった『甲陽軍艦』とは、どんなものだったのだろう。国会図書館のネット検索をすると、甲府・温故堂が明治二十五年に出版した『甲陽軍鑑』というものがある。画像で見ることができるが、写本をほとんどそのまま大きめの活字で組んだ、分厚い二冊本である。おおよそ右の引用文から句読点をはずしたような文面である。現代から見ればけっして読みやすくはない文語文で、父龍吉が読んだとすれば口語訳があったとも思えず、父子の読み書き能力はあなどれない。

 高坂弾正の生きた時代から四百年後、右左口尋常高等小学校生徒である少年方代は、「雨中のつれ  にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうに」という配慮そのまま、雨が降って外仕事のできない日のつれづれに温故堂『甲陽軍艦』を棚から取り出してきて、土間で手仕事をする父龍吉に読み聞かせたのではあるまいか。戦国武将の物語に胸躍らせながら講談よろしく読み続けるその合間合間で、父龍吉は昔話や思い出話を差し挟んだかもしれない。

 こういう父子の語らいのなかで、『甲陽軍鑑』のモラルがしみこむように伝えられていく。『甲陽軍鑑』は、今のわたしたちが想像するようなストーリーでひっぱってゆく武田信玄の物語ではなかった。具体的な事例を掲げて物語りながら、いつのまにか武士としてのモラルが身についていくような、そんな書物なのである。

 折口信夫は、万葉集の「否といへど強(し)ふる志斐のが強語(しひがたり)このころ聞かずて朕(あれ)恋ひにけり」(二三六 天皇の志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜へる御歌一首)など解説しながら語部ということを言ったが、歴代の出来事を叙事しながら、そのことがそのままモラルを伝えることになるという、『甲陽軍鑑』はそういう古来の語り口をもった書物であった。

 先の口書冒頭からして、十六世紀戦国武士のもっていたモラルと、そのモラルを堂々と引け目なく押し出していこうとする、ほとんど強烈といってもいいほどの自信・矜持が感じられる。

 「我等元来(ぐわんらい)百姓」であった者が偶然召し出されて奉公専一、学問などするひまもなく文盲同然であると憚らず書くところ、さらには誰もが読めるようにあえて仮名書きで筆録すると書くところ、ほとんど何か革命的なことのように思える。これは、新しい時代の主体による、卑しめられてきた非公式文体の正式な認知をせまるものだ。





一、侍(さむらひ)衆(しゆう)大小ともに学問よくして物知り給はんこと肝要(かんえう)なり。但(ただ)し、なに本にても一冊、多くして二冊・三冊よみて、その理(り)によく  徹してあらば、必ず多くは学問無用になさるべし。ことに詩・聯句(れんぐ)などまであそばすは、なほもつてひがごとなり。(以下略)


一、学問の儀、右国持つ大将さへあまりはいかがと存ずるに、まして小身なるひとは、奉公を肝要(かんえう)にまもるひとの、学をよくとおぼさんには、無奉公に成りて家職(かしよく)を失なひ、不忠節の侍になる。(略)何(いづれ)の道も家職を失はんこと勿体(もつたい)なし。(以下略)






 「出家は仏道修行の儀」「儒者は儒道の儀」「町人はあきなひのこと」「百姓は耕作のこと」が家職である、どんな「諸細工人・諸芸能」でもその道々の業に心掛けるのが第一、武士に学問は無用と言うのである。無学無骨を嗤う公家階級に抗して、下積みから興隆してきたばかりの新しい階層のモラルを胸を張って押し通そうとする、そういう新鮮な矜持が行間にみなぎりわたっている。戦国時代がどのような時代であったか、肌で感じられるような気がする。

 父龍吉は、方代が小学校をあがると百姓仕事をたたき込み、「息子が本を読んだりするのをきらい、見付けると破ったり燃やしたりしてしまった」(方代随筆補遺『山崎方代追悼・研究』)というが、じつはこれこそが『甲陽軍鑑』のモラルなのであった。本は一、二冊でもしっかり読んでおけば、あとは学問無用でけっこう。それぞれの業をきちんと尽くせば大いばりで生きていいという大いなる自己肯定に生きる人々こそは、方代の「民衆」であった。

 だからこそ、百姓の子として生まれた方代が、父親の仕込みにも関わらず百姓としての分を尽くさず、「詩・聯句」などのようなものに嵌ってしまったこと、これは方代が年齢を重ねれば重ねるほどに、生涯の負い目になる。




  なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない





 高坂弾正の戒めにも関わらず、穴ぼこに落ちてしまって、引き返すこともままならない。しかしながら方代はその代償のように、「民衆」のすぐとなりにあって「民衆」の声を伝えていこうとする。

 方代の新仮名遣い口語混じりの歌体も、そのもっとも根底には、「仮名の本を用ふる徳」をもって非公式文体の正式認知をせまった『甲陽軍鑑』の記憶があったのに違いない。明治近代国家の上からの要請による「言文一致運動」、すなわち新時代には新時代の口語文体でというような「口語文イデオロギー」と、方代の口語混じり文体とは、動機の根底において異なっていた。それが、方代の歌が、他のどんな口語短歌とも異なって感じられる理由である。


                            (『牙』2010.8)

方代散策 『迦葉を読む』(3)2010/09/13 15:39

 
   八、急須


 そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり


 昭和五十六年『うた』十月号初出。あなたとは朝な夕な手にとってはお茶をいれる急須のように親しいつき合いだが、という。「そなた」の語からしても、相手は女に他ならない。

 それなのに、歌を読んで浮かんでくるのは、乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとり暮らしの老いそめた男の姿である。「そなた」は、所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する。じつに高等な比喩法ではないか。


