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    <title>阿木津　英　の　仕事</title>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Fri, 17 Dec 2010 14:55:30 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>寂しかりけり ――玉城徹の晩年の歌</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/12/17/5587539</link>
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      <pubDate>Fri, 17 Dec 2010 14:31:10 +0900</pubDate>
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      <description>　　草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　「歳末歳首雑吟」『左岸だより』第六十九回&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　二〇一〇年三月十九日発行&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この「歳末歳首雑吟」十四首が、玉城徹の最後の発表歌ということになろうか。『左岸だより』は、主宰誌『うた』解散後、歌壇のごく少数の人々に「私信がわり」に送った玉城徹の個人的なペーパーのようなものである。第七十回を四月二十八日に発行したものが、最後となった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　二〇〇八年梅雨の頃、玉城は沼津市西島町から静岡市の老人ホームに移る。従来、一年前に作った歌を出すようにしてきたというが、七月十六日発行第四十九回から二〇〇九年六月五日発行第六十二回まで、西島町にあって作った歌を発表し尽くしてのち、『左岸だより』に玉城徹の歌は見られなくなった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「窓の前には、安倍川の堤が立ち塞がって、広い眺望が得られないのには困ってしまう。わたしが住むのは二階である。堤上の道の方が、ここより上に見えるのは、ここが低地だからであろう。」&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『左岸だより』第六十回後記）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「堤の上は、舗装されて二車線の道がある。車が往き来する。晴れた日には、車の反射がきらりと一瞬部屋の中へ差しこむ」「わたしは、一首も歌が作れない。その原因は、多分、自然との活きた交感が遮断されているからだろう。」&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『左岸だより』第六十一回後記）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　歌のない『左岸だより』が続いた。ところが、今年三月、わずか八頁にすぎなかったが、「歳末歳首雑吟」十四首を掲載する第六十九号が届いた。ホームで作った初めての歌ということになる。ひさしぶりに満ち足らう思いをして読んだが、なかでも掲出二首には胸をつかれるようであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「寂しかりけり」「この寂しさよ」という語には、思わず人をして駆け寄らしめるような響きがこもっている。窓の前に立ち塞がった阿倍川の堤の、その索漠たる風景がどんなに精神を苦しめるものであったか、伝わってくるようであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、歌の内容はそれだけではない。人の世のすべてが手元から去ってうつろになってしまった、という嘆きの声が聞こえた。人の世を愛憐して切に求めてやまぬ声が、時間と空間を越えた遠いところから聞こえた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　うき我をさびしがらせよかんこどり　　　　芭蕉&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「うし」とは、物事が思いのままにならず、厭わしく不愉快に思うこと。「さびし」とは、本来備わっているはずのものが欠けていて満たされない気持、もとの望ましい状態を求めようとする気持をいう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「うき我」とは、つくづく世を厭うて遠ざけたいおのれの自覚である。人間(じんかん)の事は何もかもが不愉快であり、俗塵から離れてひとり籠もっていたい気持である。そういうわたしの心の向きを変えてさびしがらせてくれよ、かんこどりよ。人の世から遠ざかっていることが物足りなくて、人の世を求めてやまぬ、そういう気持にさせてくれよ――。芭蕉の句は、そういう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
古来、厭世を言う者は多い。まことに同感せずにはおれないが、しかし、それを越えて、「うし」ではなく「さびし」の境にこそ、人というもののありようがある――。そう、芭蕉はいうのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この句は、元禄二年には結句が「秋の寺」であった。二年後、「かんこどり」と改める。遁世の場所である「寺」から「かんこどり＝閑古鳥」への改作は、句の力点を「うし」から「さびし」「閑寂」の境へとおしひろげよう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような芭蕉の「さびし」の世界があって、ここに玉城徹の「寂しかりけり」「この寂しさよ」の歌がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　最後の歌集となった『石榴が二つ』（二〇〇七年五月刊）には、「さびし」という語をつかった歌は七首を数える。もともと感情語の多い作者ではない。七首の「さびし」は突出しており、つぎに多い「恋し」の語とともに、この晩年の歌集を特徴づける。「恋し」とは、時間空間を遠くはなれた、ある対象を求める気持をいう。異性に限らないが、エロスの揺曳する語である。&#13;&lt;br&gt;
以下、「さびし」の歌七首の用法をひとつずつ見ていこう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　凝る雲の白のかがやき&#13;&lt;br&gt;
　　　ほがらかに寂しきそらに&#13;&lt;br&gt;
　　かがやきの白を置きたり&#13;&lt;br&gt;
　　見つつわれ思ふともなし&#13;&lt;br&gt;
　　東門　西門　南門　北門&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「雲　長歌並びに反歌一首」『石榴が二つ』&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　長歌「雲」の第一節。青い空虚なそら、満つるもののないそら。その寂しさは、しかし「ほがらか」である。一つ、二つ、凝る白雲のかがやきによって、そらの空虚は寂しくも満たされている。反歌は〈住み古りて人の世うれし歩み出で端山(はやま)のあかきもみぢに向かふ〉。端っこではあっても、なお「人の世」の中にあって「住み古りて」いる。たしかにそう感じられるところからくる「ほがらか」さが、「寂しきそら」にながれている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　道の辻家むらのそらの寂しけれ青くかたむく宝永火口&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「歳晩日日」より。これも「そら」の空虚のもたらす寂しさである。地上にごちゃごちゃと詰む家むらと、そのうえのそらの空虚さ。富士の山の宝永火口がくっきりと青く遠くに見える。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　吹き靡く街の青葉やわが心寂しと言はむのみにもあらず&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　吹き入れて風ひえびえと五月なり金の憂へをここに呼ぶべく&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「五月」より。吹き靡く街の青葉よ、吹かれつつ歩くわたしの心を見てみれば、寂しいと言おうとするだけではない――。そう、歌はいう。では、寂しさのほかに何があるのか?　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
言うまでもなく、「うき我をさびしがらせよかんこどり」が背後にながれているだろう。人の世にあって「憂し」という思いにとりつかれないではいない。不愉快なことばかりである。「わが心寂しと言はむのみにもあらず」、どうしても憂いの影が添わずにはいない。&#13;&lt;br&gt;
しかしながら、厭世に嵌り込んでしまってはおしまいだ。だからこそ、「金の憂(うれ)へ」を呼び出そうとする。不満やくるしみがどす黒くてはいけない。あたかも白秋『桐の花』を思わせるような、はなやかな五月の「金の憂(うれ)へ」がそこに呼び出される。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　蝉のときはや終はりぬと部屋にわがひとり思へば寂しくもあるか&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「戸田みなと」より。しきりに鳴いていた蝉も絶え、いのちさかんな夏の季節が過ぎ去ろうとしている。過ぎ去った生気と活気にあふれた時節を思うと、いまさらにその欠けた虚しさを思うのである。「寂しくもあるか」は、季節の過ぎ去る気分的な感傷をいうのではない。過ぎ去ったのちの、どうしようもない虚ろの物足りなさのかたちがとりだされる。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　みんなみに満ちくるくもり伊豆の嶺の隠ろふ今日の心さびしも&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「窓に見る老人」より。「伊豆の嶺」を南から満ちてくる雲が隠してしまった。いつも見えていたものが、見えない。「心さびしも」という欠如をなげく感情が、そこに動く。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　港べは今年は早く草刈ればゑのころの穂を見ずてさびしき&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「残暑」より。毎年、秋口の港べに散歩にくると、一区画に雑草のしげっているのを見た。ところが、今年は草刈りを早くしたものか、さっぱりとしてしまって、あちこちを向いて揺れるえのころ草の穂を見なかった。あるはずのえのころ草の穂の無いのが寂しい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　道のべに枯葉走りぬ楽しとも寂しともなくしばらくあはれ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「白秋言」より。心が楽しさに満ちているとも、空虚で寂しいとも、いずれともない状態である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上が、歌集『石榴が二つ』にあらわれた「寂し」の歌のすべてである。さらに、これよりのち、『左岸だより』第三十一回（二〇〇七年二月二十八日発行）には、つぎのような一首があった。「彫刻家飯田義国氏逝く。飯田氏はわが友、橋元四郎平氏の友人なり。悲しみて作れる歌」という詞書をもつ歌の二首目。さらに、第六十九号「歳末歳首雑吟」にはもう一首、「さびし」の古形「さぶし」を使った歌があった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　義国のにはかに亡きに四郎平のさびしき心わが思ふかも&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　貧しきが心さぶしく項垂(うなだ)るる心根も今うべなはむかな&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
このように、玉城徹の「寂し」は、たんに気分的な感傷をいうのではない。小環境において諸事情から生ずる一個の感傷を排出せんがための「さびしい」とは、まったく異なる。玉城徹という個人の「喉」を通しながら、歌はつねに「寂し」という語の淵源へ向かおうとしている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ふたたび、冒頭にかかげた「寂しかりけり」「この寂しさよ」二首、ここに改めて見てみよう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
これまでの歌の「さびし」の用例と異なるのは、過ぎ去った「蝉の時」や、あるべき「伊豆の嶺」「ゑのころの穂」など、欠如の対象が歌の上にあらわにされていないことである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　眼の前には、草枯れの堤にしろじろと日が照っているばかり。ほかには何にもない。何という索漠たる風景。&#13;&lt;br&gt;
　年改まって五日となるが、暮れはてた窓の外を風が鳴る音のみ。そのほかには何にも聞こえず何にも見えない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　かつては人の世を「憂し」と感じないわけにはいかなかった。しばしば不快は襲い、怒りは来たり、厭わしい思いは去ろうとはしなかった。だが、もう、いまはいっさいが愛憐される。驕りたかぶるものも、卑小なものも、人の世のすべてに愛憐を覚えないではいられない。それほど、人の世は遠くなってしまったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　老い果てた玉城徹という個人の喉を通して遠く果てしない彼方から「寂し」という語が響いてくる。人の世というものが根源にもっている寂しさが、耳に響いてくるかのようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『短歌現代』2010.9）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="http://www4.ocn.ne.jp/~tanka/page027.html"&gt;http://www4.ocn.ne.jp/~tanka/page027.html&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
短歌新聞社刊『左岸だより』8500円&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>読み切り</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>孫崎享著『日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて』祥伝社新書、2010.9.10</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/11/06/5473836</link>
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      <pubDate>Sat, 06 Nov 2010 11:51:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-11-06T11:56:16+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　 　戦略とは自己に最適な道の選択&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
 世界情勢は歴史的な転換期を迎えているというのに、日本の政治も経済もずいぶん長く停滞している。しかも先頃の尖閣諸島の問題など、何かしら危うく不安な思いをそそられる。本書のような領域にはまったくの門外漢ではあるが、一人の有権者として考えずにはいられず、手にとってみた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　著者は、外交官・大使として「悪の帝国」「悪の枢軸」とレッテルを貼られるソ連・イラク・イランで勤務してきたという。この間、チェコ事件、中ソ国境衝突、イラン・イラク戦争、9.11米国同時多発テロに遭遇し、「間違った戦略を採用した国の悲劇を目の前で見てきた」。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
 また、１９８５年、ハーバード大学国際問題研究所で安全保障を学ぶ中で、米国では「日本人は戦略的思考ができないと馬鹿にされているのを見た」。キッシンジャーは「日本人は論理的でなく、長期的視野もなく、彼らと関係をもつのは難しい。日本人は単調で、頭が鈍く、自分が関心を払うに値する連中ではない」と嘆いたそうだ。日本人は「独自の判断ができない。他に従っているだけ」という認識は国際的に定着しているという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　政治・軍事の領域ばかりではない。企業戦略の第一人者マイケル・ポーター・ハーバード大学教授は「日本企業はほとんど戦略をもっていない」と述べているそうだ。しかもこれは戦後の特徴ではない。第二次大戦中でも各国に比較すると日本は戦略面で非常に弱かったという評価が出ている。そもそも日本人社会全体が「戦略に弱い」。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　孫崎氏はいう。戦略とは「人、組織が死活的に重要だと思うことにおいて、目標を明確に認識する。そして、その実現の道筋を考える。かつ、相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する手段」。戦略論の歴史を見渡し、現在の研究水準を視野におさめて、こう定義する。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　従来の戦略思想とは「相手より優位に立つ」「相手をやっつける」視点から手段を考えるものだった。相手の損は自分の得、相手の得は自分の損。孫崎氏自身もかつてはそう考えていたが、いま新しい「ゲームの理論」に裏づけられて「相手の動きに応じ、自分に最適な道を選択する」ことが自らに最大の利益をもたらすと確信したという。勝利とは、敵対する者との関係ではなく、自分自身がもつ価値体系との関係で意味を持つ。相手に力で優位に立ったように見えても、それで自国が疲弊しては勝ったことにならない。「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という孫子の兵法が、最先端の戦略論で注目されているという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような最新の戦略思想にもとづいて、本書の後半では日米安全保障問題を具体的に見ていくのだが、驚くべき現実がつぎつぎに暴かれる。60年安保条約改定によって、ダレス国務長官の「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる」という方針は是認された。以後変更されていない。しかも、日本人の多くが何となく信じ込んでいる「核の傘」は、じつは無い。日米安保条約を精緻に読み込めばわかる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それでもかつての外務省中枢は、米国の世界戦略に巻き込まれないよう知恵を絞って「縛り」をかけた。だが、小泉政権以来、それを外そうとしている。日米同盟の深化というと良さそうだが、じつは米国の世界戦略に日本が使われることであり、また日本に核武装させて日中相打ちをさせる戦略さえあるという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　われわれは、新聞テレビで識者の意見を聞いて判断するよりほかないが、孫崎氏は、世論こそが国の運命を決めるのだから、肩書などに惑わされず、戦略的思考を一人一人が養って、何を述べているかで判断してほしいというのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
                                            　　　　　　　　　　　   （熊本日日新聞読書欄コラム「阿木津英が読む」2010.10）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>書評</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』岩波新書、2010.1.20</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/11/05/5472347</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/11/05/5472347</guid>
      <pubDate>Fri, 05 Nov 2010 16:15:27 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-11-05T16:21:36+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-11-05T16:21:36+09:00</dcterms:created>
      <description>   　　　民営化の果ての借金漬け国民&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それにしても、本書の内容はすさまじい。本当かしらと疑いたくなるほどだが、どうやら九・一一以後のアメリカ社会は根本から変質していっているようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
二〇〇九年一一月、カリフォルニア州立大学で何千人という学生が建物を占拠し、「大学民営化反対」「役員ボーナスをカットしろ」「教育をマネーゲームにするな」と書いたプラカードをもって行進したという。年間三二%の学費値上げを大学側が発表したのだ。学生たちのほとんどは奨学金やローンで学資をまかなっている。収入はあがらないのに学費が高騰し、中流家庭を直撃している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
米国には手持ちの資金がなくとも高等教育を受けられる学資ローンというものがある。それが今では学生たちを借金漬けにしているらしい。なかには日本の消費者金融まがいの高利率のものがある。払いが滞ると、ローン債権は知らぬまにつぎつぎと転売され、さらに高利率の利子がつき、やくざのような脅しによる取りたてが始まる。しかも、この借金は自己破産ができない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「中流階級にとって最も大きな夢であるマイホーム、そして誰にも開かれた教育という二つが、借金地獄という底なし沼となり、人々を飲みこむことになるとは、いったい誰が予想しただろう?」と、著者はいう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
また、国民皆保険制度のない米国では、医療費が高額なのは周知のこと。「二〇〇九年に医療費が払えず破産を申請している国民は約九〇万人、そのうち七五%が医療保険をもっている」。医療保険制度改革は急務であり、オバマ大統領はそれを公約して当選した。ところが、このたびも医療保険会社や製薬会社など医産複合体とメディアとの結託により、巧みな情報操作がされて、中途半端な骨抜き案となってしまった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
医療活動家デイビッド・ワーナーは言う。「金さえ出せば長生きできるという考え方が医療を商品化し、富める者を薬漬けに、貧しいものを借金漬けにし、いつしか人間が本来持つ生命力を奪ってしまいました」。すべてを数字で測る利益と効率至上主義は、患者と医師との繋がりや、医師のなかにあるはずの誇り、充実感さえも医療現場から奪っていった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さらに信じられないのが、第四章「刑務所という名の巨大労働市場」である。トイレットペーパーから図書館の利用料にいたるまで有料、刑務所でも囚人たちは借金漬けだ。さらに、第三世界より安い囚人労働力の「国内アウトソーシング」によって、民営化された刑務所ビジネスは「夢の投資先」だというのである。「テロとの戦い」で加速した厳罰化によって囚人の数には困らない。三度有罪になると終身刑になるというスリーストライク法によって、終身刑になる若者が増えてもいる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
九・一一以後、昔の日本の治安維持法に似た愛国者法があっというまに成立したというが、その後の米国社会のありさまを著者は、本書の前編である『ルポ貧困大国アメリカ』（岩波新書）および本書、そして『アメリカから〈自由〉が消える』（扶桑社）と、三部作のつもりで書いたという。他の二冊も、驚くようなことばかり。一読をお勧めしたい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
民営化民営化と自由競争があたかも良いことであるかのように言われてきた。その行きついた果てがこれだ。郵政民営化・裁判員制度などを含む年次改革要望書が米国から毎年送られてきていたというが、対米追従政策はもうゴメンだと思わないではいられない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　（熊本日日新聞読書欄コラム「阿木津英が読む」2010.6）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>書評</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>茅野雅子「女の詩」・・・・詩歌のジェンダー</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/10/14/5408664</link>
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      <pubDate>Thu, 14 Oct 2010 09:30:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-10-14T09:40:45+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-10-14T09:40:45+09:00</dcterms:created>
      <description>　与謝野晶子・山川登美子とともに「明星の三才媛」と言われた増田雅子は、同じ『明星』の歌人であった茅野蕭々と恋愛、結婚して茅野雅子となったのち、『青鞜』第二巻第一号（明治四五年一月号）に「女のうた」と題する次のような詩を寄せた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　一&#13;&lt;br&gt;
君はなほ夏の鳥の如く&#13;&lt;br&gt;
楽しげに浅はかに歌ひ給へば、&#13;&lt;br&gt;
我が苦しみも涙も&#13;&lt;br&gt;
蒼白き頬も知るに由なからむ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
況して我が背負へる十字架を、&#13;&lt;br&gt;
『子』といふ重き黒き荷を、&#13;&lt;br&gt;
降りつもる雪を、赤き我が素足を、&#13;&lt;br&gt;
如何で知り給はむ。&#13;&lt;br&gt;
恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、&#13;&lt;br&gt;
君は男にて我は女なれば。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
実に恋は男に快楽を歌とのみ与ふれど&#13;&lt;br&gt;
我等には尽きざる苦みと、子と、涙と、&#13;&lt;br&gt;
それより生るる新しき真の大なる生命をもたらしぬ。女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　二&#13;&lt;br&gt;
夕ぐれの心を如何に云ひ出でむ&#13;&lt;br&gt;
この女のみ感じ得べき或ものを。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
遠き地平に消えてゆく光の微動と&#13;&lt;br&gt;
しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂を、&#13;&lt;br&gt;
我等が細き皮膚ならで&#13;&lt;br&gt;
何物かよくわかち得む。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
また見えそむる星に、水の皺に、&#13;&lt;br&gt;
我が長き黒髪に響き出づる&#13;&lt;br&gt;
この妙なる歌を如何に云ひ出でむ。&#13;&lt;br&gt;
あはれ夕ぐれのこころを。女の秘密を。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　三&#13;&lt;br&gt;
言葉には云へざる故に黙すを、&#13;&lt;br&gt;
なほ語れとせめ給ふや、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
広く大なる世界より&#13;&lt;br&gt;
我等が感ずるものは、&#13;&lt;br&gt;
大方かく妙に細かければ&#13;&lt;br&gt;
男も知る粗き言葉には云ひ難し。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あはれ君の女ならましかば。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　茅野雅子は、この詩で、＜女の領土＞ともいうべき場所を採り出している。それはまず、「苦しみ」「涙」「蒼白き頬」「『子』という黒き重き荷」に象徴されるような場所、男の永久に知らない、知ろうともしない、うち捨てられた場所だ。新しい天地を求めた恋の結末に、女はこのような苦い重い十字架を負わされるが、男はあさはかに夏の鳥のごとく歌い続けている。しかし、考えてもみよ、重い十字架を背負うものほどいっそう「新しき真の大なる生命」を生み出すことができるのだと、雅子は価値を逆転させ、男にうち捨てられた場所を＜女の領土＞化した。これまでのようにただ忍従するというのではなく、男より「大なる生命」を生み出す機会として、苦悩をすすんで引き受けようとする強い新しい女性像をうちだそうとした。&#13;&lt;br&gt;
　この「女のうた」は、大正六年に刊行された『金沙集』に収められている。それを見ると、この詩の少し前に、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　あさはかの思ひなりけり男をばいな自らを頼みてしこと&#13;&lt;br&gt;
　　子の上と厨のことを思ふ外に命ひまなし浅くもあるかな&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
などを含む、「浅き心」六首が並ぶ。「男をばいな自らを頼」んで、ともに学び合う、新しい男女の生活が営めるものと結婚したが、それは「あさはか」なことであった、現実の女の生活は「子の上と厨のことを思ふ」ばかりで、命の浅い日々であると嘆く。「あさはか」な「浅い」存在は、歌では、女である自分の方なのだった。&#13;&lt;br&gt;
　また、「浅き心」一連の次には、「見えぬ世界」と題する、次のような歌を含む六首が並ぶ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　我等より見る天地の外をゆく星に等しと男をおもふ&#13;&lt;br&gt;
　　女には見えぬ世界に時ありて如何なれば君の行き給ふらむ&#13;&lt;br&gt;
　　夢にだに我れの見がたき国へゆく刹那の君の憎くもあるかな&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、子の歌三首を含んで「女のみ感じ得べき或もの」の言語化を意図したかに思われる「五月」一三首を並べ、そして冒頭の詩「女のうた」が来るのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これらは、明らかに同一主題による変奏といえよう。わたしたちは詩と歌と合わせて読むとき、雅子の採り出そうとした＜女の領土＞の輪郭をいっそう明確にたどることができる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それはまず第一に、現実生活における女の、その周縁化されたあり方を暴き出そうとするものであった。女にも同等の精神を認めようとする男と＜恋愛＞し、新しい男女の生活を夢見て結婚したはずの女が、いよいよ現実生活に入れば、いかに社会のジェンダー規範という罠に陥って、締めつけられ、周縁化され、苦しまざるを得なかったか。なかでも「『子』という重き黒き荷」は、当時にあっては女のみに課された、女の逃れられない宿命と感ぜられた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　じつは、雅子の詩「女のうた」の四カ月前、同じ『青鞜』創刊号（明治四四年九月）巻頭に掲載された与謝野晶子の詩「そぞろごと」一連にも、そのような女の苦しみは充分に表現されている。「山の動く日来る」という高らかな言揚げで始まる「そぞろごと」一連の詩が、現実に直面して憔悴した「青白き我顔」のイメージで締め括られていることは、よく知られている。類似の語句と発想のある雅子の詩「女のうた」は、四か月後という時期から考えても、同じように現実生活に女として苦しんでいるものからの、いわば返し歌であったともいえよう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　晶子の「そぞろごと」一連の詩は、眠りから目覚め、理想に燃えて出発したはずであった女が、やがて現実をまえに破れ去る理想の惨憺たるありさまを描きだして迫力がある。実世界の前に必ず想世界は破れるといった北村透谷を思わせるような晶子の詩は、男のみならず、女にとっても現実の前に理想は破れるのだと告げる。それは、いま理想を掲げて船出したばかりの若い世代平塚らいてうらに対する、教訓めいた意味合いさえ感じ取れないこともない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、雅子の詩は少し違った。雅子の詩は、晶子に応えるかのように、その惨憺たる女の現実を受容する強さを持って、なおかつそこから理想へと踏み出そう、理想を失うまいと呼びかけた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、もう一つ、この詩の大きなポイントは「恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、／君は男にて我は女なれば。」というところ、『金沙集』の歌をも援用すれば、「女には見えぬ世界」があるということを採り出したところにある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　社会に周縁化された＜女＞という場所からは、男の住む広大な世界は決して見通すことはできず、もちろん渡っていくこともできず、女の「天地の外」の隔絶した世界であるということを、雅子の詩と歌とは告げる。周縁化された場所から、中心へは決して視線は届かないのであった。また、そのような周縁化された場所に生まれる思いは、中心たる場所からは永久に知られず、知ろうとさえもされず、うち捨てられた場所なのである。雅子の詩と歌は、このような社会に周縁化された場所に立って、そこからの遠近法＝ものの見え方を採り出し、非対称な＜女＞と＜男＞の関係を採り出した。現実生活を生きる女の場から、ジェンダー構造をつかみ出したといっていいのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　では、さらに具体的に「女のうた」に即しつつ、見ていってみよう。まず、第一連では、右に述べたように、この周縁化され、うち捨てられた苦悩の深い＜女＞の場所を、キリスト教の教えを借りつつ価値を逆転させる。むしろ、あえてそこを「新しき真の大なる生命」を生み出すことのできる場所として＜女の領土＞化する。そして、「女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。」と、なお＜恋愛＞を讚える。　しかし、現実には、この価値の逆転はいかにも危ういだろう。雅子自身、「浅きこころ」六首にもうたったように、現実を前に敗北寸前なのであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、「女のうた」の第二連では、「女のみ感じ得べき或もの」があると、ジェンダーではなく、セックス（生物学的性差）に基づいた＜女の特性＞を展開する。女は、男よりはるかに「細き皮膚」を持っているので、「夕ぐれの心」「遠き地平に消えてゆく光の微動」「しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂」「見えそむる星に、水の皺に、我が長き黒髪に響き出づる／この妙なる歌」を感じ分けることができる、という。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　じつは、晶子の「そぞろごと」一連中にも、「われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を」「愁ふるは、若し粗忽なる男の手に砕け去らば。ーー」というように、＜女の特性＞を繊細で脆く、＜男の特性＞を粗忽とする詩句は見えていたが、雅子はそれをいっそう組織的に展開した。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような生物学的性差に基づく特性の称揚は、あたかも負け惜しみであるかのような周縁化されたジェンダーとしての＜女＞の場所からの価値逆転より、男の身体を持つものに対して、いっそう対等たり得る価値の根拠を＜女の領土＞に与えるように見える。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それにしても、雅子がここで「女のみ感じ得べき或もの」として列挙したものの、何としめやかでおぼろでこまやかで〃女らしい〃ことか。ほんの四カ月前、『青鞜』創刊号には、与謝野晶子の「山の動く日来る」という堂々たる女性覚醒の宣言があり、また平塚らいてうは「元始、女性はじつに太陽であつた、真正の人であつた、いま、女性は月である」と、これまでの月としての女性像を否定して、赫赫たる太陽としての女性像を掲げたのであった。従来の〃女らしさ〃を否定する〃新しい女〃というイメージにぴったりの、これらの女性像の力強さに比べて、雅子の「夕ぐれの心」「星」「水」「黒髪」に象徴される女性像は、あまりにも〃女らしい〃。しかし、雅子は、これをあえて対置した。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　のみならず、目覚ましいことには、第三連でこれを「言葉」の問題へと転化させたのである。「言葉には云へざる故に黙すを、なほ語れとせめ給ふや」「男も知る粗き言葉には云ひ難し」ーー「細き皮膚」の感じ得る「微動」や「匂」を言い表す＜女の言葉＞はいまだない。「男も知る粗き言葉」ーーすなわち男の耳にも届くような「粗き言葉」では言い表せない。だから、女はしばしば沈黙せざるを得ないという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こうして、雅子の「女のうた」は、現実社会を生きる女として周縁化された場所に立たされながら、なおかつそこを領域化すべく、＜女の特性＞の根拠を女の身体に求め、その感受のゆたけさがいまだ認知されないのはそれを現わす＜女の言葉＞が無いからなのだという地点にまでいたる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、雅子がいう「夕ぐれの心」から生まれるような、おぼろかな「光の微動」やしめやかな「匂」や、繊細なかすかな＜女の言葉＞は、本当にいままで存在しなかったのか。歴史文化を振り返るなら、日本的と称されるものには、しばしばこのような徴がついていたのではなかったか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、北原白秋は、『創作』明治四三年六月号の「桐の花とカステラ」で、「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精である」と述べ、さらに次のように書いている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤が私のこころの小さい古宝玉の緑であり一弦琴の瀟洒な啜り泣である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、「なんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしい」「私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい」とも述べる。白秋は、日本の古い歌を、西欧のオーケストラや油絵に匹敵するようなものへと近代化しようとするあまり、「一箇の小さな緑の古宝玉」たる歌に過重な負担を担わせがちな当時の幾多の試みに反論して、このように言うのであった。それも、たんに歌を古いままに墨守していこうというのではない。右に引いたエッセイ「桐の花とカステラ」の文章だけを見ても歴然とするように、カステラをはじめとして、吹笛・西洋料理店・フラスコ・アレンヂメント・タッチ・フレッシュなどなど、ひんぱんに片仮名語を混ぜ合わせながら、あたかも異邦人が日本の古い歌を初めて発見したかのような視線をもって、その小さなかすかな美しさを讚え、その美を損なう過重な近代化を戒めるのである。これは白秋だけのことではない。白秋が属した『パンの会』のような、いわば文学の科学的近代化ともいうべき自然主義思潮に抗して、そういう一つの流れが当時あった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同じ新詩社の歌人である茅野雅子には、このような白秋たちの流れは共感しやすかっただろうし、また当時新進気鋭の詩人でもあった白秋のエッセイ「桐の花とカステラ」は必ずや読んでいたはずである。雅子が、晶子やらいてうの堂々たる「山」や赫赫たる「太陽」に象徴される、白昼の光のもとに立つ新しく力強い女性像を排して、いかにも〃女らしい〃ほのかな繊細な「夕ぐれの心」を対置したのは、このような白秋たちへの共感があったことはまちがいないだろう。さらに、雅子自身の国文科（日本女子大学）に学んだ経歴も、そこには関わっていたかもしれない。　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　雅子は、「星」や「水」や「黒髪」に象徴される「女の秘密」＝女の美を、白秋のように異邦人の視線をもって（ということは、つまり＜男＞の視線をもってということにほかならないのであるが）、再発見しようとしたといえよう。王朝時代から「男手」「女手」「男文字」「女文字」といった対語のある日本では、このような〃女の美〃の提出の仕方は理解されやすく、説得力あるものである。　ところが、雅子が掲げるような、ほのかなしめやかな繊細な美は、歴史を振り返ればすぐわかるように、とくに実体としての女のみが担ってきたというわけのものではない。男である白秋も日本の古い歌に「空気の微動」「寂しい湿潤」「微かな月光」「陰影」を求めるように、＜女性性＞としての日本の美を求めるものは、とくに実体としての女である必要はない。だから、それらは、現実の周縁化された＜女＞という場所にあるものの存在証明にはならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　だからこそ、雅子は、現実に周縁化された場所で苦しんでいる女として、この文化の上での〃女らしさ〃（＝女性性）を、女の身体を根拠として、実体としての女の上に奪回しなければならなかったのである。雅子には、実体としての女だけが放つことのできる「言葉」、女の身体にのみ根拠づけられた「言葉」、すなわち＜女の言葉＞がぜひとも必要だったのだ。それゆえ、現実における＜女の言葉＞の不在を論理的な帰結とせざるを得なかったけれども。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　現代のわたしたちはもはや、「細き皮膚」に象徴される女の身体を根拠に、「女のみ感じ得べき或もの」があり、それは夕ぐれの「光の微動」や、湿った「靄の匂」や、「星」や「水」や「黒髪」から生まれる歌のような、いわゆる〃女の感受性〃〃女の感覚〃といったようなものがあるとは、ほとんど信じない。あるように思われるとすれば、それはそのような感じ方の累積が、象徴体系のなかに組み込まれてジェンダー化されているのだ、といった方が正しいだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、漢詩ｖｓ和歌というときの和歌に代表されるような、小さなもの、優美なもの、繊細なもの、おぼろかなものを愛するといった特徴を持つ日本の文化を、＜女＞として比喩することに、わたしたちは耳馴れている。だが、ここに見る文化の上でのジェンダーと、たとえば明治という時代における社会規範としてのジェンダーとは、似て非なるものであることを、わたしたちはよく承知しておかなければなるまい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　茅野雅子の詩と歌とが採り出したように、社会に周縁化された＜女＞という場所は、中心＝＜男＞を成立せしめるためには無くてはならぬ下支えであるが、忘れられてよい、うち捨てられた場所なのであった。しかも、＜女＞という場所からは、＜男＞の世界はまったく見通すことのできない「見えぬ世界」である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一方、先進的な中国大陸文化に対する、あるいは西欧文化に対する自文化の特性を、みずから＜女＞としてジェンダー化するとき、この＜女＞は、中心たる中国大陸文化ないし西欧文化の無言の下支えであろうとするのではない。ここにおける＜女＞は無関心にうち捨てられるどころか、たとえば先の白秋の主張にも見るように、いつの時代にもつねに男たちにとって問題の一焦点であってきた。ここに、中心ー周縁の関係は無い。むしろ、彼らは＜女＞でもあり得る＜男＞として、先進文化たる＜男＞に対して差異化をはかり、たがいに対等な関係であろうと志向している。　茅野雅子の詩「女のうた」は、この二つの似て非なるジェンダーを、実体としての女の立場から直結させようとした。周縁化に屈しない新しい時代を生きる女として、女の身体を根拠に、新しい視線で〃女らしさ〃を再発見する歌、そのようなものを希求しようとしたのであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　だが、そんなことは可能なのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
浅みどり遠き世界の消息を秘むるが如き森に来しかな&#13;&lt;br&gt;
匂やかにかはせみ色の羅の中に我がある如し初夏の森&#13;&lt;br&gt;