 寂しくてひとり笑えば卓袱台(ちゃぶだい)の上の茶碗が笑い出したり
 
 卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
 
 さびしいから灯をともし傍らの土瓶の顔をなでてやりたり
 
 卓袱台の上の土瓶がこころもち笑いかけたるような気がする
 

 一九八〇(昭和五五)年刊『こおろぎ』から土瓶や茶碗の歌を拾ってみた。すべて明白な擬人法を採る。方代の歌は、そもそも擬人法に特色がある。童話のようななつかしさも、わかりやすさも、歌に擬人法を多用するところがおおいにあずかっている。

 掲出の歌も、擬人法で発想するなら、「急須とはおんな(女房)のように親しくて」とか、「そなた急須よ」とか、そんなふうになるところ。これなら『こおろぎ』時代と同水準の歌だ。

 ところが、ここでは「そなたとは急須のようにしたしくて」――単純な擬人法ではない。「急須のように」は、比喩という以上に「急須」という語が実体の重みをもっているので、「そなた」と「急須」の転倒だと誰もが気づく。しかも、指し示す語の力によって「そなた」の幻影はたたないではいない。

 「そなた」は「急須」でもあり、「急須」は「そなた」でもある。方代は、幻影とも実在ともつかぬ交錯するあわいを、こういう叙法によって発見した。このあわいだけが確かなもの(=ほんと)で、実在している(とみんなが思っている)「うき世はなべて嘘ばかりなり」。

 擬人法は、モノがいかにも人に化して見えてこないといけない。『こおろぎ』の「茶碗」も「土瓶」も、まるでほんとうに笑っているかのようで、そういう幻影をちゃんと見せてくれるからこそ、歌がたのしい。

 しかしながら、認識の根本をただしてみるとき、『こおろぎ』の擬人法では「急須」は依然として実体であり、「うき世」は実在する。幻影は、作者がつくり出した幻影に過ぎず、作者だけに所属する主観のもたらしたものである。

 ところが、『迦葉』のこの歌にあっては、「そなた」こそが実在するのであり、「急須」は比喩として引合いに出されているにすぎない。にもかかわらず、作者も読者も、「急須」こそが眼前にあって「そなた」は幻影であることを知っている。この矛盾した叙法によって、実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した。

 実在は実在、幻影は個人の主観から生まれるものという、いわゆる客観-主観の二元論を超えて、そのあわいを〈開く〉――方代の擬人法はこんなところにまで出てきたのだった。驚くべきことである。


   

   九、生の音


 おだやかな生の音なり柚の実が枝をはなれて土を打ちたり



 昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。熟し切った柚の実が、あるとき枝から土に落ちる。やわらかな土に落ちる、そのときの音を「おだやかな生の音」だと聞いた。

 眼前に見てうたったわけではない。近所に熟れた柚の木を見たり、どこか畑の土に柚が落ちているのを見たり、もしくは何かで「柚」の文字を見たというだけでもよい。それをきっかけに、柚の実が落ちるときの音を耳の内に聴いた。

 「枝をはなれて」土を打つという、枝から土までの距離によって、いかにもやわらかい土に受けとめられた柚の重さが感じられる。一般には果実の落下の比喩は「生の終り=死」だろう。ふかぶかとした落下の音はおだやかな死を迎えた証。おだやかな死は、おだやかだった生の証であるから、理屈としては「生の終り=死の音」と「生の音」は等価である。

 しかし、歌としての差は、はなはだ大きい。「おだやかな最後(死)の音なり」では、落下の瞬間に集中した「音」の歌となる。一方、「おだやかな生の音なり」とすると、柚の過ごしたおだやかな生の時間の集約として「音」はあらわれる。しかも、「生の音」という語が下句にまで響いて、落下した柚はなお生き続けているかのように感じられる。

 ここにも、「生」と「死」、実在と非在との交錯するあわいが取り出されているといえまいか。





  十、豆腐と戦争



 奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている




 昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。奴豆腐を酒のさかなにつまみながら、近づいてくる戦争の気配を感じている――。言っていることは少しも難しくはないが、どこか言いおおせてないような、不安定な気分をさそわれる。

 「近づいてくる戦争の音を聞いていた」。こう言い切ってくれれば、かつてそういう時期を体験したのだなとわたしたちは納得する。茂吉でも白秋でも昭和十年前後の歌を読むと、窓の外を兵隊の軍靴の音が過ぎていったとか、街角を一群の兵士が曲っていったとか、そういう歌がいくらも散見される。報道無くとも、町中の庶民の日々には情勢の緊迫はかすかな変化で感じ取られていったのにちがいない。そして、大正三年生まれの方代にも、そういった記憶があったかもしれない。

 しかし、歌は「聞いていた」ではなかった。では、「聞いている」のは歌の制作時である昭和五十六年のことか。一九八一年、一億総中流時代と言われたあの日本経済成熟期にも、戦争体験をもつ方代は「近づいてくる戦争の音を聞いて」未来を思わないではいられなかったのか。

 近藤芳美という歌人は、そういう未来の到来をつねに警告していたことを思い出す。しかし、この方代の歌は、平和そのものの現在もすでに「戦前」という感慨を述べているとも断言しきれない。

 いちばん近い解釈は、過去の時間を現在只今のことのように切実に感じているというものか。それにしても「奴豆腐は酒のさかなで」では叙述が類型を出ず、作者の過去のある日の体験をさすとも言い難い。

 つまり、これは、過去とか現在とか、時間軸の上に乗せられない歌の作りようをしているのである。直線的に延長する時間軸の上にこの歌は位置しない。読後、不安定な気分をさそわれるのは、それをむりやりに時間軸の上に乗せて解釈しようとするからだ。現代の読者は、どのような歌も過去から未来へと直線的に流れる時間軸の上に位置づけなければ読みとれなくなってしまった。