植木屋の小さく刻む鋏より真珠ちるかと耳立つる朝&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　詩「女のうた」の直前に配された「五月」一三首より。『金沙集』全体に白秋の影響濃く、ここにもそれが見られる。「女のみが感じ得る或るもの」を言い表そうとするとき、男である白秋の影響を受けざるを得ないことの矛盾はさておくとしても、エッセイ「桐の花とカステラ」で言揚げした白秋が見事に歌集『桐の花』の歌へと脱皮していったようには、これらの歌はうまくいっていない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『桐の花』における白秋は、異邦人の視線をもって、それまでの日本の古い歌にまつわりついていたぬめりを洗い流すことができた。つまり、オリエンタリズム（サイード）を構成する西欧的主体の視線を模擬することによって、日本的なるものの自己否定と肯定とができた。だが、雅子の歌に、それはない。むしろ、「匂やかに」だの「真珠散るかと」だの、いわゆる固定観念としての〃女らしさ〃に全面的に自己同一化してしまっている。　これは、根本的には、雅子の才能にのみ帰せられる問題ではないのではないか。実体としての女（周縁化された客体）は、白秋のなし遂げたような西欧的主体（男＝中心的主体）の視線を模擬して、自らを主体化することはほとんど不可能だということの証左ではあるまいか。＜女＞が＜男＞の視線を模擬するとき、＜女＞は、その内面化した視線によって自らをもう一度客体化する。雅子は、内なる＜男＞の視線によって、固定観念としての〃女らしさ〃にいっそう自己同一化してしまう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　じつは、わたしは、この稿を書くために、いくつか近・現代詩史に類するものをひらいてみた。詩は、日本の伝統的な詩型である短歌や俳句に対して生まれた形式であり、ことに近代詩から現代詩へとわたる過程に「短歌的抒情」なるものを否定してきた経緯を持つが、わたしはあらためて詩が、日本的なるものあるいは〃女らしさ〃から遠ざかろうと一貫して努めてきたものであることを確認した　また、＜女性性＞のみならず女性そのものをも排除してきたことを、中島美幸は、アンソロジー『日本の詩１０１年』（新潮社、一九九〇年）に採用された女性の詩の数が一割しかなく、しかも戦後女性詩人を全否定した選びを指摘して批判しているが（「女性の詩意識をめぐる現在ーー『戦後女性詩人』再考ーー」、一九九二）、そのとおりであろう。　しかし、わたしはまた、同アンソロジーでの辻井喬・平出隆対談「百年の詩史の光景」で、〃観念としての女性性復活〃が希望されていることに注目する。これは、一貫して＜女性性＞なるものから遠ざかろうとしてきた詩形式としては、当然起こって来るべき反省であり、欲求である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、ここに茅野雅子の歌と詩に見たように、いまだ＜女＞という周縁化された場所から脱し切らない他ならぬ女であるものには、このような＜女性性＞なるものへの、何ら手続きなしの回帰は、自縄自縛に陥るも等しいことになろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　（『国文学　解釈と教材の研究』第47巻1号、学燈社。2002年1月）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>読み切り</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>方代散策――『迦葉』を読む（4）</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/09/21/5359010</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/09/21/5359010</guid>
      <pubDate>Tue, 21 Sep 2010 09:04:16 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-09-21T09:25:33+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-09-21T09:23:33+09:00</dcterms:created>
      <description>　　　十一、学校&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「一休」つまり一休みだから、ここで一服の「一ぷく」さんというわけかしら。本当の一休さんはとてつもなく偉い人らしいが、「学校を出ていないゆえ」難しいところはわからないので今も「一ぷくさん」などとダジャレで親しげに呼んでいる――。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「今も呼んでいる」のは、人かわれか、特定できない。方代の歌は、時間軸の上に位置づけて解釈できないのと同様、歌の主体が「われ」か「人」かということも決定しにくい。そういう作り方をしていないのだ。読む方が、勝手にこれは方代（＝作者）のことだと決めて解釈しているだけの話である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　周知のとおり、一休禅師は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、後小松天皇の落胤とも言われ、自由奔放、風狂の精神に生きたとされる。とんちの一休さんは、民衆の共感によって江戸時代につくられたフィクションなのだそうだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　歌は、控えめになされた民衆の主張である。難しいことはいっさいがっさい丸め込んで呑み込んだ民衆の共感というものこそ真を突いている、それでいいではないか。「学校を出ていないので」と言い訳をしてへりくだりながら、歌はそう主張するのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　知的エリート層に対する「民衆」、歴史を動かす有名人に対する無名の人々、そういう層に照明をあてる学問や評論や運動はこれまでにもたくさんあった。わたしはいつもその前で立ち止まり、警戒しないではいられない。しばしば、そこから偽善と感傷と陶酔とがにおってくるからだ。「民衆」に知の照明をあてて対象化するというそのこと自体が、高みの位置を証している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そういう「善意」の知的エリート層の感傷から立ち現れた〈民衆〉の幻影を、民衆の側から内面化して反復する、という心理も、またあるのであって、それも嫌だ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代のいう「民衆」は、それらに類似したものなのか。それとも違うのか。違うとすれば、どう違うのか。そういう疑問は、ながく胸にとどまっていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わたしは、いまここにある「学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる」という歌を、ほとんど犬のように嗅ぎ分けてみようとする。そうしてついに、一片の偽善も感傷も、ルサンチマン（怨恨感情）もコンプレックスも感じられないことに、目をみはる。読後にまったく嫌な味が残らないのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代は、昭和初頭の片田舎の尋常高等小学校卒でしかない。立身出世の学歴社会にあって、貧困や家庭環境によって高等教育を受けることができず、やっと作歌に慰めを見出したり、奮起して働きながら学費を稼いだり、そういった歌人はいくらもいた。ことに大正末期から昭和初期にかけては労働運動が勃興し、渡辺順三や坪野哲久など、マルキシズムに覚醒していく者も多かった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　当時のほとんど流行とも言うべき社会主義の方向に、なぜ方代は関心を惹かれなかったのか。なぜ、方代の歌には学歴コンプレックスらしいものが感じられないのか。社会主義の根底にはルサンチマンが潜むとニーチェは喝破したが、そういう社会に対する恨みつらみや、反語や当てこすりや居直りのような嫌味が、方代の歌にはまつわっていない。それでいて、ものの真を突く直観をもった民衆としての場所に立っている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代は、いかにして民衆の言葉を語り得たのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『甲陽軍鑑』によってであろう。今、そう言えるように思う。全歌集年譜を見ると、昭和三年、十四歳の年に「父龍吉から甲陽軍鑑を勧められ読む（方代談）」とあるが、『甲陽軍鑑』は以後、方代の土台をつくりあげた書であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほつと安気なんだよ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『迦葉』の最後の方にはこのような歌もある。『甲陽軍鑑』が方代にとって重要な書物であったことは、疑いない。しかし、それが歌そのものとどのように関わってくるのか。玉城徹は『迦葉』解説で、方代の方法論二方向の一つとして「叙事詩的性格」をあげ、「方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている」と短く触れたが、ほかにはこれまで論じたものをほとんど見ないようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わたしにしたところが、長く心に掛かりながらも探索を怠ってきた。（何しろ、軍鑑を軍艦だとばかり長いあいだ思い込んで、頭をひねっていたくらいの、ものを知らない者であったから）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このたびは思い立って、『甲陽軍鑑』を少々ひもといた。そうして、驚いた。方代の「民衆」の基盤はここにある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼二代にわたる全二十巻におよぶ歴史物語で、「武士道」という言葉がはじめて見出される文献であるという。原形をつくった筆録は、信玄の老臣高坂昌信（一五二七～一五七八）である。講談や歌舞伎狂言にも翻案され、江戸時代から庶民にもひろく読まれ、現代も組織の上に立つ者の心得の書として読まれているらしい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『甲陽軍鑑』の口書（はしがき）は、つぎのように始まる。引用は、佐藤正英校訂／訳『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫から。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
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&#13;&lt;br&gt;
　一、	この書物、仮名(かな)づかひよろづ無穿鑿(ぶせんさく)にて、物知りの御覧候(さふら)はゞひとつとしてよきことなくて、わらひごとになり申すべく候。子細(しさい)は、我等元来(ぐわんらい)百姓なれども、不慮(ふりょ)に十六歳の春召し出され（略）少しも学問仕つるべき隙なき故、文盲第一に候ひてかくのごとし。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
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　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　この本は、物知りが見たら仮名遣いも不調法で、笑い事になるようなものだろう、というのも私は元来百姓で、偶然召し出されてからも少しも学問する隙がなかったから、文盲同然なのだ、という。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高坂弾正はつつましくしかも一徹な人だったようで、もちろん謙遜の弁でもあろうが、それにしても虚をつかれる。&#13;&lt;br&gt;
　さらに三番目の項目には次のようにも述べる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一、この本仮名(かな)にていかゞなどゝありて、字に直(なほ)したまふこと必ず御無用になさるべし。結句(けつく)唯今(ただいま)字のところをも仮名に書きて尤(もつと)もに候。（略）さてまた仮名の本を用ふる徳は、世間に学問よくして物よむひとは、百人の内に一、二人ならではなし。さるに付(つ)き、物知らぬひとも仮名をばよむものにて候(さふらふ)間(あひだ)、雨中のつれ　　にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうにとの儀なり。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この本が仮名書きでは権威がないなどと言って字、すなわち漢文に直すようなことは絶対にしないでくれ、むしろ漢文の部分を仮名に書き直すのはよい、という。仮名書きの本がいいのは、世間に学問のある者は百人中一、二人もいないからだ。物を知らない人でも仮名は読むので、雨の日のつれづれにでも、無学の老いも若きもお読みくださるように、というのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『甲陽軍鑑』の写本を、インターネットで見ることができるが、なるほど漢字仮名まじりの読み下し文であり、漢字の部分には多く振り仮名がふってある。信玄の書いたという五十七箇条御法度の部分のみは返り点のついた漢文で、ここが「字」の部分である。当時のきちんとした書物は、このような漢文であったのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　十四歳の方代が、父親から勧められて手にとった『甲陽軍艦』とは、どんなものだったのだろう。国会図書館のネット検索をすると、甲府・温故堂が明治二十五年に出版した『甲陽軍鑑』というものがある。画像で見ることができるが、写本をほとんどそのまま大きめの活字で組んだ、分厚い二冊本である。おおよそ右の引用文から句読点をはずしたような文面である。現代から見ればけっして読みやすくはない文語文で、父龍吉が読んだとすれば口語訳があったとも思えず、父子の読み書き能力はあなどれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高坂弾正の生きた時代から四百年後、右左口尋常高等小学校生徒である少年方代は、「雨中のつれ　　にも無学の老若(らうにやく)取りてよみ給ふやうに」という配慮そのまま、雨が降って外仕事のできない日のつれづれに温故堂『甲陽軍艦』を棚から取り出してきて、土間で手仕事をする父龍吉に読み聞かせたのではあるまいか。戦国武将の物語に胸躍らせながら講談よろしく読み続けるその合間合間で、父龍吉は昔話や思い出話を差し挟んだかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こういう父子の語らいのなかで、『甲陽軍鑑』のモラルがしみこむように伝えられていく。『甲陽軍鑑』は、今のわたしたちが想像するようなストーリーでひっぱってゆく武田信玄の物語ではなかった。具体的な事例を掲げて物語りながら、いつのまにか武士としてのモラルが身についていくような、そんな書物なのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　折口信夫は、万葉集の「否といへど強(し)ふる志斐のが強語(しひがたり)このころ聞かずて朕(あれ)恋ひにけり」（二三六　天皇の志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜へる御歌一首）など解説しながら語部ということを言ったが、歴代の出来事を叙事しながら、そのことがそのままモラルを伝えることになるという、『甲陽軍鑑』はそういう古来の語り口をもった書物であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　先の口書冒頭からして、十六世紀戦国武士のもっていたモラルと、そのモラルを堂々と引け目なく押し出していこうとする、ほとんど強烈といってもいいほどの自信・矜持が感じられる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「我等元来(ぐわんらい)百姓」であった者が偶然召し出されて奉公専一、学問などするひまもなく文盲同然であると憚らず書くところ、さらには誰もが読めるようにあえて仮名書きで筆録すると書くところ、ほとんど何か革命的なことのように思える。これは、新しい時代の主体による、卑しめられてきた非公式文体の正式な認知をせまるものだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
一、侍(さむらひ)衆(しゆう)大小ともに学問よくして物知り給はんこと肝要(かんえう)なり。但(ただ)し、なに本にても一冊、多くして二冊・三冊よみて、その理(り)によく　　徹してあらば、必ず多くは学問無用になさるべし。ことに詩・聯句(れんぐ)などまであそばすは、なほもつてひがごとなり。（以下略）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
一、学問の儀、右国持つ大将さへあまりはいかがと存ずるに、まして小身なるひとは、奉公を肝要(かんえう)にまもるひとの、学をよくとおぼさんには、無奉公に成りて家職(かしよく)を失なひ、不忠節の侍になる。（略）何(いづれ)の道も家職を失はんこと勿体(もつたい)なし。（以下略）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
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&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「出家は仏道修行の儀」「儒者は儒道の儀」「町人はあきなひのこと」「百姓は耕作のこと」が家職である、どんな「諸細工人・諸芸能」でもその道々の業に心掛けるのが第一、武士に学問は無用と言うのである。無学無骨を嗤う公家階級に抗して、下積みから興隆してきたばかりの新しい階層のモラルを胸を張って押し通そうとする、そういう新鮮な矜持が行間にみなぎりわたっている。戦国時代がどのような時代であったか、肌で感じられるような気がする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　父龍吉は、方代が小学校をあがると百姓仕事をたたき込み、「息子が本を読んだりするのをきらい、見付けると破ったり燃やしたりしてしまった」（方代随筆補遺『山崎方代追悼・研究』）というが、じつはこれこそが『甲陽軍鑑』のモラルなのであった。本は一、二冊でもしっかり読んでおけば、あとは学問無用でけっこう。それぞれの業をきちんと尽くせば大いばりで生きていいという大いなる自己肯定に生きる人々こそは、方代の「民衆」であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　だからこそ、百姓の子として生まれた方代が、父親の仕込みにも関わらず百姓としての分を尽くさず、「詩・聯句」などのようなものに嵌ってしまったこと、これは方代が年齢を重ねれば重ねるほどに、生涯の負い目になる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高坂弾正の戒めにも関わらず、穴ぼこに落ちてしまって、引き返すこともままならない。しかしながら方代はその代償のように、「民衆」のすぐとなりにあって「民衆」の声を伝えていこうとする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代の新仮名遣い口語混じりの歌体も、そのもっとも根底には、「仮名の本を用ふる徳」をもって非公式文体の正式認知をせまった『甲陽軍鑑』の記憶があったのに違いない。明治近代国家の上からの要請による「言文一致運動」、すなわち新時代には新時代の口語文体でというような「口語文イデオロギー」と、方代の口語混じり文体とは、動機の根底において異なっていた。それが、方代の歌が、他のどんな口語短歌とも異なって感じられる理由である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『牙』2010.8）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>方代散策 『迦葉を読む』（3）</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/09/13/5345423</link>
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      <pubDate>Mon, 13 Sep 2010 15:39:04 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-09-13T15:49:33+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-09-13T15:47:08+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
　　　八、急須&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和五十六年『うた』十月号初出。あなたとは朝な夕な手にとってはお茶をいれる急須のように親しいつき合いだが、という。「そなた」の語からしても、相手は女に他ならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それなのに、歌を読んで浮かんでくるのは、乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとり暮らしの老いそめた男の姿である。「そなた」は、所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する。じつに高等な比喩法ではないか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　寂しくてひとり笑えば卓袱台(ちゃぶだい)の上の茶碗が笑い出したり&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　さびしいから灯をともし傍らの土瓶の顔をなでてやりたり&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　卓袱台の上の土瓶がこころもち笑いかけたるような気がする&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一九八〇（昭和五五）年刊『こおろぎ』から土瓶や茶碗の歌を拾ってみた。すべて明白な擬人法を採る。方代の歌は、そもそも擬人法に特色がある。童話のようななつかしさも、わかりやすさも、歌に擬人法を多用するところがおおいにあずかっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　掲出の歌も、擬人法で発想するなら、「急須とはおんな（女房）のように親しくて」とか、「そなた急須よ」とか、そんなふうになるところ。これなら『こおろぎ』時代と同水準の歌だ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、ここでは「そなたとは急須のようにしたしくて」――単純な擬人法ではない。「急須のように」は、比喩という以上に「急須」という語が実体の重みをもっているので、「そなた」と「急須」の転倒だと誰もが気づく。しかも、指し示す語の力によって「そなた」の幻影はたたないではいない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「そなた」は「急須」でもあり、「急須」は「そなた」でもある。方代は、幻影とも実在ともつかぬ交錯するあわいを、こういう叙法によって発見した。このあわいだけが確かなもの（＝ほんと）で、実在している（とみんなが思っている）「うき世はなべて嘘ばかりなり」。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　擬人法は、モノがいかにも人に化して見えてこないといけない。『こおろぎ』の「茶碗」も「土瓶」も、まるでほんとうに笑っているかのようで、そういう幻影をちゃんと見せてくれるからこそ、歌がたのしい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかしながら、認識の根本をただしてみるとき、『こおろぎ』の擬人法では「急須」は依然として実体であり、「うき世」は実在する。幻影は、作者がつくり出した幻影に過ぎず、作者だけに所属する主観のもたらしたものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、『迦葉』のこの歌にあっては、「そなた」こそが実在するのであり、「急須」は比喩として引合いに出されているにすぎない。にもかかわらず、作者も読者も、「急須」こそが眼前にあって「そなた」は幻影であることを知っている。この矛盾した叙法によって、実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　実在は実在、幻影は個人の主観から生まれるものという、いわゆる客観－主観の二元論を超えて、そのあわいを〈開く〉――方代の擬人法はこんなところにまで出てきたのだった。驚くべきことである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　九、生の音&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　おだやかな生の音なり柚の実が枝をはなれて土を打ちたり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。熟し切った柚の実が、あるとき枝から土に落ちる。やわらかな土に落ちる、そのときの音を「おだやかな生の音」だと聞いた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　眼前に見てうたったわけではない。近所に熟れた柚の木を見たり、どこか畑の土に柚が落ちているのを見たり、もしくは何かで「柚」の文字を見たというだけでもよい。それをきっかけに、柚の実が落ちるときの音を耳の内に聴いた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「枝をはなれて」土を打つという、枝から土までの距離によって、いかにもやわらかい土に受けとめられた柚の重さが感じられる。一般には果実の落下の比喩は「生の終り＝死」だろう。ふかぶかとした落下の音はおだやかな死を迎えた証。おだやかな死は、おだやかだった生の証であるから、理屈としては「生の終り＝死の音」と「生の音」は等価である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、歌としての差は、はなはだ大きい。「おだやかな最後（死）の音なり」では、落下の瞬間に集中した「音」の歌となる。一方、「おだやかな生の音なり」とすると、柚の過ごしたおだやかな生の時間の集約として「音」はあらわれる。しかも、「生の音」という語が下句にまで響いて、落下した柚はなお生き続けているかのように感じられる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここにも、「生」と「死」、実在と非在との交錯するあわいが取り出されているといえまいか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　十、豆腐と戦争&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。奴豆腐を酒のさかなにつまみながら、近づいてくる戦争の気配を感じている――。言っていることは少しも難しくはないが、どこか言いおおせてないような、不安定な気分をさそわれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「近づいてくる戦争の音を聞いていた」。こう言い切ってくれれば、かつてそういう時期を体験したのだなとわたしたちは納得する。茂吉でも白秋でも昭和十年前後の歌を読むと、窓の外を兵隊の軍靴の音が過ぎていったとか、街角を一群の兵士が曲っていったとか、そういう歌がいくらも散見される。報道無くとも、町中の庶民の日々には情勢の緊迫はかすかな変化で感じ取られていったのにちがいない。そして、大正三年生まれの方代にも、そういった記憶があったかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、歌は「聞いていた」ではなかった。では、「聞いている」のは歌の制作時である昭和五十六年のことか。一九八一年、一億総中流時代と言われたあの日本経済成熟期にも、戦争体験をもつ方代は「近づいてくる戦争の音を聞いて」未来を思わないではいられなかったのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　近藤芳美という歌人は、そういう未来の到来をつねに警告していたことを思い出す。しかし、この方代の歌は、平和そのものの現在もすでに「戦前」という感慨を述べているとも断言しきれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　いちばん近い解釈は、過去の時間を現在只今のことのように切実に感じているというものか。それにしても「奴豆腐は酒のさかなで」では叙述が類型を出ず、作者の過去のある日の体験をさすとも言い難い。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　つまり、これは、過去とか現在とか、時間軸の上に乗せられない歌の作りようをしているのである。直線的に延長する時間軸の上にこの歌は位置しない。読後、不安定な気分をさそわれるのは、それをむりやりに時間軸の上に乗せて解釈しようとするからだ。現代の読者は、どのような歌も過去から未来へと直線的に流れる時間軸の上に位置づけなければ読みとれなくなってしまった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　奴豆腐をさかなに酒を汲むような、庶民のごく平和な夕べに、かすかな不協和音のように戦争が亀裂を入れ始める――それを感じている庶民の耳。方代は、自分の過去のある時の体験や、自分の現在の考えを述べたいのではなく、そういう庶民の耳というものを取り出したかったのであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　＊&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『迦葉』の歌を仔細に見ていくと、身に刻み込まれた戦争体験を歌の動因とするものがしばしばある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　掲出歌と同年四月号『うた』に発表した「六十になれば」十二首のなかに、こういう歌があった。いつの時代にも通ずる庶民の智恵である。今の大学生もこの歌を読んで「わかる」と共感する。「二日一夜」を泣いて三日目には「ほがらかに・・・忘れてしまう」ことにし、立ち上がるところに励まされるのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　だが、一定以上の年齢のものは「二日一夜」という語句で、この歌がまぎれもなく戦争体験から発していることを読み取る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そう、あの「どこまでつづくぬかるみぞ／三日二夜を食もなく／雨ふりしぶく鉄兜」という軍歌。昭和七年、関東軍参謀部八木沼丈夫が作詞した軍歌「討匪行」は、帝国陸軍関東軍参謀部が選定・発表した純軍歌というが、どこまでも続くぬかるみのなかを飢えながら行軍するこのありさまは、のちの昭和十二年支那事変勃発後、数知れない多くの召集兵士が骨身にこたえて味わうことになる。広くうたわれた軍歌で、戦後生まれのわたしでさえ語句の片々を記憶する。日本の軍歌の特徴は、厭戦歌反戦歌とまがうほど沈痛・悲哀の情に満ちているとは、よく指摘されるところでもある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここで方代が「三日二夜」より一日少ない「二日一夜」を選ぶのは、そのような悲哀と堪忍の情から陶酔的な一体感をかもし出す（それを愛国の情へと転化していく）軍歌への抗いと反発からである。「ほがらかに・・・忘れてしまう」という、ケロッとした突き放すような明るさもまた、その反発から生まれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　柏槇の雫に濡れてうたいます滅ぼされたるああポロネーズ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同じ一連中には、このような歌もあった。「ポロネーズ」とは、ポーランド風の宮廷円舞曲のリズムをいうらしいが、「滅ぼされたるああポロネーズ」から連想されるのはショパンの「軍隊ポロネーズ」や「英雄ポロネーズ」である。雨滴する柏槇の木下で、兵隊帽をかぶった兵士が、オペラ歌手ふうに胸のまえで手を組みながらうたっている「絵」が、目に浮かんでくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同時に、わたしは「柏槇」で、鎌倉建長寺の寺庭で見た樹齢七百三十年と言われる柏槇の木を連想してしまうのだ。幹周り六．五メートル、樹高十三メートルといわれるが、その曲がりくねった襞なす幹が印象的だった。樹齢七百三十年の柏槇の木下でうたっているのは、方代に似た、かつて兵士であった男だろうか――。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子どものころ『ビルマの竪琴』を何度も読んだものだが、あの兵士たちのつかのまの憩いの風景が想像される。方代の兵隊時代にも、雨の日には大木のしたでこんな光景があったかもしれない。丸山真男は、「軍隊の内部でよかったことは（略）休暇の時に一緒に戦友とどうこうしたとか、演習の休憩の時に歌をうたったとか、実に小さな些細なことがあの砂漠のような生活の中で、オアシスのようによいものに感じるんです」（吉本隆明「丸山真男論」より）と述懐して言う。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この歌には、いっしんに歌いあげているときの無心がひとすじに流れていて、惹きつけられる。方代のいう「どうにも我慢のできなかった」軍隊生活のなかにも、そういうオアシスのような無心のひとときの記憶はあっただろう。「それが堆積して大きな力になって独自に印象づけられて」（丸山真男）いるところから、「滅ぼされたるああ・・」という嘆声は発する。ここに俗っぽい懐旧の情はみじんもない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　＊&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「奴豆腐は酒のさかなで」の掲出歌には、いくつものヴァリエーションが生まれている。昭和五十六年『短歌新聞』十月号掲出歌発表の翌月、「かまくら春秋」には上句五七を「手作りの豆腐を前に」とし、さらに翌年『うた』一月号、同『かまくら春秋』一月号、順に並べるとつぎのようになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　手作りの豆腐を前に近づいて来る戦争の音をきいている&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　手作りの豆腐を前にもやもやと日がな一日を消してゐにけり&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　手作りの豆腐を前に何にもかもみんな忘れてかしこまりおる&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『うた』一月号の一連十二首の題も「手作りの豆腐」だった。「手作り」であるところに方代のこころが留まったと見える。豆腐と戦争から、「手作りの」を得て主題が移っていっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それにしても、戦争――もっと言うなら戦争と庶民――は、方代の歌の底深く厚くながれている大きな主題であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（　『牙』2010.7）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>方代散策――『迦葉』を読む（２）</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/05/29/5124671</link>
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      <pubDate>Sat, 29 May 2010 20:31:54 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-05-29T20:44:46+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-05-29T20:44:46+09:00</dcterms:created>
      <description>　&#13;&lt;br&gt;
（石の笑い補記1&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「石の笑い」という語の初めて現れた、昭和三十四年作&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
        　沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のほか、〈坂越えて急ぐひとりの方代の涙を月は見たであろうか〉〈誤って生まれ来にけりからす猫の見る夢はみな黒かりにけり〉のような、いわば涙のなかに嵌め込まれた「石の笑い」であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　交友のふかかった岡部桂一郎氏はこの時期の方代を、「生きるための暮しにふかい行き詰まりと絶望を感じていた。一日も早く（この世を）終りたいというのは方代のカッコよさをねらったものではなく、実は彼の本音だったのだ」（『山崎方代追悼・研究』不識書院）と書く。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
 この時期の「石の笑い」という語がいくばくこわばってこなれないのに比べて、〈しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ〉とうたう『迦葉』の時代、こんなにも屈託無いたのしい「石の笑い」を成就できたのは、晩年の生活がそれなりに功成り名を遂げ、心に余裕のできた反映だろうと、わたしたちは納得しがちである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
 そうではない。そう解釈してしまっては、すべては生活の如意不如意が歌を決めていくという論法に陥り、どうにもならない。不如意な生活が意を得るやたちまち精神がぶよぶよになって堕し、増長し、歌を駄目にしてしまうのが、通常人だ。方代の足元にも罠は口をひらいていただろう。そこを賢明にも避け得て、『迦葉』の「石の笑い」の屈託ない世界が成就した。創作者としての厳しい闘いがそこにはあった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
   　   しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
は、『迦葉』のなかでも指折りのすばらしい歌だが、この透明な笑いを、晩年生活のそれなりの如意の結果と解することは、この歌をどぶ泥につっこむことである。以上、あえて補注しておく。）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
（石の笑い補記2&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
 　大下一真著『山崎方代のうた』によれば、没後、故郷中道町に中道町民芸館が建てられ、その玄関脇に〈桑の実が熟れてゐる／石が笑ってゐる／七覚川がつぶやいてゐる〉という方代の碑があるという。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉の類型。故郷の景にかかわる「石の笑い」という発想を方代は気に入っていた。右歌は、全歌集には収録がない。）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　三.キリスト様&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　初出は、『うた』昭和五十六年一月。その直前、『短歌現代』昭和五十五年十一月号にはつぎのような歌がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　断然「キリスト様だ」のほうが優れている。歌そのものの次元が異なっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「顔いっぱいがキリスト様だ」とうたいきってわたしの目に浮かぶのは、かつて学生時代に映画『デカメロン』で見た中世農民の日に焼けた皺だらけの顔である。乱杭の歯っ欠けの口をにっと開いて笑う大写しの顔は、無類の無邪気さを現していた。「キリスト様」というのに、どうしてあの西欧中世農民の顔が思い浮かぶのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この歌は、自分〈われ〉が無花果を食べているとも、誰かが食べているとも受け取れる。自分〈われ〉の「顔いっぱいがキリスト様」のようだと受け取っていいが、それでも読み終わって見えてくるのは、ひとりの日に焼けた皺だらけの無邪気な農夫の顔いっぱいの笑いなのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一方、『短歌現代』に発表した〈はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ〉では「食べおると」だから、自分〈われ〉が食べていると、という意味でしかない。掲出歌は二句切れにして、歌が説明をまぬがれ、飛躍した。自分のことであり、他の誰彼のことでもあるという、普遍性を獲得できた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「鼻のようだよ」が、無花果と関連深い「キリスト様だ」となったことによる飛躍は、これまた言うまでもない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　無花果は小アジア原産、パレスチナには早くから移植された重要な果樹であり、旧約聖書新約聖書ともにしばしば現れること、方代はかすかにでも知っていたということになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　イエスが空腹を覚えとき遠くから無花果の繁った葉を見て近づいたが、実りの季節ではなく、実がついてなかった。それでこの木に向かって「今から後いつまでもおまえの実を食べる者がないように」と言ったと、マルコ伝には記す。方代は、こんな寓話も知っていたのだろうか。方代の歌は、そのとき空腹を覚えた者と、はじけるまでに実りの季節を迎えた無花果と、出会いの時の合致した幸福を思うぞんぶんに讃えている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　四、末成り南瓜&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような老人である&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　初出は『うた』昭和五十六年四月号だが、これも二カ月前の『かまくら春秋』に次のような似た歌がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　どっしりと胡座の上に身をのせて六十五才の春を迎えり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この改作の方向も、さきの「キリスト様」の歌と似ている。どっしりと胡座の脚のうえに身をのせているわたしは六十五才の春を迎えたよ――こちらは、そう、〈われ〉が叙べている歌だ。ところが、先の掲出歌では、文人画とも挿絵とも漫画ともつかないような老人の姿がはっきりと見えてくる。その姿は、〈われ〉でもあり、他でもある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような」、すこしひねた末成り南瓜のようなものが、胡座の膝のうえに乗っている。「乗っておるのは」という言い方は、外側から見るかたちをしめす。胡座の膝のうえに乗っているのは末成り南瓜のような・・・さて、ここで普通に語を続けるなら、末成りの南瓜のような顔、末成りの南瓜のような頭、こうなるところ。「老人である」とは、けっして続かない。「胡座の上に乗っているのは」－「老人である」と繋がることになって、おかしいからだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、「老人である」と繋げて、じっさいにこの歌から思い浮かぶのは、老い屈まった老人の、ひねた末成り南瓜のような大きな顔が、胡座のうえにのっかっている姿である。「胡座の上に乗っているのは」－「末成りの南瓜のような」－「老人である」という、この語順に若干のひずみがある。それがこの歌にどこか舌足らずな面白みをかもし出してもいる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　おそらく、作歌時におけるこの歌の呼吸は、「末成りの南瓜のような」で切れている。四句で一呼吸おき、飛躍して、結句「老人である」と一首を大きく包含した。結句で大きくくるみとってこそ、水墨画のような稚純な老人の姿をそこに現出させ得たのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こうして、〈われ〉の歌としての「六十五才の春を迎えり」の自画像の域を脱する、歌の普遍性が生まれ出た。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　山崎方代という、特殊なうえにも特殊な生き方をしてきた歌人のの歌が、特殊な人生をたどった者の一独白、一物語に終らず、大きな普遍性を獲得しているのは、このような創作者としての苦闘があったからだと、いまさらながら思い知る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　五、一粒の卵&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　一粒の卵のような一日をわがふところに温めている&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、「一粒の卵のような一日」とここから始まると、「卵」から鳥の抱卵を連想して「わがふところに温めている」となる。「温めている」で、にっこりほっこりしている歌の姿が現れ出る。こんな一日だったよと叙べる歌が、抱卵の鳥なのか〈われ〉なのかといった歌に変ずる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こうして並べると、いかにもやすやすとこの改作が現れ出たかのように見えるけれど、くるっと扉をひらくような一飛躍が必要だったのではあるまいかと、同じ作者としては思わずにはいられない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　六、石から石へ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　両の手を空へかかげて川べりの石から石へはばたいていた&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この歌は、先に掲げた「石の笑い」の歌群をただちに連想させる。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉ような、石ころだらけの川べりでここはあるに違いない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　頭のでっかちな老人が両手をぱたぱたさせながら、石から石へかろやかに、笑いながら、足を掲げて飛んでいる姿が目に見えるようだ。クレパス画のような描線で、絵本の絵のようでも、漫画のようでもある。こっけいみがある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「両の手」とはすなわち鳥の翼の比喩にもなる。一首はここを翼と言わなかっただけのこと、翼をかかげて川べりの石から石へはばたいていたという、鳥の歌とも言える。ところが、歌に見えてくる姿は、どうしても鳥ではない。頭がちな老人が両手をぱたぱたさせて飛んでいる姿しか、見えてこない。それを不思議に思うのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「はばたいていた」――物語るかたちである。わたしは昔そうしていたよ、というのか、そういう場面を見たよ、というのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これも、鳥とも人とも定まらない歌であった。「キリスト様」の歌と同じ連作中にある一首。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子どもの頃、柿の木や枇杷の木、ぐみの木などにのぼって、熟れた実を取って食べては、樹上から種を吐き捨てたものだ。そういう記憶が蘇って、樹上にいるのは人だとまず思う。ところが、ここでは「梢」である。「梢に止」ることのできるのは鳥だろう。さて、鳥かと思えば、嘴ではなく「口から種を吹き出」す。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「石から石へ」の歌も同様だが、鳥を擬人化したのでもなく、人を鳥に喩えたのでもない。比喩の技法におさまりきらないところが、じつにおもしろい。鳥でもあり、人でもある。どちらでもあるような姿が、「石から石へ」の歌でははっきりとまなうらに描ける。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　　　柿の木の梢(うれ)から落ちてたっぷりと浮世の夢を味わいにけり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こんな歌も、「石から石へ」の直前にはあった。「石の笑い」の初案〈しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ〉と類想だろう。翼を持つ者、飛ぶことのできる者が、誤ってどじを踏んで地上におっこちる。石はそれを見てくすくす笑うのだし、柿の木から落ちたものは、罰として浮世の辛酸もふくんだ夢をたっぷりと味わうことになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　　七、天秤棒&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　食いこめる天秤棒を右肩へぐるりとうつす力がほしい&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子どもの頃、行商のおじさんは天秤棒を担いで家々を巡っていた。前と後ろに振り分けた荷物の重みで天秤棒がしなうのを、ぐあいよく拍子をとって歩く。ニコヨンで土を運ぶもっこ担ぎもそんなふうだったし、汲み取り式便所の肥をはこぶのも天秤棒だった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「ぐるりとうつす力がほしい」――ぐるりとうつすときに「力」がいるものかどうか知らない。しかし、外から見ていても、ゆさゆさと揺れる荷物としなう天秤棒と、腰からリズムをとってひょいひょいと歩きながら、ときにぐるりと肩を移すあの姿は、かろやかなものである。労働のリズムというものがそこにはある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　肩に食い込む重荷も、労働のリズムにかろやかに乗るとき何の苦も感じないでいられるのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「牙」2010.6）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>方代散策・・・『迦葉』を読む第一回</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/05/05/5064459</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2010/05/05/5064459</guid>