 奴豆腐をさかなに酒を汲むような、庶民のごく平和な夕べに、かすかな不協和音のように戦争が亀裂を入れ始める――それを感じている庶民の耳。方代は、自分の過去のある時の体験や、自分の現在の考えを述べたいのではなく、そういう庶民の耳というものを取り出したかったのであった。


   *


 『迦葉』の歌を仔細に見ていくと、身に刻み込まれた戦争体験を歌の動因とするものがしばしばある。



  死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう



 掲出歌と同年四月号『うた』に発表した「六十になれば」十二首のなかに、こういう歌があった。いつの時代にも通ずる庶民の智恵である。今の大学生もこの歌を読んで「わかる」と共感する。「二日一夜」を泣いて三日目には「ほがらかに・・・忘れてしまう」ことにし、立ち上がるところに励まされるのだろう。

 だが、一定以上の年齢のものは「二日一夜」という語句で、この歌がまぎれもなく戦争体験から発していることを読み取る。

 そう、あの「どこまでつづくぬかるみぞ/三日二夜を食もなく/雨ふりしぶく鉄兜」という軍歌。昭和七年、関東軍参謀部八木沼丈夫が作詞した軍歌「討匪行」は、帝国陸軍関東軍参謀部が選定・発表した純軍歌というが、どこまでも続くぬかるみのなかを飢えながら行軍するこのありさまは、のちの昭和十二年支那事変勃発後、数知れない多くの召集兵士が骨身にこたえて味わうことになる。広くうたわれた軍歌で、戦後生まれのわたしでさえ語句の片々を記憶する。日本の軍歌の特徴は、厭戦歌反戦歌とまがうほど沈痛・悲哀の情に満ちているとは、よく指摘されるところでもある。

 ここで方代が「三日二夜」より一日少ない「二日一夜」を選ぶのは、そのような悲哀と堪忍の情から陶酔的な一体感をかもし出す(それを愛国の情へと転化していく)軍歌への抗いと反発からである。「ほがらかに・・・忘れてしまう」という、ケロッとした突き放すような明るさもまた、その反発から生まれる。



  柏槇の雫に濡れてうたいます滅ぼされたるああポロネーズ



 同じ一連中には、このような歌もあった。「ポロネーズ」とは、ポーランド風の宮廷円舞曲のリズムをいうらしいが、「滅ぼされたるああポロネーズ」から連想されるのはショパンの「軍隊ポロネーズ」や「英雄ポロネーズ」である。雨滴する柏槇の木下で、兵隊帽をかぶった兵士が、オペラ歌手ふうに胸のまえで手を組みながらうたっている「絵」が、目に浮かんでくる。

 同時に、わたしは「柏槇」で、鎌倉建長寺の寺庭で見た樹齢七百三十年と言われる柏槇の木を連想してしまうのだ。幹周り六.五メートル、樹高十三メートルといわれるが、その曲がりくねった襞なす幹が印象的だった。樹齢七百三十年の柏槇の木下でうたっているのは、方代に似た、かつて兵士であった男だろうか――。

 子どものころ『ビルマの竪琴』を何度も読んだものだが、あの兵士たちのつかのまの憩いの風景が想像される。方代の兵隊時代にも、雨の日には大木のしたでこんな光景があったかもしれない。丸山真男は、「軍隊の内部でよかったことは(略)休暇の時に一緒に戦友とどうこうしたとか、演習の休憩の時に歌をうたったとか、実に小さな些細なことがあの砂漠のような生活の中で、オアシスのようによいものに感じるんです」(吉本隆明「丸山真男論」より)と述懐して言う。

 この歌には、いっしんに歌いあげているときの無心がひとすじに流れていて、惹きつけられる。方代のいう「どうにも我慢のできなかった」軍隊生活のなかにも、そういうオアシスのような無心のひとときの記憶はあっただろう。「それが堆積して大きな力になって独自に印象づけられて」(丸山真男)いるところから、「滅ぼされたるああ・・」という嘆声は発する。ここに俗っぽい懐旧の情はみじんもない。


    *


「奴豆腐は酒のさかなで」の掲出歌には、いくつものヴァリエーションが生まれている。昭和五十六年『短歌新聞』十月号掲出歌発表の翌月、「かまくら春秋」には上句五七を「手作りの豆腐を前に」とし、さらに翌年『うた』一月号、同『かまくら春秋』一月号、順に並べるとつぎのようになる。

  
  奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている
  
  手作りの豆腐を前に近づいて来る戦争の音をきいている
  
  手作りの豆腐を前にもやもやと日がな一日を消してゐにけり
  
  手作りの豆腐を前に何にもかもみんな忘れてかしこまりおる



 『うた』一月号の一連十二首の題も「手作りの豆腐」だった。「手作り」であるところに方代のこころが留まったと見える。豆腐と戦争から、「手作りの」を得て主題が移っていっている。

 それにしても、戦争――もっと言うなら戦争と庶民――は、方代の歌の底深く厚くながれている大きな主題であった。



                             ( 『牙』2010.7)

方代散策――『迦葉』を読む(2)2010/05/29 20:31

 
(石の笑い補記1

 「石の笑い」という語の初めて現れた、昭和三十四年作


 沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり


は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のほか、〈坂越えて急ぐひとりの方代の涙を月は見たであろうか〉〈誤って生まれ来にけりからす猫の見る夢はみな黒かりにけり〉のような、いわば涙のなかに嵌め込まれた「石の笑い」であった。