      <pubDate>Wed, 05 May 2010 18:55:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2010-05-05T19:10:47+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2010-05-05T19:10:47+09:00</dcterms:created>
      <description>&#13;&lt;br&gt;
　　　序――民衆&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　山崎方代は、一九八五（昭和六〇）年八月十九日、肺癌による心不全のため、国立横浜病院の一室で没した。肺癌の判明したのは前年十二月のこと。三月には摘出手術をしているが、おそらく病状は進行していたのだろう。&#13;&lt;br&gt;
　最後の歌集『迦葉』のあとがき草稿は八月十三日に口述したが、完成せず、遺詠「蝉」五首が『うた』十月号に掲載された。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　病院の窓の内より民衆に笑みを送りて祝福申す&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　遺詠五首の五首目、十一月末に刊行された『迦葉』にも入っていない、最後の歌。この世を去るにあたっての挨拶の歌である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　初めて読んだとき、なかばあきれながら笑った。高い窓のしたには「民衆」があふれんばかりに埋めつくし歓呼の声をあげながら手をふっている――そんな光景がたちまち見えてきたからである。&#13;&lt;br&gt;
このとき方代は、満面に笑みを湛えながら窓から大きく身を乗り出すようにして別れの手を振る「英雄」である。&#13;&lt;br&gt;
病院の窓はいつのまにか列車の窓のようなものに変じ、「英雄」方代を乗せて空高くへと出発する。つねに「民衆」とともにあって、「民衆」のために粉骨砕身した革命家。&#13;&lt;br&gt;
彼をたたえる「民衆」の歓呼の声にも、応えて大きく手を振る革命家の祝福の笑みにも、互いのあいだには限りない善意が満ちあふれている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような光景が浮かぶのは、「民衆」というマッスをあらわす語があるからだ。方代が民衆をマッスとしてとらえるまなざしをもっていたことを意外にも思い、その無邪気さに笑いもしたが、しかし、ひるがえって思えば、方代は「民衆」というロマンチシズムを終生信じた歌びとだったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　人々へ向かうあふれるような無邪気な善意と祝福こそは、方代の歌のこころのもっとも根底にあるものであった。これあるがゆえに、方代の歌は、いかにも親しみやすく気楽で庶民的であるのにも関わらず、けっして格が低くならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　つぎに引用するのは、大下一真著『山崎方代のうた』（短歌新聞社）からの孫引きで、ボーリング大会の「開会の挨拶」。方代は、一九七二年五十八歳の年、鎌倉飯店店主根岸侊雄が自宅の敷地内に建ててくれた四畳半のプレハブの家に移る。その鎌倉飯店常連連中で作ったボーリングクラブの大会であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こがね色に空がきはだつて&#13;&lt;br&gt;
　鎌倉山の嶺みねを&#13;&lt;br&gt;
　幾重にもわかてば&#13;&lt;br&gt;
　もうゆく秋の風が&#13;&lt;br&gt;
　うおう　うおうと&#13;&lt;br&gt;
　心の底深く&#13;&lt;br&gt;
　そこはかとなく&#13;&lt;br&gt;
　しのびよって来るこの頃&#13;&lt;br&gt;
　今日今宵&#13;&lt;br&gt;
　やはらかき灯のもとで&#13;&lt;br&gt;
　日ごろのうでと心をきそひ合うことの&#13;&lt;br&gt;
　この楽しさは&#13;&lt;br&gt;
　いづこより来る&#13;&lt;br&gt;
　さはさりながら&#13;&lt;br&gt;
　この国の私達の日常は&#13;&lt;br&gt;
　実にめくるめくして&#13;&lt;br&gt;
　さびしく　けはしく&#13;&lt;br&gt;
　ともすれば人間よしみの&#13;&lt;br&gt;
　愛憎の世界も忘れかけようとしている時に&#13;&lt;br&gt;
　おのずからここに&#13;&lt;br&gt;
　したしい若い仲間が集いより&#13;&lt;br&gt;
　るり色の&#13;&lt;br&gt;
　ボーリングの名のもとで&#13;&lt;br&gt;
　あたたかい　そして&#13;&lt;br&gt;
　まことこまやかに&#13;&lt;br&gt;
　いと高い愛情をそそぎあい&#13;&lt;br&gt;
　青春の光の野辺に立ちはだかり&#13;&lt;br&gt;
　人間万歳をくり広げることは&#13;&lt;br&gt;
　かならずあしたの生活に&#13;&lt;br&gt;
　明るい灯がともることを&#13;&lt;br&gt;
　はばかりません&#13;&lt;br&gt;
　これをもって&#13;&lt;br&gt;
　開会の言葉とします&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　今宵十月二十五日　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　　　一ちまたの名もな(ママ)無き詩人　　　山崎方代&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「開会の挨拶」替わりの詩だが、方代の歌の秘密をうかがわせるおもしろみがある。&#13;&lt;br&gt;
方代語法とでも名づけたくなるような「私達の日常は実にめくるめくして」「光の野辺に立ちはだかり」「灯がともることをはばかりません」といった語の連なりはほとんど気分まかせだが、しかし、決して放縦には流れない。&#13;&lt;br&gt;
語はよくコントロールされて、一見舌足らずな語法はかならず詩的なおもしろみへと転じている。&#13;&lt;br&gt;
また、季節から入り、「今日今宵」の楽しさを言い、その意義と、「あしたの生活」への希望を唱えて終って、「開会挨拶」としての結構はきちんと整っている。一見型破りに見えるが、型は踏んでいるのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　口から出まかせの破格のように見えて、じつはきちんと型を踏み、語の扱いの上にもコントロールの効いているところ、方代の歌の第一の秘密であろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに、この詩、じつに品の良いことにも気づく。格が高い。子どもの詩もしばしばブロークンな語法を使うが、そこに格というようなものはない。しかし、方代のこの詩にはまぎれもなく格がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「この楽しさはいづこより来る」という遊びの無邪気さ。「人間よしみの愛憎の世界」（憎の入っていることにも注意）のうすれつつある「この国の日常」のなかでの、「若い仲間」たちの親しい睦み合いの善意、愛情のそそぎあい。ボーリングという無邪気な遊びにわれを忘れる若い仲間たちへの、あふれるような善意と祝福――。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「名も無き詩人」が、むつび合う若い仲間たちに祝福を贈るという空想。詩の格は、ここに生まれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代の生涯の歌を流れるこの通奏低音――人々へ向かう無邪気な善意と祝福――が、はっきりと自覚をともなっておもてに現われるようになったのは、最後の歌集『迦葉』においてであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　一、	ぜんまい&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「廻って」は、「まわって」と読もうか。ぜんまい摘みの経験はないが、図鑑を見ると、胞子葉と栄養葉の二種類が春に芽を出すという。&#13;&lt;br&gt;
俗に胞子葉をオス、栄養葉をメスと言って、オスの方は食べないそうである。やわらかい赤褐色の綿毛をあたまに被り、それを突き破って胞子葉はくるくる巻きの突起のような緑を、栄養葉は双葉をのばす。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「五月の空をおし上げている」のは、オスの胞子葉だろうか。&#13;&lt;br&gt;
山菜摘みが好きだった方代は、ぜんまいも摘んだにちがいないが、固くて食べられない胞子葉の方は摘み残しただろう。&#13;&lt;br&gt;
朝毎に山歩きをしながら見ていると、ある日、綿毛をやぶって真新しいさみどりの色が突き出た。五月の明るい空のひかりのもとに。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「あさなあさな廻って行くと」は、どこかねじれた語法だ。&#13;&lt;br&gt;
「朝ごとに同じルートを廻っているが、今日行くと」を圧縮したような語の繋げかたである。だが、ここは「いると」ではなく「行くと」でなければならない。&#13;&lt;br&gt;
「行くと」だからこそ「ぜんまいが五月の空を」以下が眼前に見えてくる。ぜんまいに出遭った、行きあった、という感じが生まれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「どこを」を省略したこと、これがすごい。この省略によって、「あさなあさな廻っ」てゆくというわれの行動の軌跡がぜんまいのくるくる巻きと響き合い、おかしみをともなった様式性が歌に感じられるのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「あさなあさな廻って行くとぜんまいは」、ここで一気に「五月の空」へと大飛躍。小さなぜんまいのくるくる巻きのさみどりの、ぴちぴちとした生命力。それを頌えるこころが、さわやかな五月の全天をおし上げているかのようにうたわせる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　二、	石の笑い&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「かりそめにこの世を渡る」十二首中の最後の歌。一連中には次のような石の笑う歌もある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「しののめの下界」も、不二の山が遠くに見える笛吹川の川原であると、わたしの目には見える。いや、笛吹川など見たこともないが、山がすぐに迫ったものさびた石ころだらけの川原があり、遠くの空にはうっすらと不二の嶺が見えているような、そんな場所がおのずと眼前に浮かんでくる。それは、方代のつくり出してくれる風景である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代に「石」の歌は多いが、石が笑う歌も早くからあらわれていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　泥二号　昭和三十四年四月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　寒暑創刊号　昭和四十六年九月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和三十四年、方代四十五歳の「石の笑い」は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のような歌とともに現われた。〈塩からき世〉を生きる歌のなかでたった一つ嵌めこまれたような「石の笑い」である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それから十二年後、掲出歌の原型が生まれる。「しののめ」は、東雲とも書き、暁・明け方。枕言葉でもあるが、ここでは「明け方の」という意。方代の好む音韻の語であろう。ほかにも用例がある。愛着のまつわりを語に感じる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「下界」は、仏教語で人間界・欲界をさすという。&#13;&lt;br&gt;
単純に高いところから見下ろしたあたりをいうこともあるが、ここではやはり天上界から人間界に落ちて立ったときという空想があるのだろう。笛吹川の石ころだらけの川原のようなところに、気がついたら立っていて、ふと耳に石の笑いが聞こえた。&#13;&lt;br&gt;
そんなお話を作っているのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和五十五年前後は『右左口』時代だが、歌集には採られていない。納得のできないところがあったのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　しののめの下界に降りて来たる時石の笑いを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　東山梨郡牧丘町加田幸治邸の歌碑　昭和五十五年三月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　しののめの下界に降りて来たる時・石の笑いを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　かまくら春秋　昭和五十五年八月号&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　うた　昭和五十五年十月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらに九年を経て、この歌が再びあらわれた。「突然の」を消し、「立ちて」を「降りて」に換えた。これで「立ちて」にあった物体の重さが無くなり、歌が「石の笑い」に似つかわしい軽やかさを帯びてきた。&#13;&lt;br&gt;
「突然の」はもちろん、言うまでもなく不自然であり、無雑作すぎたのである。歌碑の歌としたのは、これで出来たと思ったからであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　かまくら春秋三首の題は「石が笑っている」。「石の笑い」がようやく歌にこなれて、方代のこころをとらえている。&#13;&lt;br&gt;
ところが、歌碑の歌から二、三カ月経て見ると、「降りて来たる時」の「時」の切れが決まらないことに気づいた。不安定なのだ。&#13;&lt;br&gt;
ここが細くなっている。それで「・」を入れて補強し、しっかりと切れるようにしなければならなかった。これで説明的な調子をやや免れ、「石の笑い」がいくらか前面に出てきたようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そうしてまたさらに二ヶ月後、「来たる時」の間延びが「ゆくりなく」に置き換えられた。&#13;&lt;br&gt;
しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ――ついに歌は軽やかに飛翔する。&#13;&lt;br&gt;
これはすばらしい歌の飛躍である。次元を異にする歌となった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「ゆくりなく」は、「ゆくりなし」の連用形で、不意に・思いがけなくという意味の古語。現代人が使うと気取りが鼻につくことの多い語だが、この歌ではぴたりと決まった。「しののめの」とよく調和する。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　まるで風のたましいが空を滑って降りてきたようだ。&#13;&lt;br&gt;
天界のものとも下界のものともつかず、どちらをも自由に行き来できるようなそんなものが、軽やかに透明にすうっと降(くだ)ったとき、くすくす、くすくすと石が笑うのを小耳にはさんだ。&#13;&lt;br&gt;
石はうれしいのである。&#13;&lt;br&gt;
しののめの下界に滑り降りてきたものを知って。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『牙』2010.3初出&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>続『方代』論</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/11/14/4694037</link>
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      <pubDate>Sat, 14 Nov 2009 13:55:11 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-11-14T14:08:55+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-11-14T14:08:55+09:00</dcterms:created>
      <description>　山崎方代没後、一周忌の夏、『山崎方代追悼・研究』（不識書院）が刊行された。一九八六年のことである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わたしもこれに、「鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩抄』から引き出されたもの」という、主として第一歌集『方代』を対象とした作家論を寄せたが、その末尾はこの種の文章としては破格の、終わったような終わらないような、フェイドアウトになっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代が方代となっていく過程はどのようなものであったのか、という課題を自らに課して書いたが、あれではまだ半分で、『方代』後半に色濃い高橋新吉や尾形亀之助との響き合いを書かなければならない、そのうち書こう、と思ったからであった。思い続けて、すでに十六年。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この間に種々の方代論も現われた。この後にも現われるだろう。もう必要ないかもしれない。それでも、何か自分の始末がついてないようで、心が残る。そこで、このたびは、高橋新吉の言葉との響き合いを中心に少し考えて見ようと思う。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　全歌集年譜では、一九四八年の項に「この頃、詩人近藤東から尾形亀之助の詩集『障子のある家』を譲り受け、読む」「『新吉詩集』を耽読」とある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高橋新吉が、『高橋新吉の詩集』を出すのは、一九五〇年。『高橋新吉詩集』を創元選書から出すのは、一九五二年。この年、「工人」が終刊。方代の歌は、前年八月号を最後に、一九五四年六月まで全歌集「　資料」篇には見えない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　歌の無い時期、方代は、この二冊の新吉の詩を読みこんでいたのだろうか。『方代』二百首中後半百首は、一九五四年から五五年夏にかけて作ったもののようだが、ここには高橋新吉の痕跡を随所に見ることができる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　高橋新吉先生の御説によれば神様も法則にして木の葉のごとし&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『迦葉』に収められた、死の数カ月前の作品である。尾形亀之助とともに、高橋新吉が現れている。方代のような歌人は、たんなる気まぐれや思いつきや偶然で、他の影響を受けるなどということはあり得ない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　鈴木信太郎訳ヴィヨンと尾形亀之助と高橋新吉、そして甲陽軍艦は、方代の歌を形成していくための、ぜひとも必要な栄養素だった。その痕跡は、生涯にわたって見られる。方代は、それらを徹底的に吸わぶった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そこで、問うのである。『方代』刊行直前の方代は、とりわけ高橋新吉の詩が、なぜ必要だったのか。ばくぜんと疑問を心に置いて、全歌集資料篇をはじめから読んでいった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わたしは、この資料篇を読むのがじつに好きである。二十歳そこそこの短歌にのぼせた貧しい青年が、畑仕事もろくにしないで日がな歌会に出て行ったっきり、親の目を盗んでは金をくすねて会費に使い、昼も夜ものどが灼きつくように短歌のことを思っている。その希求の激しさに、おのずから新しい出会いの扉がひらき、青年はむさぼるようにそれを飲みほす。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そこには、ほとばしるように歌うこころが、時に語のつながりの変な、時に文法まちがいの、歌の上に流れ出ている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　父と母しかといだきて永久に土をたがやす吾が運命なり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　草ぶきの家屋の破れに露おりてたまたま燦めく星の明かりに&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　十三人生まれしはらから十二人死してのこるは吾一人なり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それぞれ、昭和十年九月、昭和十一年一月、同十一月の、山崎一輪時代の歌。すでに、父も母も目が不自由になっていた。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　歌は、父も母も盲いの貧しい家の一人子であることに、美しい昔話のような、自らをその主人公のようにも思いなし、そこに切実なる興趣を覚えて、うたいあげている。その叙事的な仕立てが、わざとらしさや自己陶酔の嫌みを伴わないのは、歌うこころにひたすらに言葉を乗せているからである。&#13;&lt;br&gt;
　兄弟が十三人生まれて十二人死んだなんて、思わずわたしは年譜をめくり返してしまった。&#13;&lt;br&gt;
　この嘘っぱちも、歌うこころが、その勢いに乗って、ちょうど筆が紙をはみ出してしまうように、はみ出したのである。&#13;&lt;br&gt;
　有名な、ほんとの嘘、の機微は、ここにある。この歌うこころこそは、終生、方代の根っこだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　あれは地球の壊れる音ではないか。　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　茶碗の中に梅干の種が二つある。　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　ほしいままに地上に充ちているものもすでにおかされていると思う　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　茶碗に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　前者は、高橋新吉詩集『霧島』の「不思議」という詩の「一」である。二行の間は、一行分あけてある。&#13;&lt;br&gt;
　後者は、歌集『方代』から。隣同士に並んだ歌である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　わが父は　　　　　　　　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　　日まはりのかげに&#13;&lt;br&gt;
　　たたずみて&#13;&lt;br&gt;
　　猫とたはむれゐたまひしに、&#13;&lt;br&gt;
　　秋風の吹き初めしころ&#13;&lt;br&gt;
　　冷きむくろになりたまひて&#13;&lt;br&gt;
　　手には乾きたる一握りの土を持ちて&#13;&lt;br&gt;
　　ゐたまひたり。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
前者は、詩集『新吉詩抄』の「わが父」。後者は、『方代』。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　父上よ　わたしが生きて居りますことはあなたのおかげで&#13;&lt;br&gt;
　　あります。何うか此のやうな見苦しい朽葉のやうな言葉を書きつらね　　て　多くの人の目に触れるやうな事をするのをとがめないで下さい。　　冷えた茶を啜り終るやうに私もやがて残生を急ぎ足で終ろうと思つ　　て居ります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　がぶがぶと冷えたるお茶を呑み終る如くせわしく終らんとする&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
前者は、詩集『雨雲』の「残生」。後者は、『方代』。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高橋新吉の詩といえば、一九五〇年刊『高橋新吉の詩集』に収められた「日が照つてゐた／／今から五億年前に」（「日」）、「留守と言へ／ここには誰れも居らぬと言へ／五億年経つたら帰つて来る」（「るす」）というような詩が有名だ。のちに飯島耕一が「詩人の笑いとはこのようなものである」といいつつ、発表当時には「ちょっと禅坊主臭」く感じられたという（「形而上的詩人・高橋新吉」）これらの詩を、方代はむさぼるように読んだのであったろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これ以上新吉の詩をいちいち引く事はさし控えるが、「皿の上にトマトが三つ盛られおるその前におれがいる驚きよ」「机の上にひろげられたる五本の指よ瞳に見えるものみな過去である」などなど、『方代』後半の存在・死・時間・空間をうたう歌は、新吉の詩に響き合うようにして生まれている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　五億年も一瞬も同じ、存在の現前も消失も同じ、とするこのような超時間的な思考法は、『方代』前半百首で、ヴィヨンに刺激されつつ「方代」という語を歌に詠みこみ「方代」誕生をさせたのち、そのような歌の叙事化の方向にある種の矯正を加えたといっていいだろう。&#13;&lt;br&gt;
　後半百首では、「方代」という語を歌いこんだ歌は、一首のみ。次のようなものであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「方代」から、方代を完全に引き剥がすために、このような否定の一段階が必要だった。そういえないだろうか。&#13;&lt;br&gt;
　叙事化すると、歌がだめになることは、わたしたちのさんざんな試行錯誤による経験から明らかである。方代は、そこを乗り越えるために、超時間的な思考法、物の見方を必要とした。つまり、歴史ではなく、神話化へと向かうために。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、新吉の、禅語的な短簡な直観的な詩語も、引用に見るように、詩の一部を歌に仕立て直すような形をとりつつ、大胆な口語取り入れの呼吸を作り出していくのに役立っただろう。　&#13;&lt;br&gt;
　しかし、高橋新吉の詩と山崎方代の歌と、遠望するとき、明らかな違いが見える。新吉の詩はあくまでも散文詩、禅などの教養もときに露出し、大上段から切って捨てるようなところがある。&#13;&lt;br&gt;
　じつは、この切って捨てるような、突き放すような否定の調子も、『方代』の時期の方代には必要なこころの調子だった。&#13;&lt;br&gt;
　だが、方代の歌はもともと、歌うこころの所産である。禅臭などはきっちりと避けた。その思い切った口語も、歌うこころによってこそ、すみずみまで血が通うのであった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『方代研究』2002年?）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>方代の修羅・・・第二十回方代忌基調講演 2006.9.2</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/10/25/4653406</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/10/25/4653406</guid>
      <pubDate>Sun, 25 Oct 2009 13:58:22 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-10-25T14:45:38+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-10-25T14:45:38+09:00</dcterms:created>
      <description>　方代さんが亡くなった後に、『山崎方代追悼・研究』（一九八六年刊）が不識書院から出ました。その中でわたしはヴィヨンと方代について書いたんですが、このたび何を話そうかと思ったときに、やはりこのヴィヨンということが頭に残っていまして、方代の「無頼」ということ、あるいは「修羅」ということについて話してみたい、考えてみたいと思いました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代さんは、没後二十年もたつにもかかわらず、たくさんの方がこうやって集まる、そういう右左口村の「民衆」歌人、温かい、ふるさとを思わせるような歌人として知られているんですけれども、それと「無頼」とどこで結びつくのだろうか。確かに、定職にも就かないような暮らしをしてきたということはあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　とくに敗戦後の大変な時代に、「無頼」な日々を過ごしたということはあると思うんですけれども、しかし、ふるさとの歌人、温かい方代さんというのと、「無頼」の歌人というのと、どうもわたしの中でうまく結びつかないんですよね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「無頼」とヴィヨンという組み合わせはとても似つかわしいのですが、「無頼」と方代はちょっと齟齬がある。よくわからないという思いが残っていました。&#13;&lt;br&gt;
　レジュメに、「方代の歌におけるヴィヨンの意味」と書きましたけれども、わたしが追悼集の評論で指摘したのは、次の三つです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一つは、ヴィヨンの「『追放流竄』の運命という悲しみ」における共感。これは玉城さんがあるところで、「戦争を山津波と同じ『自然』として受容するのであれば方代の嘆きはないのである」「戦争は『二つの星』とひきかえに、方代に永遠の『流竄』を宣告した」、そうお書きになっていらっしゃいます。&#13;&lt;br&gt;
　戦傷者にされ、まともな人生を歩めなくなった方代、戦争によって人生を追放流竄された方代。そういう方代が、ヴィヨンの追放流竄に共鳴したのだろう、ということは考えられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もう一つは、ヴィヨンの詩を読むことで、方代は、歌の中に〈方代さん〉という人物を演出登場させるようになった、そのヒントになった。たんに名前が気に入っていたことによる自然発生的なものではないということ。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　それからまた、方代の読んだヴィヨンは、文語に口語の入り混じった五七調の鈴木信太郎訳であったということ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こう整理をしてみたのですが、それにしてもやはり、わたしの頭の中にはどうしても納得できないものがずっと残っていたみたいなんです。それで、今日はその「無頼」ということをもう一度考えてみたいと。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　レジュメのⅡのところに書きましたけれども、右左口村方代おぼえがきという自筆のものがありますが、それにもヴィヨンの詩、ことに形見分けの詩が、歌の出会いになったと書いてあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そらでいえるくらいになったというんですが、なぜあれほど吸わぶりつくすと言うくらいにヴィヨンの歌を読んだのか。読めたのか。&#13;&lt;br&gt;
　フランスの、中世の、ずいぶん長い詩でしょう。暗記したくなるほど面白いとは、すくなくともわたしには思えません。そこまで読みこなせない。方代にはなぜそれができたのか。&#13;&lt;br&gt;
　戦後の方代には、なぜそれほどヴィヨンの形見分けの詩が胸に響いたのか。今回、三つほど理由を考えてみました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一つは、方代の身体ということですね。方代が生まれたときに、方代の親父さんは六十五歳、逆算すると一八四九年か一八五〇年くらいになります。&#13;&lt;br&gt;
　一八五〇年と言いますと、ペリーが来航したのが一八五三年なんですね。まだ江戸の時代。そこに書いていますように、フランスやドイツは二月革命があったり共産党宣言の出た年なんですけれども、明治になるのはそれからおよそ二十年もたってからなんです。ですから、父親の龍吉はほとんど江戸時代の人。江戸幕末期の山梨の寒村の農民であったということなんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　お母さんは二十くらい年が違っていて、それでも、一八七〇（明治三）年。お父さんの一八五〇年生まれというのは、正岡子規なんかよりもうんと年上なんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子規は、明治元年の前の年、慶応三年生まれです。伊藤左千夫がそれより何歳か年上。斎藤茂吉とか、そのほか近代の有名歌人、みんなあれは明治の十年から二十年ぐらいまでの生まれであって、この親父さんのほうがうんと年上なんです。&#13;&lt;br&gt;
　明治国家形成後の新体制下、新しい環境に生まれて物心がついた人と、この親父さんのように二十歳ぐらいまでを江戸時代で過ごしたというのでは、相当に大きな違いがあるはずです。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　レジュメには、「明治近代国家による、身体の国民化近代化」と書きましたけれども、明治になってから軍隊と学校、それから工場というものができました。&#13;&lt;br&gt;
　明治に徴兵制が始まりますけれども、明治五年でしたか、その徴兵制度で国民皆兵になるわけなんです。最初のころは、長男は免除されるということもあったようですが、原則として国民皆兵。そこで徴兵して訓練するときに、武士と農民とでは身体の使い方が全然違っていたらしい。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　江戸時代の庶民、ことに農民は走れなかったそうですね。普通の人は走らなかった。走る武士や飛脚というのは、子供のころから練習していて、特殊技能らしいんです。&#13;&lt;br&gt;
　手と足をこう、わたしたちは左足を出すときには右手を前に振ります。そのような歩き方ができなかった。右足を出すときには右手、左足を出すときには左足を出して、ナンバ歩きというそうですが、だいたいそういうふうにして歩いた。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　つまり、軍隊の行進ができなかった。いくら訓練しても、行進ができない。回れ右もできなければ匍匐前進もできない。とにかくあらゆる兵隊らしい動きができなかったらしいです。それで、フランスかどこかから先生を雇って教え込んだらしいんですけれども、どうしても駄目だったと。それで、これは子供のときから教えなければいけないというので、小学校で体育の時間ができたらしいですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　小学校で、行進とか回れ右とか、そういう西洋式の身体の使い方を教えこんだ。西洋式の身体の使い方というのは、中心点があって支点があって、そして身体を捻って使うらしいです。日本式の身体の使い方には、そういう支点というようなものがない。これは武術家がそんなふうに言っていますね。全く身体の使い方が違っていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ですから、二十歳まで江戸時代で過ごした方代の親父さんは走れなかったのではないかと思うんです。走れない親父さんに、子供の方代が、毎日の生活のなかでいろいろなことを教えてもらう。&#13;&lt;br&gt;
　うさぎの糞が何かの薬になるとか、さまざまな生活の知恵を教えてもらうわけなんですけれども、そのなかで無意識のうちに親父さんの江戸時代の身体作法といったようなものも身にしみ込んでいったはずです。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　もちろん小学校に行っていますし、体育の時間もあるわけですから、方代が走れなかったとはまさか思いませんけれども、家庭で身につけた身体作法と学校の体育で教えてもらうことには若干のギャップがあっただろう。&#13;&lt;br&gt;
　寒村の小学校だから、そんなにやかましいことはなかったかも知れませんが、軍隊式の身体の使い方には必ずしも器用ではなかったのではないか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それともう一つ、学校、軍隊、工場は、抽象的な時間による身体の管理がなされる場所です。&#13;&lt;br&gt;
　工場労働者は、毎日、朝九時に仕事が始まって、昼になったら鐘が鳴って、一時間休んでというぐあいに、抽象的な時計の時間で、分秒単位で管理されます。ところが、農民というのは、いつ種を植えるか、いつ肥料をやるか、いつ稲を刈るか、決めるのに、具体的にその年の稲の育ちぐあいとか、その年の天候とか、総合的に見ながら決めていくわけですね。抽象的な時計の時間で決めるわけにはいきません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　農民の身体に入っている時間感覚と、工場労働者のそれとはまったく違います。だから、産業革命後の資本主義社会では、抽象的な時間による身体管理を子供のときから学校で訓練して、有用な工場労働者を作り出していかなければなりません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、方代はこれも駄目だった。戦前、古河電鉄かなんかに勤めたけれども、すぐに辞めた。五分くらい遅刻するものだから、出社しないでどこかで遊んで、時間になったら帰ったという話も残っていますけれども、そういうふうなサラリーマン、工場労働者になることが、方代にはなかなかできなかったわけですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それはやはり、江戸時代の身体作法をもった農民である父親龍吉に育てられた方代の身体といったようなものがあったからではないか。とことん、こういう近代的なものに馴染まない身体がまずそこにあった。軍隊生活が馴染まなかったというのも、一つにはこの問題があるだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代のみならず、そのころはまだ、田舎の農民にはそういう人が何人もいたと思うんです。詩人の井上俊夫さんに『初めて人を殺す』という本があります。これは岩波現代文庫に入っています。井上さんもやはり農民出身で小学校卒の学歴ですが、詩や文学が好きで、独学で勉強していた。昭和十八年に二等兵で入隊していますが、中国大陸で初年兵教育を受けたときのことを書いているのが、この『初めて人を殺す』という本です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同じ仲間に、馬場二等兵がいた。これはグループのなかで一番とろい人です。小学校を出てから百姓一筋でやってきた人で、井上二等兵と同じ農民出身だから親近感を感じているらしく、手紙が来たといっては読んでくれ、手紙を書いてくれと、頼まれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　馬場二等兵の家は、お父さんが早くに亡くなって、お母さんと妹の三人暮らし。母親は文盲で、妹が手紙を書いてくるのですが、「お母ちゃんと二人で、兄ちゃんが無事で帰ってくるのを首を長くして待っています」と、そんなことばかり書いてある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これでは具合が悪い。御国のために頑張ってくださいと、一言付け加えてないと、お前のところは一体どんな銃後の生活をしておるのかと注意されるそうなんです。馬場二等兵は馬場二等兵で、「おかんの顔を見たい」「田圃がどないになってるか気にかかって仕様がない」と、そんなことばっかりを手紙に書いてくれと頼む。それでは困るわけですね。検閲が必ず入るわけだから、天皇陛下のためにわたしは一生懸命頑張りますと、最後に付け加えないといけない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、字が読めないものだから、一回読んでやった手紙を何回も読んでくれ読んでくれとやってくるわけです。仕方なく読んでやると、時と場所もわきまえずに大粒の涙を流して泣く。そんなのを見られた日にはビンタです。読んでやった方も、読んでもらった方も両方ビンタですよ。あぶなくてしようがない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それに動作がとろくさくて、へまばかりする。軍隊式に身体が動かない。夜中に非常呼集がかかると、闇の中で自分の服装を整えなければいけないんですが、馬場二等兵は間違って人のものを着たりするから、となりの兵隊は困るわけですよ。結局列に並ぶのが最後になってしまって、またビンタを張られるわけですね。この馬場二等兵が、一番リンチを受けていたそうなんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ある晩、夜中に非常呼集がかかった。営庭に並ばされて、行進していくと、炊事当番かなんかしていた中国人の捕虜が日本の兵隊服を着せられて、木に縛りつけられていた。リュウという名前だったのですが、それを今から、初年兵教育の仕上げとして銃剣で突けというわけです。刺突訓練というんでしょうか。中国大陸ではだいたい組織的にこのような初年兵教育の仕上げが行われていたらしいです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　だいたい捕虜をそんなふうに扱っては絶対にいけないわけで、国際法の違反です。けれども、日本の軍隊は、中国大陸では捕虜をとらないと決めていた。つまり、殺す、処分するということ。同じ処分するなら有効利用をと、各部隊に下げ渡して、初年兵教育の仕上げの刺突訓練に使った。将校教育の仕上げには、下士官が一人ずつ日本刀で斬首したそうです。それが、組織的に行われていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　で、一列に並んだ初年兵に、さあ誰が一番に突くかと、隊長が言うわけです。当然みんな尻込みをします。最初に来た者からやらせてはどうでしょうと教育係が言うと、隊長が「いや、一番最後に来たやつにやらせろ」と言う。最後に来たのは、馬場二等兵なんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　リュウは「私、殺す、いけない。私、殺す、いけない」と叫び、馬場二等兵は「嫌だ、絶対に嫌だ、それだけは堪忍しておくなはれ」と梃子でも動こうとしない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　誰か最初に行くやつはいないのか、幹部候補のやつはどうした、そう言われて、幹部候補生を目指している者は点数を稼ぎたいので、渋々ですが、行くんですね。わあっと言って、突進して、太股かなんかを突き刺すわけなんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そうやって一人一人木に縛りつけられている捕虜を突いてゆき、井上二等兵も突きます。ところが、馬場二等兵は最後まで頑強に抵抗して動こうとしない。これでは教育係としては面目がたたないので、どうやらこうやら手をそえて、息絶えた捕虜をかたちばかり突かせたということです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こういう話を、じつはこの夏、ある大学の集中講義で話しましたところ、そこに中国からの留学生がいました。中国人は、この初年兵教育に捕虜を使ったということを誰でも知ってるそうです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ところが、わたしたちはほとんど知らなかった。少なくともわたしは、この本で初めて知りました。いま、『蟻の兵隊』という映画が来ているそうですが、そのなかでも初年兵教育の仕上げに捕虜を使ったことが一つのテーマになっているようです。（後注・捕虜だけでなく、スパイの嫌疑をかけられた村人や女学生も犠牲になったという）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　確かに戦争なのだから、人を殺すということはあるわけなんですけれども、訓練の仕上げに、無抵抗の捕虜をこのように殺して、それで度胸をつけさせる。つまり、一線を踏み越えさせるわけです。それが手始めで、病みつきになって、快感にもなる、やめられなくなる。日頃、リンチを受けている兵隊は、中国人の民家を襲って、窃盗し、強奪し、強姦する、そういうことが快感になるということがあるらしいです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代がいたのはチモールですから、状況はまったく同じとは言えません。しかし、将校としてチモールにいた前田透の文章を、田澤拓也さんが引用していましたが、上陸すると、あたりはひっそりとしていて、荷物を担ぐ原住民のほかには住民の影一つなかったと書いてあるんですね。&#13;&lt;br&gt;