 交友のふかかった岡部桂一郎氏はこの時期の方代を、「生きるための暮しにふかい行き詰まりと絶望を感じていた。一日も早く(この世を)終りたいというのは方代のカッコよさをねらったものではなく、実は彼の本音だったのだ」(『山崎方代追悼・研究』不識書院)と書く。

この時期の「石の笑い」という語がいくばくこわばってこなれないのに比べて、〈しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ〉とうたう『迦葉』の時代、こんなにも屈託無いたのしい「石の笑い」を成就できたのは、晩年の生活がそれなりに功成り名を遂げ、心に余裕のできた反映だろうと、わたしたちは納得しがちである。

そうではない。そう解釈してしまっては、すべては生活の如意不如意が歌を決めていくという論法に陥り、どうにもならない。不如意な生活が意を得るやたちまち精神がぶよぶよになって堕し、増長し、歌を駄目にしてしまうのが、通常人だ。方代の足元にも罠は口をひらいていただろう。そこを賢明にも避け得て、『迦葉』の「石の笑い」の屈託ない世界が成就した。創作者としての厳しい闘いがそこにはあった。


  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ


は、『迦葉』のなかでも指折りのすばらしい歌だが、この透明な笑いを、晩年生活のそれなりの如意の結果と解することは、この歌をどぶ泥につっこむことである。以上、あえて補注しておく。)


(石の笑い補記2

 大下一真著『山崎方代のうた』によれば、没後、故郷中道町に中道町民芸館が建てられ、その玄関脇に〈桑の実が熟れてゐる/石が笑ってゐる/七覚川がつぶやいてゐる〉という方代の碑があるという。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉の類型。故郷の景にかかわる「石の笑い」という発想を方代は気に入っていた。右歌は、全歌集には収録がない。)




 三.キリスト様


    はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ



 初出は、『うた』昭和五十六年一月。その直前、『短歌現代』昭和五十五年十一月号にはつぎのような歌がある。


    はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ


 断然「キリスト様だ」のほうが優れている。歌そのものの次元が異なっている。

 「顔いっぱいがキリスト様だ」とうたいきってわたしの目に浮かぶのは、かつて学生時代に映画『デカメロン』で見た中世農民の日に焼けた皺だらけの顔である。乱杭の歯っ欠けの口をにっと開いて笑う大写しの顔は、無類の無邪気さを現していた。「キリスト様」というのに、どうしてあの西欧中世農民の顔が思い浮かぶのか。

 この歌は、自分〈われ〉が無花果を食べているとも、誰かが食べているとも受け取れる。自分〈われ〉の「顔いっぱいがキリスト様」のようだと受け取っていいが、それでも読み終わって見えてくるのは、ひとりの日に焼けた皺だらけの無邪気な農夫の顔いっぱいの笑いなのだ。

 一方、『短歌現代』に発表した〈はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ〉では「食べおると」だから、自分〈われ〉が食べていると、という意味でしかない。掲出歌は二句切れにして、歌が説明をまぬがれ、飛躍した。自分のことであり、他の誰彼のことでもあるという、普遍性を獲得できた。

 「鼻のようだよ」が、無花果と関連深い「キリスト様だ」となったことによる飛躍は、これまた言うまでもない。

 無花果は小アジア原産、パレスチナには早くから移植された重要な果樹であり、旧約聖書新約聖書ともにしばしば現れること、方代はかすかにでも知っていたということになる。

 イエスが空腹を覚えとき遠くから無花果の繁った葉を見て近づいたが、実りの季節ではなく、実がついてなかった。それでこの木に向かって「今から後いつまでもおまえの実を食べる者がないように」と言ったと、マルコ伝には記す。方代は、こんな寓話も知っていたのだろうか。方代の歌は、そのとき空腹を覚えた者と、はじけるまでに実りの季節を迎えた無花果と、出会いの時の合致した幸福を思うぞんぶんに讃えている。




   四、末成り南瓜


      胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような老人である




 初出は『うた』昭和五十六年四月号だが、これも二カ月前の『かまくら春秋』に次のような似た歌がある。


      どっしりと胡座の上に身をのせて六十五才の春を迎えり


 この改作の方向も、さきの「キリスト様」の歌と似ている。どっしりと胡座の脚のうえに身をのせているわたしは六十五才の春を迎えたよ――こちらは、そう、〈われ〉が叙べている歌だ。ところが、先の掲出歌では、文人画とも挿絵とも漫画ともつかないような老人の姿がはっきりと見えてくる。その姿は、〈われ〉でもあり、他でもある。

 「胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような」、すこしひねた末成り南瓜のようなものが、胡座の膝のうえに乗っている。「乗っておるのは」という言い方は、外側から見るかたちをしめす。胡座の膝のうえに乗っているのは末成り南瓜のような・・・さて、ここで普通に語を続けるなら、末成りの南瓜のような顔、末成りの南瓜のような頭、こうなるところ。「老人である」とは、けっして続かない。「胡座の上に乗っているのは」-「老人である」と繋がることになって、おかしいからだ。

 ところが、「老人である」と繋げて、じっさいにこの歌から思い浮かぶのは、老い屈まった老人の、ひねた末成り南瓜のような大きな顔が、胡座のうえにのっかっている姿である。「胡座の上に乗っているのは」-「末成りの南瓜のような」-「老人である」という、この語順に若干のひずみがある。それがこの歌にどこか舌足らずな面白みをかもし出してもいる。

 おそらく、作歌時におけるこの歌の呼吸は、「末成りの南瓜のような」で切れている。四句で一呼吸おき、飛躍して、結句「老人である」と一首を大きく包含した。結句で大きくくるみとってこそ、水墨画のような稚純な老人の姿をそこに現出させ得たのである。