　ええっと思うんですね。原住民は、そうすると住民ではないのかと。そういう意識をもった日本軍がいるわけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代が、実際に戦地では病院にいる時間が長かったとしても、少なくとも四年間のうち半分は南方の戦場にいたわけですから、何があったかわからない。どんなことも起り得たと考えたほうがあたっているのではないか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「追放流竄」というのは、方代が戦傷者にされてしまったからではなくて、むしろ自分が加害者だったからではないか、加害者の思いがあったのではないか、あったはずだ、と、『初めて人を殺す』のようなものを読みまして、わたしは思うようになりました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代は、この馬場二等兵ほどとろかったとは思いませんけれども、もう少し要領良くやっただろうと思うんですけれども、似たような身体感覚をもった方代が、実際に人を殺すという加害者の立場で過ごした戦争の後、非日常から日常の世界にもどってきたとき、その記憶にどれくらい耐えられるんだろうか、と思うんです。&#13;&lt;br&gt;
　馬場二等兵は、最後に嫌々突いたのですが、誰よりも耐えられない思い出になっているはずだと、容易に推測がつきます。井上二等兵も、その最初の殺人が忘れられなくて、誰にも妻子にも言えないできた。（後注・ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』の主人公もそうだった）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そういう目で、方代の歌を見てみました。戦争中の歌はありませんが、戦争から帰ってきてから歌が出てきます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　甲板の結べる霧ににぶき重き額をおしあてなどして支へたり　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『一路』昭和二十三年一月号&#13;&lt;br&gt;
　　食い飽きしナナスカラバを尚食いて郷愁の言の雨をふらしき　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　同三月号&#13;&lt;br&gt;
　　ゴム林をゆりし自決の一弾の短き重き音のまぼろし&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　右同&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こういう戦争で苦労した歌、いわば被害者としての歌が出てくるんですけれども、昭和二十三年四月号の、これは何だろうと思うんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　死にたれば額の際のなびきたる赤き生毛にふれてもみたり&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　身震ひをし乍ら急ぐ手の中に温められしはライターのみなり&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　四月号には、この後に〈幼児の頭をなでて戦の終りたる日を聞くはせつなし〉〈交はりの線をはづして批評するかなしき垢を心につけて〉がありますが、右の二首はどうしても続けて読みたくなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　死んだので、額際のなびいている赤い生毛に触れても見た。身震いをしながら急ぐ手の中に、ぎゅっと握って温められていたのはライターのみだった、という。&#13;&lt;br&gt;
　「死にたれば」というのは、何なのだろうと思うんです。様々な状況が考えられますけれども、一つの可能性としては、殺すつもりではなかったけれども殺してしまったというふうな場面とも考えられる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それから、「赤い生毛に」という、この赤い生毛って何だろうと思うんですよ。赤毛の人かな。日本人じゃない感じだなと思うし、謎の歌ですよね。よくわからない歌です。&#13;&lt;br&gt;
　このような歌があるということですね。これ以外に、方代の歌に自分が殺人をしたと読めるような歌は見つからない。&#13;&lt;br&gt;
　そういう目で見れば、これが一番そう見える歌。正規の戦闘とは別の出来事のように見える歌です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ヴィヨンは司祭を殺して、窃盗もして、そういう犯罪者ですが、方代も俺も人殺しだと。&#13;&lt;br&gt;
　部隊の一人として戦闘中には当然誰かを傷つけている可能性が高いわけですが、それは兵士としての義務であり、「正義」です。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、先ほどの初年兵教育の話のように、戦場では殺す必要のない殺人がしばしば行われている。戦闘が終わったあと、民間人の家に押し入って強奪したり、強姦したり、そんな話は日常茶飯でした。&#13;&lt;br&gt;
　とくにチモールでは輸送ルートが絶たれて、食糧がなくて飢えたようですから、何があってもおかしくない。そんななかに方代もいて、右のような謎めいた歌がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そういうふうに考えてみたら、ヴィヨンが人殺し、窃盗犯でありながら、偉大な、何世紀も後に名が残る詩人であり得た、というのは、方代にとっては、大きな救いだったかもしれないんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　方代には、やはり自分は人殺しだと、あるいは犯罪者だというような思いが・・・まあ、だいたいの人は戦争中のことは戦争中のこととして、割り切って、黙って過ごして、善良な市民として戦後を生きていったのでしょうけれども、腹の中ではそれは絶対に消えない記憶として残ります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　香川進という歌人がいますけれども、この人は将校でしたが、『氷原』という歌集に歌が残っています。生きて帰れると知っていたらやらなかったことがたくさんあると。やはり、同じような状況だろうと思うんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　自分は人殺しだ、犯罪者だ、まともな道を踏み外した人間だ、こうなっちまったからにはもっと悪くなってやる、そんなふうに思っても仕方がない。思うほうが、戦中から戦後への切り替えを器用にやるより、自分自身のなかに齟齬が起きない。&#13;&lt;br&gt;
　自分は、戦争なんかに引っ張られて人非人にされちまった、人非人になっちまったからには、この道を行くところまで突き進まなければしようがないんだと。&#13;&lt;br&gt;
　そのとき、たった一つの杖は歌である。歌が救いとなっている人生ですね。そういう生き方を教えてくれたのが、ヴィヨンだったかと思うんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ヴィヨンの詩集を手に入れたのは昭和二十四年一月のようですので、それを読んで、歌を作って誌上に出てくるのは、二月か三月くらいになります。とくに、昭和二十四年三月くらいになりますと、もう歌の勢いが違ってきます。&#13;&lt;br&gt;
　はっきり自分の位置は犯罪者、ならず者のほうですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「汚れたるヴィヨンの詩集をふところに」、すなわちヴィヨン詩集を杖とし、歌一筋に、歌だけをふところにして、「夜の浮浪の群」つまり市民の生活ではなくて、市民外、欄外の生活、まっとうな人生ではない、これこそは無頼といっていいわけなんですが、そういう生活を積極的に選んで入っていくのだという勢いが、この歌には感じられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これは、自分は戦傷者で、まともな仕事ができない、仕事を見つけることができないので、やむなく浮浪者の群に入っていかざるを得なかったという、そういう消極的なものではなくて、積極的に自分は浮浪者の群に入っていくのだと、そういう勢いのようなものが、レジュメにあげた昭和二十四年三月あたりの歌からは、はっきりと見てとれると思います。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　　ゆく所までゆかねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『工人』昭和二十四年四月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　人非人になってしまったからには、人非人の道を最後まで貫くよりほかしようがない。&#13;&lt;br&gt;
　歌を手に握りしめながら。「ゆく所までゆかねばならぬ告白」は、歌一筋という以上に、人非人の道を貫くと読んではじめて「ヴィヨン」が生きてくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　十月三十日のあけのわさびの強い香よ人間に近い泪をながす　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『工人』昭和二十四年十一月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「わさびの強い香よ」というのは、あのわさびを食べると鼻がつーんとして涙がぼっと出る、あの感じですね。「人間に近い泪をながす」、自分は人間ではないんですね。一人の「修羅」なわけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このように、もともと軍隊というようなところにはまことに馴染みの悪い身体をもった方代が、戦争にむりやり引っ張られて戦傷後遺症を負ったのみならず、人非人にされちまった。&#13;&lt;br&gt;
　まともな人間の道を踏み外した者であるという記憶をもち、その身体の中の記憶を器用に割り切ることができない戦争帰りの男。&#13;&lt;br&gt;
　軍隊に馴染みのわるかった身体だからこそ、いっそうそうである。そういう身体が、戦中戦後を齟齬なくおのれを貫くことのできる生き方、それを方代はヴィヨン詩集に教えてもらったといっていいのではないでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さらにもう一つ、ヴィヨンの詩から獲得したものは「復讐と贈与」ということだと思います。&#13;&lt;br&gt;
　復讐の表出の仕方といいましょうか、復讐、怒り、「何で俺をこんな人殺しにしちまったんだ」という怒りですね、その表出をしていいんだということ。&#13;&lt;br&gt;
　軍隊に馴染みのわるかった身体、その身体の底から嫌だった軍隊生活のなかで、リンチを加えた上官や、さまざまな許せない出来事があったことでしょう。それらに対する復讐の心の真っ直ぐな表出、それがこの昭和二十四年のヴィヨン読後からはっきりと出てきています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　広中淳子という名は、方代が慕情を捧げた相手としてよく出てくるんですけれども、今回、高村寿一さんがその著書で広中淳子の歌を掲載してくださっているのを見て、はっとしました。&#13;&lt;br&gt;
　広中淳子という名から想像するような美しいおとめの歌ではないではないか、と思ったんですね。&#13;&lt;br&gt;
　まったく、復讐と哀願、呪詛の歌ですね。騙した男を許せない、その哀願と呪詛をうたっている歌です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　君が娶る春の夜にして七度の七十倍までの寛き心なく&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　里遠き深夜の窓に哀願と呪詛をいだきて歩みよりたり&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　　復讐は身にかえりくることと知りながら思い描きぬ硝子窓透きて　　　　　　　　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　歌は拙い、歌を始めたばかりかなというような感じの歌ですけれども、これは絶対に裏切った男を許すことができない、復讐してやる、呪ってやる、そういう歌なんですよね。&#13;&lt;br&gt;
　思い切った復讐の表出をしています。これを見たときに、方代がなぜあんなにまで広中淳子を慕って、というか、会いたいと、会いに行こうとまで思ったのか、わかったような気がしました。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　まさしく同じ魂をもっている、「広中淳子の、あなたの心は俺しかわからないよ」といったような思いだったんだろうな、この暗い怒りをわかってあげられるのは俺しかおらんと、そういうふうに思ったんだろうなと思うんですね。&#13;&lt;br&gt;
　同じような気持を、ヴィヨンが形見の歌で書いています。とびとびに部分的に引用しますと、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　恋愛の獄舎(ひとや)の覊絆(きづな)を　断ち切ろうと&#13;&lt;br&gt;
　　思ふ気持が　強く浮かんだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　女に対する復讐を　恋愛の&#13;&lt;br&gt;
　　あらゆる神に　祈願して、&#13;&lt;br&gt;
　　恋の痛手(いたで)を和(やはら)げる　祈りを献げた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。&#13;&lt;br&gt;
　　所詮、この身は　恋愛の聖者の中に&#13;&lt;br&gt;
　　名を残す　殉教者(じゅんけうしゃ)　恋の使徒。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　一(ひとつ)、さきに語つた　わが恋人に、&#13;&lt;br&gt;
　　あまり邪険(じゃけん)に　棄てられて&#13;&lt;br&gt;
　　　　　・（略）・・&#13;&lt;br&gt;
　　俺は　自分の心臓を　手筥(てばこ)に入れて女に贈る&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（鈴木信太郎訳）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この形見の歌は、窃盗してとんずらするというときに書き始めるわけなんですけれども、その出だしに、今まで邪険に扱われてどのようにしても振り向いてくれなかった女に、思いを断ち切るちょうどよい潮にするというんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。所詮この身は恋愛の聖者の中に名を残す殉教者恋の使途」、そう言って、関わりのあった一人一人に、こういう形見をおまえに残そうとあげていく。それで形見の歌なんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この女には、「あまり邪険に棄てられて・・俺は自分の心臓を手筥に入れて女に贈る」と言っています。好きで好きでたまらなくて、哀願するのに、邪険に「あんたなんか死んでしまえばいい」と言われて、とうとう自分は断ち切るんだと。そのあなたに愛憎こもごもまじった復讐として「心臓」を贈る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　どうも、わたしが思うには、方代には広中淳子以前に、何かそのようなことがあったんじゃないかと思うんですよね。想像ですけど。&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　自首に立つドンホセにあらず墓山を降りて夜の海に近づく&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『工人』昭和二十四年三月&#13;&lt;br&gt;
　　可愛さあまって憎き心の行動を押えんと白夜の駅に下りたつ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『工人』昭和二十四年五月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ドンホセというのはカルメンの恋人で、カルメンがどうしても「うん」と言ってくれないものだから、殺すんですね。その殺したドンホセが自首しに行くんじゃないんだ、逃げる、ということなんですね。&#13;&lt;br&gt;
　それから、昭和二十四年七月には、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　そむきたる汝には絹の臀の重みにたえる紐を送らん&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　自分に背いたおまえには、自分で首を吊るための絹の紐を送ってやろうというんですね。これは、形見の歌の中からヒントがあるんですけれども。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、ヴィヨンを読んで、その熱に浮かされてこんな文学的虚構をしたというより、多分、方代には、広中淳子以前にこういう、好きで好きでたまらなかったのに邪険にされた経験があるのではないのかなと思うんです。&#13;&lt;br&gt;
　広中淳子も、男に騙され、哀願と呪詛に身のやるせない、追いつめられた者。同じ魂を発見した思いで、あんなに執着したのではないかなと思うんです。これは推測にすぎませんね。証明はできないわけなんですけれども。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もう一つ、方代がヴィヨンの形見の歌から得たもの。方代は、この詩をそらで言えるようになったよというんですね。なぜ、それほど形見の歌が好きだったか。&#13;&lt;br&gt;
　長いんですよ。ものすごく長い詩です。八行が四十節ある詩なんですが、これはそこに「復讐と贈与」と項目を立てましたけれども、「復讐とは、贈与の一形態である」ということを、方代は形見の歌から読み取ったんだなと、わたしはこの年になって形見の歌を読み直して、ようやく理解ができました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　復讐するということは、贈り物をプレゼントすることと同じなんですね。御礼参りと言いますけれども、確かに御礼参りなんですね。しかし、お礼参りっていうのにはやはり、力には力でという感じがありますけれども、そうではなくて、プレゼント。&#13;&lt;br&gt;
　で、そのプレゼントの仕方がヴィヨンはたいへん面白いわけなんです。わたしを可愛がってくれたお父さんには天幕（後注・天幕や陣幕を贈るのは自己を騎士として自負して残すのだという）をあげましょう、恋人には自分の心臓をやろう、そんなふうに関わった人にプレゼントの品々をあげるんですが、それがみんな空手形なんですね。自分がもってないものばかり。&#13;&lt;br&gt;
　おそらくこの当時の人が、この形見の歌を聞いたらワッハッハと言って腹を抱えて笑っただろうと思われるんですね。&#13;&lt;br&gt;
　非常に皮肉のきいたものなんです。相手を嘲弄したり、今ならギャグというんですか、皮肉があって、しかもそのなかに愛情もこもっていて、形見の品々をつぎつぎにあげていくことで意趣返しにもなるというものです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　たとえば、屠牛夫(うしごろし)のジャン・トルーヴェには『羊』の看板に『牝牛』看板を添えてやると。こんな看板が中世の街路には目印としてあったようです。『牝牛』の看板には、「強力無双の百姓が背中に背負ってる」絵が描いてある。それを遺贈するというんです。もちろん、自分のものではありません。「若し、百姓が渡さない時は、手綱で首を絞め　絞め殺しても　苦しうない」。絵に描いた牛を渡せるわけも、殺せるわけもない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わたしは、この四十節もある形見の歌のおもしろさを、注釈があったってよくは読みこなせないのですが、それを方代はちゃんと受け取っているわけです。そうでないと、全部そらで言えるくらいに読めません。いったい、方代は、学者でもないのに、どうしてそこまで形見の歌を読みこなせたのか。&#13;&lt;br&gt;
　それは、この形見の歌に通底している精神、復讐するとは贈り物をあげるということなんだということ、それを直観的に読みとったからにほかなりません。たとえば、つぎの歌は随分あとからのものではありますが、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　山椒の棘を生かせし摺り粉木を仕上げて形見の品に加える&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　摺り粉木なんかも形見の歌に出てくるんですが、これは山椒の棘を生かした摺り粉木ですから、とげとげがあるんですね。とげとげのついた摺り粉木ですよ。これをプレゼントするんですね。誰にするのか。握ったらちくちくと痛いですよね。こういうふうな贈り方、まさしくこれがヴィヨンの贈り方なんです。&#13;&lt;br&gt;
　ヴィヨン読後の昭和二十四年三月にもつぎのような歌があります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　おから寿司水と一緒にのみおろし売られゆく娘にマフラを投げる&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　有名な歌ですが、これもマフラーなんか持っていやしないのに、マフラーを投げると言うわけなんです。プレゼントですね。自分はこの娘にこういうふうにあげたい、あげるぞと。同じ月の歌ですが、&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　父知らぬ子を産みおろす若き娘に生の卵を一つ置いて去る&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そんなことしやしないのに、しかしまあ、そう言うわけですね。これはやはり自分の形見、プレゼントだと思うんです。必ずしもここには復讐は入っていませんけれども、そういう憐れみがプレゼントとして表現される。そして、自分を邪険にした者には「そむきたる汝には絹の臀の・・」となるわけですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような、復讐とは贈与の一形態だということ、このような復讐の仕方を、方代はヴィヨンから学びました。&#13;&lt;br&gt;
　復讐というと、ふつう「憎悪」、憎しみを相手に返すんですが、恋の恨みのみならず、戦争なんかに引っ張り込んで俺を人殺しにしちまいやがってという、その恨み、呪詛や怒りをあらわすのに、贈与の形であらわしていく、そういう表し方を、ヴィヨンから方代は受け取ったんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ヴィヨン読後、方代はそれをただちに理解した。呪詛や怒りでいっぱいになっていた方代には、それが必要だったからです。&#13;&lt;br&gt;
　そして、この贈与によってする復讐が、長い時間をかけて、方代の晩年にはまさしく贈与そのものになっていくわけなんですね。怒りが昇華されていくわけなんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　欄外の人物として生きてきた　夏は酢蛸を召し上がれ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　欄外の人物ですから、自分はまっとうな市民ではない、外側にはじき出された人間として生きてきた。当然、その恨みもあれば怒りもあるわけなんですが、それをすべてひっくり返すかのように「夏は酢蛸を召し上がれ」と贈与するんですね。&#13;&lt;br&gt;