 こうして、〈われ〉の歌としての「六十五才の春を迎えり」の自画像の域を脱する、歌の普遍性が生まれ出た。

 山崎方代という、特殊なうえにも特殊な生き方をしてきた歌人のの歌が、特殊な人生をたどった者の一独白、一物語に終らず、大きな普遍性を獲得しているのは、このような創作者としての苦闘があったからだと、いまさらながら思い知る。




   五、一粒の卵


     一粒の卵のような一日をわがふところに温めている




 『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。


     短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ


 卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩。

 ところが、「一粒の卵のような一日」とここから始まると、「卵」から鳥の抱卵を連想して「わがふところに温めている」となる。「温めている」で、にっこりほっこりしている歌の姿が現れ出る。こんな一日だったよと叙べる歌が、抱卵の鳥なのか〈われ〉なのかといった歌に変ずる。

 こうして並べると、いかにもやすやすとこの改作が現れ出たかのように見えるけれど、くるっと扉をひらくような一飛躍が必要だったのではあるまいかと、同じ作者としては思わずにはいられない。




   六、石から石へ


     両の手を空へかかげて川べりの石から石へはばたいていた




 この歌は、先に掲げた「石の笑い」の歌群をただちに連想させる。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉ような、石ころだらけの川べりでここはあるに違いない。

 頭のでっかちな老人が両手をぱたぱたさせながら、石から石へかろやかに、笑いながら、足を掲げて飛んでいる姿が目に見えるようだ。クレパス画のような描線で、絵本の絵のようでも、漫画のようでもある。こっけいみがある。

 「両の手」とはすなわち鳥の翼の比喩にもなる。一首はここを翼と言わなかっただけのこと、翼をかかげて川べりの石から石へはばたいていたという、鳥の歌とも言える。ところが、歌に見えてくる姿は、どうしても鳥ではない。頭がちな老人が両手をぱたぱたさせて飛んでいる姿しか、見えてこない。それを不思議に思うのだ。

 「はばたいていた」――物語るかたちである。わたしは昔そうしていたよ、というのか、そういう場面を見たよ、というのか。



    柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる



 これも、鳥とも人とも定まらない歌であった。「キリスト様」の歌と同じ連作中にある一首。

 子どもの頃、柿の木や枇杷の木、ぐみの木などにのぼって、熟れた実を取って食べては、樹上から種を吐き捨てたものだ。そういう記憶が蘇って、樹上にいるのは人だとまず思う。ところが、ここでは「梢」である。「梢に止」ることのできるのは鳥だろう。さて、鳥かと思えば、嘴ではなく「口から種を吹き出」す。

 「石から石へ」の歌も同様だが、鳥を擬人化したのでもなく、人を鳥に喩えたのでもない。比喩の技法におさまりきらないところが、じつにおもしろい。鳥でもあり、人でもある。どちらでもあるような姿が、「石から石へ」の歌でははっきりとまなうらに描ける。


 
    柿の木の梢(うれ)から落ちてたっぷりと浮世の夢を味わいにけり



 こんな歌も、「石から石へ」の直前にはあった。「石の笑い」の初案〈しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ〉と類想だろう。翼を持つ者、飛ぶことのできる者が、誤ってどじを踏んで地上におっこちる。石はそれを見てくすくす笑うのだし、柿の木から落ちたものは、罰として浮世の辛酸もふくんだ夢をたっぷりと味わうことになる。



 
   七、天秤棒


     食いこめる天秤棒を右肩へぐるりとうつす力がほしい




 子どもの頃、行商のおじさんは天秤棒を担いで家々を巡っていた。前と後ろに振り分けた荷物の重みで天秤棒がしなうのを、ぐあいよく拍子をとって歩く。ニコヨンで土を運ぶもっこ担ぎもそんなふうだったし、汲み取り式便所の肥をはこぶのも天秤棒だった。

 「ぐるりとうつす力がほしい」――ぐるりとうつすときに「力」がいるものかどうか知らない。しかし、外から見ていても、ゆさゆさと揺れる荷物としなう天秤棒と、腰からリズムをとってひょいひょいと歩きながら、ときにぐるりと肩を移すあの姿は、かろやかなものである。労働のリズムというものがそこにはある。

 肩に食い込む重荷も、労働のリズムにかろやかに乗るとき何の苦も感じないでいられるのだ。



                                   (「牙」2010.6)

方代散策・・・『迦葉』を読む第一回2010/05/05 18:55


   序――民衆


 山崎方代は、一九八五(昭和六〇)年八月十九日、肺癌による心不全のため、国立横浜病院の一室で没した。肺癌の判明したのは前年十二月のこと。三月には摘出手術をしているが、おそらく病状は進行していたのだろう。
 最後の歌集『迦葉』のあとがき草稿は八月十三日に口述したが、完成せず、遺詠「蝉」五首が『うた』十月号に掲載された。



  病院の窓の内より民衆に笑みを送りて祝福申す
 


 遺詠五首の五首目、十一月末に刊行された『迦葉』にも入っていない、最後の歌。この世を去るにあたっての挨拶の歌である。

 初めて読んだとき、なかばあきれながら笑った。高い窓のしたには「民衆」があふれんばかりに埋めつくし歓呼の声をあげながら手をふっている――そんな光景がたちまち見えてきたからである。
このとき方代は、満面に笑みを湛えながら窓から大きく身を乗り出すようにして別れの手を振る「英雄」である。
病院の窓はいつのまにか列車の窓のようなものに変じ、「英雄」方代を乗せて空高くへと出発する。つねに「民衆」とともにあって、「民衆」のために粉骨砕身した革命家。
彼をたたえる「民衆」の歓呼の声にも、応えて大きく手を振る革命家の祝福の笑みにも、互いのあいだには限りない善意が満ちあふれている。

 このような光景が浮かぶのは、「民衆」というマッスをあらわす語があるからだ。方代が民衆をマッスとしてとらえるまなざしをもっていたことを意外にも思い、その無邪気さに笑いもしたが、しかし、ひるがえって思えば、方代は「民衆」というロマンチシズムを終生信じた歌びとだったのである。

 人々へ向かうあふれるような無邪気な善意と祝福こそは、方代の歌のこころのもっとも根底にあるものであった。これあるがゆえに、方代の歌は、いかにも親しみやすく気楽で庶民的であるのにも関わらず、けっして格が低くならない。

 つぎに引用するのは、大下一真著『山崎方代のうた』(短歌新聞社)からの孫引きで、ボーリング大会の「開会の挨拶」。方代は、一九七二年五十八歳の年、鎌倉飯店店主根岸侊雄が自宅の敷地内に建ててくれた四畳半のプレハブの家に移る。その鎌倉飯店常連連中で作ったボーリングクラブの大会であった。



 こがね色に空がきはだつて
 鎌倉山の嶺みねを
 幾重にもわかてば
 もうゆく秋の風が
 うおう うおうと
 心の底深く
 そこはかとなく
 しのびよって来るこの頃
 今日今宵
 やはらかき灯のもとで
 日ごろのうでと心をきそひ合うことの
 この楽しさは
 いづこより来る
 さはさりながら
 この国の私達の日常は
 実にめくるめくして
 さびしく けはしく
 ともすれば人間よしみの
 愛憎の世界も忘れかけようとしている時に
 おのずからここに
 したしい若い仲間が集いより
 るり色の
 ボーリングの名のもとで
 あたたかい そして
 まことこまやかに
 いと高い愛情をそそぎあい
 青春の光の野辺に立ちはだかり
 人間万歳をくり広げることは
 かならずあしたの生活に
 明るい灯がともることを
 はばかりません
 これをもって
 開会の言葉とします

 今宵十月二十五日        
   一ちまたの名もな(ママ)無き詩人   山崎方代



 「開会の挨拶」替わりの詩だが、方代の歌の秘密をうかがわせるおもしろみがある。
方代語法とでも名づけたくなるような「私達の日常は実にめくるめくして」「光の野辺に立ちはだかり」「灯がともることをはばかりません」といった語の連なりはほとんど気分まかせだが、しかし、決して放縦には流れない。
語はよくコントロールされて、一見舌足らずな語法はかならず詩的なおもしろみへと転じている。
また、季節から入り、「今日今宵」の楽しさを言い、その意義と、「あしたの生活」への希望を唱えて終って、「開会挨拶」としての結構はきちんと整っている。一見型破りに見えるが、型は踏んでいるのである。

 口から出まかせの破格のように見えて、じつはきちんと型を踏み、語の扱いの上にもコントロールの効いているところ、方代の歌の第一の秘密であろう。

 さらに、この詩、じつに品の良いことにも気づく。格が高い。子どもの詩もしばしばブロークンな語法を使うが、そこに格というようなものはない。しかし、方代のこの詩にはまぎれもなく格がある。

 「この楽しさはいづこより来る」という遊びの無邪気さ。「人間よしみの愛憎の世界」(憎の入っていることにも注意)のうすれつつある「この国の日常」のなかでの、「若い仲間」たちの親しい睦み合いの善意、愛情のそそぎあい。ボーリングという無邪気な遊びにわれを忘れる若い仲間たちへの、あふれるような善意と祝福――。

 「名も無き詩人」が、むつび合う若い仲間たちに祝福を贈るという空想。詩の格は、ここに生まれる。

 方代の生涯の歌を流れるこの通奏低音――人々へ向かう無邪気な善意と祝福――が、はっきりと自覚をともなっておもてに現われるようになったのは、最後の歌集『迦葉』においてであった。



     一、 ぜんまい


  あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている



 「廻って」は、「まわって」と読もうか。ぜんまい摘みの経験はないが、図鑑を見ると、胞子葉と栄養葉の二種類が春に芽を出すという。
俗に胞子葉をオス、栄養葉をメスと言って、オスの方は食べないそうである。やわらかい赤褐色の綿毛をあたまに被り、それを突き破って胞子葉はくるくる巻きの突起のような緑を、栄養葉は双葉をのばす。

 「五月の空をおし上げている」のは、オスの胞子葉だろうか。
山菜摘みが好きだった方代は、ぜんまいも摘んだにちがいないが、固くて食べられない胞子葉の方は摘み残しただろう。
朝毎に山歩きをしながら見ていると、ある日、綿毛をやぶって真新しいさみどりの色が突き出た。五月の明るい空のひかりのもとに。

 「あさなあさな廻って行くと」は、どこかねじれた語法だ。
「朝ごとに同じルートを廻っているが、今日行くと」を圧縮したような語の繋げかたである。だが、ここは「いると」ではなく「行くと」でなければならない。
「行くと」だからこそ「ぜんまいが五月の空を」以下が眼前に見えてくる。ぜんまいに出遭った、行きあった、という感じが生まれる。

 「どこを」を省略したこと、これがすごい。この省略によって、「あさなあさな廻っ」てゆくというわれの行動の軌跡がぜんまいのくるくる巻きと響き合い、おかしみをともなった様式性が歌に感じられるのだ。

 「あさなあさな廻って行くとぜんまいは」、ここで一気に「五月の空」へと大飛躍。小さなぜんまいのくるくる巻きのさみどりの、ぴちぴちとした生命力。それを頌えるこころが、さわやかな五月の全天をおし上げているかのようにうたわせる。