　「召し上がれ」というこの言い回しも、じつはヴィヨンの形見の歌のなかにあるんですが、これもプレゼント、贈与です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような、怒り、復讐、そういったようなものを機知によって哄笑とともに相手に返していく。&#13;&lt;br&gt;
　憎しみ、憎悪ではなくて、笑いとともに快活に相手に返していく、そして最後には笑いだけになるという、この形。&#13;&lt;br&gt;
　方代は、最後にはそこまでもっていったんだなというようなことが、わたしには今回わかった、感じ取れたわけなんです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このような方代の傍証のような意味で、レジュメに、首の歌をすこしあげておきました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　ギロチンはまずギロチンに生きながら己れの首をはねはぶかしむ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　昭和三十年一月&#13;&lt;br&gt;
　　がむしゃらにゆかねばならぬがっしりとこの男には首がないのだ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　昭和四十二年十月&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　昭和三十年、もう徹底的に悪くなってやるという形で逃亡していって、「己れの首をはねはぶかしむ」。これは過去を振り向かない、きょろきょろして迷うような首を切らせたという意味もあると思いますが、一つの自己処刑、自己処罰ということも考えられます。&#13;&lt;br&gt;
　昭和四十二年になりますと、首のない男が登場してくる。昭和四十四年には、首のない男が何首も出てきます。&#13;&lt;br&gt;
　ところが、昭和四十八年四月になりますと、首が出てくるんですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　ずっしりと両肩に首をめりこまし季節の朱い花買っていた&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　季節の朱い花を買うというのは、何か恋人にあげる花のような感じですが、昭和四十八年は『右左口』が出た年です。昭和五十年ではまだ「首のない博徒がひとり住んでいて」とうたうんですけれども、昭和五十三年三月になると&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　両肩に首をがっしりとうめ込みし男が山を降りて来にけり&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　首ががっしりとついて、振り向かなくてもいいような、振り向きもしないようにがっしりと首を埋め込まれた男が山を降りていくんですね。このような、犯罪者としてギロチンで首を刎ねられるべき男の生涯にわたる叙事詩といったことも、見てとれます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　今回、もういちど方代におけるヴィヨンの意味を考えてみまして、戦争被害者としての方代ではなく、加害者としての方代という視点から見て、方代の修羅、方代の無頼といったことがいくらかは合点がいったというふうな思いをしております。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そして、復讐とは贈与の一形態であるということ。ヴィヨンから学んだ復讐の表出の仕方は、笑いとともにプレゼントすることであった。これを、血を血で洗い、憎悪を憎悪で洗う戦争から帰った方代が掴んだことの現代的意味はまことに大きいと思われます。&#13;&lt;br&gt;
　どうも今日はありがとうございました。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>山崎方代コーナー</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>短歌誌『桜狩』・・・浦崎真子による・・・・・</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/09/01/4555360</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/09/01/4555360</guid>
      <pubDate>Tue, 01 Sep 2009 22:23:33 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-09-01T22:45:34+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-09-01T22:37:47+09:00</dcterms:created>
      <description>　　&#13;&lt;br&gt;
　　産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　阿木津　英『紫木蓮まで・風舌』（沖積舎、1985年）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　1985年新装本として発行された作者二十四歳から二十九歳までの作品を収めた歌集の中の一首である。これまでにも多くの読者に鑑賞されまた評されてきたと思う。初めてこの歌を読んだ時は、その力強さとスケールの大きさの中に阿木津英と言う作家の生きる事、歌を詠む事への強い意志が伝わってきて自分の背中を強く押されたような気がした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　詠まれてから四半世紀以上が経ち世の中が変わり、複雑かつ先の見通す事の難しい今、この歌が私の胸に強く響いてくる。「ものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」と言う情景を思い描き、一人ひとりが両手を広げ、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んでそれぞれの世界を生み出して行けそうな気がする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　最近のプログ「阿木津英の仕事」の中の「あれは詩じゃない」「文学魂」「文学魂と今の世の中」等にも、当時と変わらない毅然とした作者に会うことが出来る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その中で（「文学魂」は、野伏せり夜盗の精神にこそやどる）と谷川健一氏の言葉を引いて言い切る強さと、この歌集にある&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　定点を見失いたる思いにて六月土のおもて光るも&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　ああああと声に出だして追い払うさびしさはタイル磨きながらに&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
などに見られる一面をも持つ作家阿木津英に読者はこれからも惹かれて行くのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「秀歌鑑賞」（126）、『桜狩』2009.3・4月号、第130号）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>被紹介</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>短歌誌『玉ゆら』・・・小俣文子による・・・・</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/08/30/4549294</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/08/30/4549294</guid>
      <pubDate>Sun, 30 Aug 2009 18:00:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-09-01T22:44:14+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-08-30T18:19:07+09:00</dcterms:created>
      <description>　　&#13;&lt;br&gt;
　　中心のある形態に馴れて目はうつくしとこそ大噴水を&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『巌のちから』阿木津　英歌集　短歌研究社）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　2000年から2003年3月までの作者五十代始めの第五歌集『巌のちから』は、雪舟の水墨画に向かい合っている時に生まれた言葉で、2003年その三十首により第三十九回短歌研究賞を受賞と『あとがき』に知る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　地の芯のふかきを発し盛り上がる巌のちから抑へかねつも&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　雪舟の絵のもつ力は、それを観ている作者をも触発し、身の内からの抑えがたいエネルギーとなったのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　不語似無憂（いはざればうれひなきににる）と書くそのこころをぞ含むごとくす&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以前、私も東京国立博物館の一室にこの良寛の書が掛けられ、去りがたい気持ちであったことを思う。語（かた）らざればと読んでいたが、〈いはざれば・・・〉とルビをふる作者の&amp;quot;われ&amp;quot;という強い意志にふれたおもいがする。&#13;&lt;br&gt;
　静と動、きびしくみつめる目、はげしさ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　わが深き憎悪したたり落つるべし昏れゆくそらの層断ちたれば&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　肩の力をぬけば、気付かなかったことが見えてくる。&#13;&lt;br&gt;
「一二三」「いろは」の書を思うこの歌にも心ひかれる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　白銀（しろがね）の線（すぢ）震ひつつやはらかく風ふくみたり良寛の字は&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「歌の本棚」、『玉ゆら』2009.冬号　第23号）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>被紹介</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>街上遊歩（27） 鴉と猫とヒト</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/06/24/4386837</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/06/24/4386837</guid>
      <pubDate>Wed, 24 Jun 2009 02:16:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-06-24T02:23:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-06-24T02:23:10+09:00</dcterms:created>
      <description>　以前ほど距離感は無くなったと思われるが、地方の国立大学より東京の私大の方が人気があるというから、今の若い人にも東京という都市は何かしらきらきらしいところであるのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、実際に住んで目につくのは、いかにも地の人らしい顔つきをしたお豆腐屋のおじいさんや、薬屋のおばあさんや、街通りに住む老爺老婆たちである。都市をあげての新しさや繁栄に向かおうとする空気のなかで、かえって目に止まるのかも知れない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それから、遊歩道の植込みのかげに潜んでいる野良猫であり、建物の屋上に止まっては空で声を張り上げている鴉であり、公園のベンチに寝ているホームレスである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　不況のきわまったひと頃は、わたしの住む周辺の小公園にまでホームレスがやって来て、ベンチに陰鬱に足を投げ出し、あるいは寝そべっているのを見た。晩秋の暮れかかったベンチに苦しそうに咳込む蓬髪の人を見たこともある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それが、このところ、ふと気がつくと、公園にも駅の構内にも鳩がいなくなり、植込みの陰に潜んでいた病気の野良猫たちがいなくなり、生ゴミをつつく鴉の数が減り、駅の構内にも、周辺の小公園にも、ホームレスの姿を見なくなった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　都をあげてのカラス対策をしていることは知っているし、新宿駅周辺に寝泊まりしているホームレスを強制撤去させたというニュースを聞いたこともある。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　それでも、この不況下、ホームレスが減るはずもあるまい。汚いもの、醜いもの、余計なものが、いつのまにか気がつかないうちに、処分されてしまっているのではないかと思うと、どうも落ち着かない不気味さを感じる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　街ぞらを鴉飛びつつ植込みに野良猫くぐみヒトは箱に寝る　　　　　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そう思ったら、自分の歌のなかの誰も知らない深夜の街ぞらに、思うさま鴉を羽ばたかせ、植込みに野良猫をくぐませ、段ボールで組み立てた箱のなかにヒトを深々と眠らせたくなった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そこは、鴉と猫と段ボール箱で眠るヒト以外、まともな（と思っている）人の誰も知らない街の空間である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　現代都市の本質なんて、じつはこんなところにあるのではないだろうか。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（西日本新聞2003.10.20）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>街上遊歩</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>街上遊歩（26）都鄙意識</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/06/14/4365127</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/06/14/4365127</guid>
      <pubDate>Sun, 14 Jun 2009 11:12:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-06-14T11:17:52+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-06-14T11:17:52+09:00</dcterms:created>
      <description>　東京に移る以前、福岡、岡山、熊本の三つの県庁所在地に住んだことがある。そのどれとも、東京という都市は違っていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　東京が世界で一番面白い都市といわれた、バブル景気にさしかかるころに移ったせいもあろうが、目もくらむばかりの物品のきらびやかさがあった。しかし、同時に、都市全体に差別意識のようなものが薄暗く沈むように拡がっていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そのころテレビでは、ビートたけしがダサイタマなどといって笑わせていたが、あのような田舎者差別や、電車の路線によって住む”人種”が違うなどという差別意識は、現実のものだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こんな感じは、それまでの三つの県庁所在地では受けたことがない。地方でも、ウチの家は、といったそれ相当の自負を持つ人はあるだろうが、そういうのではなく、都市全体に沈み拡がっている意識である。だから、いつのまにか誰の心にも忍び入ってくる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　なぜだろうか、と考えた。一つには、東京では、貧富の差が大きい。地方都市では感じられなかった富裕層の存在が、東京ではそこはかとなく実感される。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　あるいはまた、皇居があるからかもしれない。皇居を抱き込んだ都市だから、身分意識が日常的に醸成されるのかもしれない。東京は地方人の集まりだともいわれる。互いにどこの馬のホネともわからないから、成り上がり者的差別意識が発達するのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　どの理由も正鵠を射たというほどではないようだが、先日、ある本を読んで、これだったかと思うことがあった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　田舎・地方・鄙は賤しく、都市は田舎に優越しているという都鄙意識は、百官の府たる平安京に移住した貴族たちの間から生まれた、というのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　平城京での古代貴族たちは自分の本拠地としての土地を所有しており、生産を管理していた。豪族であり、地主であった。&#13;&lt;br&gt;
　その土地を捨てさせ、平安京の律令官人として俸禄を与える体制が整ったころから、田舎に土地を持ち生産に関与するのは賤しい、田舎びている、という意識が生まれたという。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　裏返せば、そのころ律令制による諸貴族たちの集中管理体制が整ったということになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　なるほど、あれは「みやこ」意識だったのだ。東京という百官の府に住んで、「貴族」ならぬものの心にも、いつのまにか都鄙意識を植え付けてしまうものは。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（西日本新聞2003.10.18）&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>街上遊歩</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>街上遊歩（25）鴉の言い分</title>
      <link>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/03/12/4171077</link>
      <guid>http://akitsutanka.asablo.jp/blog/2009/03/12/4171077</guid>
      <pubDate>Thu, 12 Mar 2009 19:57:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2009-03-12T20:05:39+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2009-03-12T20:05:39+09:00</dcterms:created>
      <description>　羽根をいっぱいに張り拡げて飛び立つ鴉に、猫が大跳躍して、果敢にうち向かっている広告写真が、何年か前、駅の構内に貼ってあった。背景は、ゴミが散乱している荒地である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　猫にとって、鴉は油断ならない相手だ。子猫なら喰うし、争いが起きれば空から攻撃する。野良だったうちの猫も、鴉がベランダに近寄ってくるや、ただならぬ気配で戦闘態勢にはいる。夜明けがたの街裏では、餌をめぐる戦争が起きているのだろう。&#13;&lt;br&gt;
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　鴉はご馳走の生ゴミを漁ったあと、マナーがないというので、ヒトに憎まれるが、とても黙ってやられているばかりではない。敵の玄関口に、わざと生ゴミを散乱させて復讐をするのだそうだ。&#13;&lt;br&gt;
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　東京都では、何年か前から鴉と戦闘態勢に入っている。公園に大がかりなワナを作って、昨年度は一万二千羽を捕獲した。本年度の目標は一万三千羽だという。&#13;&lt;br&gt;
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　鴉の屍(し)おびただしくも積む穴のほつかりひらく街衢（がいく）のそらに　　　　英&#13;&lt;br&gt;
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　その捕獲した一万二千羽の鴉は、どうなったのか。新聞でニュースを読んだとき、ふと思った。一万二千羽の真っ黒いかたまりが積み上げられて、ゴミ処理場の焼却炉のなかに投げ込まれたのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
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　アウシュビッツの死体の山が連鎖的に思い出される。これは鴉の大虐殺だ。鴉会議では、黙って引き下がるべきかどうか、ヒト対策に知恵を絞っているはずだ。&#13;&lt;br&gt;
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　「ヒトほど狡賢いやつはいないな。カァ」&#13;&lt;br&gt;
　「カァ。そもそもバブル景気のころ、飲めよ、喰えよ、といって、街なかにご馳走積み上げて、来てくれってったのはヒトどもじゃないか。こういうのを、騙し討ちっていうんだろう。カァカァ」&#13;&lt;br&gt;
　「針金ハンガーで巣を編み上げる工夫だって、並大抵じゃあなかったに・・・。」&#13;&lt;br&gt;
　「カァカァ。まったくあいつら、仁義も礼節もしらねェな。鴉だと思ってバカにしてやがる。」&#13;&lt;br&gt;
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　鴉の言い分にも一理がある。&#13;&lt;br&gt;
一九七〇年代には、山手線の内側に鴉はいなかった。八五年に、七千羽。以後急激に増えて、現在三万五千羽だという。&#13;&lt;br&gt;
　問題のなかった七千羽にまで（虐殺して）減らすというが、バブル経済期以後、東京のヒトが食べ物を簡単に捨てるようになったということを、まず反省すべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（西日本新聞2003.10.17）&lt;br&gt;
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      <dc:subject>街上遊歩</dc:subject>
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