     二、 石の笑い



  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ



 「かりそめにこの世を渡る」十二首中の最後の歌。一連中には次のような石の笑う歌もある。

 
  不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている


 「しののめの下界」も、不二の山が遠くに見える笛吹川の川原であると、わたしの目には見える。いや、笛吹川など見たこともないが、山がすぐに迫ったものさびた石ころだらけの川原があり、遠くの空にはうっすらと不二の嶺が見えているような、そんな場所がおのずと眼前に浮かんでくる。それは、方代のつくり出してくれる風景である。

 方代に「石」の歌は多いが、石が笑う歌も早くからあらわれていた。



  沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり
                  泥二号 昭和三十四年四月

  しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ
                寒暑創刊号 昭和四十六年九月



 昭和三十四年、方代四十五歳の「石の笑い」は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のような歌とともに現われた。〈塩からき世〉を生きる歌のなかでたった一つ嵌めこまれたような「石の笑い」である。

 それから十二年後、掲出歌の原型が生まれる。「しののめ」は、東雲とも書き、暁・明け方。枕言葉でもあるが、ここでは「明け方の」という意。方代の好む音韻の語であろう。ほかにも用例がある。愛着のまつわりを語に感じる。

 「下界」は、仏教語で人間界・欲界をさすという。
単純に高いところから見下ろしたあたりをいうこともあるが、ここではやはり天上界から人間界に落ちて立ったときという空想があるのだろう。笛吹川の石ころだらけの川原のようなところに、気がついたら立っていて、ふと耳に石の笑いが聞こえた。
そんなお話を作っているのである。

 昭和五十五年前後は『右左口』時代だが、歌集には採られていない。納得のできないところがあったのだ。



  しののめの下界に降りて来たる時石の笑いを耳にはさみぬ
      東山梨郡牧丘町加田幸治邸の歌碑 昭和五十五年三月

  しののめの下界に降りて来たる時・石の笑いを耳にはさみぬ
              かまくら春秋 昭和五十五年八月号

  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ
                   うた 昭和五十五年十月



 さらに九年を経て、この歌が再びあらわれた。「突然の」を消し、「立ちて」を「降りて」に換えた。これで「立ちて」にあった物体の重さが無くなり、歌が「石の笑い」に似つかわしい軽やかさを帯びてきた。
「突然の」はもちろん、言うまでもなく不自然であり、無雑作すぎたのである。歌碑の歌としたのは、これで出来たと思ったからであろう。

 かまくら春秋三首の題は「石が笑っている」。「石の笑い」がようやく歌にこなれて、方代のこころをとらえている。
ところが、歌碑の歌から二、三カ月経て見ると、「降りて来たる時」の「時」の切れが決まらないことに気づいた。不安定なのだ。
ここが細くなっている。それで「・」を入れて補強し、しっかりと切れるようにしなければならなかった。これで説明的な調子をやや免れ、「石の笑い」がいくらか前面に出てきたようだ。

 そうしてまたさらに二ヶ月後、「来たる時」の間延びが「ゆくりなく」に置き換えられた。
しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ――ついに歌は軽やかに飛翔する。
これはすばらしい歌の飛躍である。次元を異にする歌となった。

 「ゆくりなく」は、「ゆくりなし」の連用形で、不意に・思いがけなくという意味の古語。現代人が使うと気取りが鼻につくことの多い語だが、この歌ではぴたりと決まった。「しののめの」とよく調和する。

 まるで風のたましいが空を滑って降りてきたようだ。
天界のものとも下界のものともつかず、どちらをも自由に行き来できるようなそんなものが、軽やかに透明にすうっと降(くだ)ったとき、くすくす、くすくすと石が笑うのを小耳にはさんだ。
石はうれしいのである。
しののめの下界に滑り降りてきたものを知って。

   
                           『牙』2010.3初出

続『方代』論2009/11/14 13:55

 山崎方代没後、一周忌の夏、『山崎方代追悼・研究』(不識書院)が刊行された。一九八六年のことである。

 わたしもこれに、「鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩抄』から引き出されたもの」という、主として第一歌集『方代』を対象とした作家論を寄せたが、その末尾はこの種の文章としては破格の、終わったような終わらないような、フェイドアウトになっている。

 方代が方代となっていく過程はどのようなものであったのか、という課題を自らに課して書いたが、あれではまだ半分で、『方代』後半に色濃い高橋新吉や尾形亀之助との響き合いを書かなければならない、そのうち書こう、と思ったからであった。思い続けて、すでに十六年。

 この間に種々の方代論も現われた。この後にも現われるだろう。もう必要ないかもしれない。それでも、何か自分の始末がついてないようで、心が残る。そこで、このたびは、高橋新吉の言葉との響き合いを中心に少し考えて見ようと思う。

 全歌集年譜では、一九四八年の項に「この頃、詩人近藤東から尾形亀之助の詩集『障子のある家』を譲り受け、読む」「『新吉詩集』を耽読」とある。

 高橋新吉が、『高橋新吉の詩集』を出すのは、一九五〇年。『高橋新吉詩集』を創元選書から出すのは、一九五二年。この年、「工人」が終刊。方代の歌は、前年八月号を最後に、一九五四年六月まで全歌集「 資料」篇には見えない。

 歌の無い時期、方代は、この二冊の新吉の詩を読みこんでいたのだろうか。『方代』二百首中後半百首は、一九五四年から五五年夏にかけて作ったもののようだが、ここには高橋新吉の痕跡を随所に見ることができる。


  おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり


  高橋新吉先生の御説によれば神様も法則にして木の葉のごとし



 『迦葉』に収められた、死の数カ月前の作品である。尾形亀之助とともに、高橋新吉が現れている。方代のような歌人は、たんなる気まぐれや思いつきや偶然で、他の影響を受けるなどということはあり得ない。

 鈴木信太郎訳ヴィヨンと尾形亀之助と高橋新吉、そして甲陽軍艦は、方代の歌を形成していくための、ぜひとも必要な栄養素だった。その痕跡は、生涯にわたって見られる。方代は、それらを徹底的に吸わぶった。

 そこで、問うのである。『方代』刊行直前の方代は、とりわけ高橋新吉の詩が、なぜ必要だったのか。ばくぜんと疑問を心に置いて、全歌集資料篇をはじめから読んでいった。

 わたしは、この資料篇を読むのがじつに好きである。二十歳そこそこの短歌にのぼせた貧しい青年が、畑仕事もろくにしないで日がな歌会に出て行ったっきり、親の目を盗んでは金をくすねて会費に使い、昼も夜ものどが灼きつくように短歌のことを思っている。その希求の激しさに、おのずから新しい出会いの扉がひらき、青年はむさぼるようにそれを飲みほす。

 そこには、ほとばしるように歌うこころが、時に語のつながりの変な、時に文法まちがいの、歌の上に流れ出ている。



  父と母しかといだきて永久に土をたがやす吾が運命なり


  草ぶきの家屋の破れに露おりてたまたま燦めく星の明かりに
  

  十三人生まれしはらから十二人死してのこるは吾一人なり



 それぞれ、昭和十年九月、昭和十一年一月、同十一月の、山崎一輪時代の歌。すでに、父も母も目が不自由になっていた。
 
 歌は、父も母も盲いの貧しい家の一人子であることに、美しい昔話のような、自らをその主人公のようにも思いなし、そこに切実なる興趣を覚えて、うたいあげている。その叙事的な仕立てが、わざとらしさや自己陶酔の嫌みを伴わないのは、歌うこころにひたすらに言葉を乗せているからである。
 兄弟が十三人生まれて十二人死んだなんて、思わずわたしは年譜をめくり返してしまった。
 この嘘っぱちも、歌うこころが、その勢いに乗って、ちょうど筆が紙をはみ出してしまうように、はみ出したのである。
 有名な、ほんとの嘘、の機微は、ここにある。この歌うこころこそは、終生、方代の根っこだった。



  あれは地球の壊れる音ではないか。      
 
  茶碗の中に梅干の種が二つある。       




  ほしいままに地上に充ちているものもすでにおかされていると思う 

                 

  茶碗に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ



 前者は、高橋新吉詩集『霧島』の「不思議」という詩の「一」である。二行の間は、一行分あけてある。
 後者は、歌集『方代』から。隣同士に並んだ歌である。



  わが父は                  
  日まはりのかげに
  たたずみて
  猫とたはむれゐたまひしに、
  秋風の吹き初めしころ
  冷きむくろになりたまひて
  手には乾きたる一握りの土を持ちて
  ゐたまひたり。




  死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ



前者は、詩集『新吉詩抄』の「わが父」。後者は、『方代』。



  父上よ わたしが生きて居りますことはあなたのおかげで
  あります。何うか此のやうな見苦しい朽葉のやうな言葉を書きつらね  て 多くの人の目に触れるやうな事をするのをとがめないで下さい。  冷えた茶を啜り終るやうに私もやがて残生を急ぎ足で終ろうと思つ  て居ります。



  がぶがぶと冷えたるお茶を呑み終る如くせわしく終らんとする



前者は、詩集『雨雲』の「残生」。後者は、『方代』。

 高橋新吉の詩といえば、一九五〇年刊『高橋新吉の詩集』に収められた「日が照つてゐた//今から五億年前に」(「日」)、「留守と言へ/ここには誰れも居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る」(「るす」)というような詩が有名だ。のちに飯島耕一が「詩人の笑いとはこのようなものである」といいつつ、発表当時には「ちょっと禅坊主臭」く感じられたという(「形而上的詩人・高橋新吉」)これらの詩を、方代はむさぼるように読んだのであったろう。


 これ以上新吉の詩をいちいち引く事はさし控えるが、「皿の上にトマトが三つ盛られおるその前におれがいる驚きよ」「机の上にひろげられたる五本の指よ瞳に見えるものみな過去である」などなど、『方代』後半の存在・死・時間・空間をうたう歌は、新吉の詩に響き合うようにして生まれている。

 五億年も一瞬も同じ、存在の現前も消失も同じ、とするこのような超時間的な思考法は、『方代』前半百首で、ヴィヨンに刺激されつつ「方代」という語を歌に詠みこみ「方代」誕生をさせたのち、そのような歌の叙事化の方向にある種の矯正を加えたといっていいだろう。
 後半百首では、「方代」という語を歌いこんだ歌は、一首のみ。次のようなものであった。



  このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし



 「方代」から、方代を完全に引き剥がすために、このような否定の一段階が必要だった。そういえないだろうか。
 叙事化すると、歌がだめになることは、わたしたちのさんざんな試行錯誤による経験から明らかである。方代は、そこを乗り越えるために、超時間的な思考法、物の見方を必要とした。つまり、歴史ではなく、神話化へと向かうために。

 また、新吉の、禅語的な短簡な直観的な詩語も、引用に見るように、詩の一部を歌に仕立て直すような形をとりつつ、大胆な口語取り入れの呼吸を作り出していくのに役立っただろう。 
 しかし、高橋新吉の詩と山崎方代の歌と、遠望するとき、明らかな違いが見える。新吉の詩はあくまでも散文詩、禅などの教養もときに露出し、大上段から切って捨てるようなところがある。
 じつは、この切って捨てるような、突き放すような否定の調子も、『方代』の時期の方代には必要なこころの調子だった。
 だが、方代の歌はもともと、歌うこころの所産である。禅臭などはきっちりと避けた。その思い切った口語も、歌うこころによってこそ、すみずみまで血が通うのであった。


                                    (『方代研究』2002年?)