方代散策・・・『迦葉』を読む第一回2010/05/05 18:55


   序――民衆


 山崎方代は、一九八五(昭和六〇)年八月十九日、肺癌による心不全のため、国立横浜病院の一室で没した。肺癌の判明したのは前年十二月のこと。三月には摘出手術をしているが、おそらく病状は進行していたのだろう。
 最後の歌集『迦葉』のあとがき草稿は八月十三日に口述したが、完成せず、遺詠「蝉」五首が『うた』十月号に掲載された。



  病院の窓の内より民衆に笑みを送りて祝福申す
 


 遺詠五首の五首目、十一月末に刊行された『迦葉』にも入っていない、最後の歌。この世を去るにあたっての挨拶の歌である。

 初めて読んだとき、なかばあきれながら笑った。高い窓のしたには「民衆」があふれんばかりに埋めつくし歓呼の声をあげながら手をふっている――そんな光景がたちまち見えてきたからである。
このとき方代は、満面に笑みを湛えながら窓から大きく身を乗り出すようにして別れの手を振る「英雄」である。
病院の窓はいつのまにか列車の窓のようなものに変じ、「英雄」方代を乗せて空高くへと出発する。つねに「民衆」とともにあって、「民衆」のために粉骨砕身した革命家。
彼をたたえる「民衆」の歓呼の声にも、応えて大きく手を振る革命家の祝福の笑みにも、互いのあいだには限りない善意が満ちあふれている。

 このような光景が浮かぶのは、「民衆」というマッスをあらわす語があるからだ。方代が民衆をマッスとしてとらえるまなざしをもっていたことを意外にも思い、その無邪気さに笑いもしたが、しかし、ひるがえって思えば、方代は「民衆」というロマンチシズムを終生信じた歌びとだったのである。

 人々へ向かうあふれるような無邪気な善意と祝福こそは、方代の歌のこころのもっとも根底にあるものであった。これあるがゆえに、方代の歌は、いかにも親しみやすく気楽で庶民的であるのにも関わらず、けっして格が低くならない。

 つぎに引用するのは、大下一真著『山崎方代のうた』(短歌新聞社)からの孫引きで、ボーリング大会の「開会の挨拶」。方代は、一九七二年五十八歳の年、鎌倉飯店店主根岸侊雄が自宅の敷地内に建ててくれた四畳半のプレハブの家に移る。その鎌倉飯店常連連中で作ったボーリングクラブの大会であった。



 こがね色に空がきはだつて
 鎌倉山の嶺みねを
 幾重にもわかてば
 もうゆく秋の風が
 うおう うおうと
 心の底深く
 そこはかとなく
 しのびよって来るこの頃
 今日今宵
 やはらかき灯のもとで
 日ごろのうでと心をきそひ合うことの
 この楽しさは
 いづこより来る
 さはさりながら
 この国の私達の日常は
 実にめくるめくして
 さびしく けはしく
 ともすれば人間よしみの
 愛憎の世界も忘れかけようとしている時に
 おのずからここに
 したしい若い仲間が集いより
 るり色の
 ボーリングの名のもとで
 あたたかい そして
 まことこまやかに
 いと高い愛情をそそぎあい
 青春の光の野辺に立ちはだかり
 人間万歳をくり広げることは
 かならずあしたの生活に
 明るい灯がともることを
 はばかりません
 これをもって
 開会の言葉とします

 今宵十月二十五日        
   一ちまたの名もな(ママ)無き詩人   山崎方代



 「開会の挨拶」替わりの詩だが、方代の歌の秘密をうかがわせるおもしろみがある。
方代語法とでも名づけたくなるような「私達の日常は実にめくるめくして」「光の野辺に立ちはだかり」「灯がともることをはばかりません」といった語の連なりはほとんど気分まかせだが、しかし、決して放縦には流れない。
語はよくコントロールされて、一見舌足らずな語法はかならず詩的なおもしろみへと転じている。
また、季節から入り、「今日今宵」の楽しさを言い、その意義と、「あしたの生活」への希望を唱えて終って、「開会挨拶」としての結構はきちんと整っている。一見型破りに見えるが、型は踏んでいるのである。

 口から出まかせの破格のように見えて、じつはきちんと型を踏み、語の扱いの上にもコントロールの効いているところ、方代の歌の第一の秘密であろう。

 さらに、この詩、じつに品の良いことにも気づく。格が高い。子どもの詩もしばしばブロークンな語法を使うが、そこに格というようなものはない。しかし、方代のこの詩にはまぎれもなく格がある。

 「この楽しさはいづこより来る」という遊びの無邪気さ。「人間よしみの愛憎の世界」(憎の入っていることにも注意)のうすれつつある「この国の日常」のなかでの、「若い仲間」たちの親しい睦み合いの善意、愛情のそそぎあい。ボーリングという無邪気な遊びにわれを忘れる若い仲間たちへの、あふれるような善意と祝福――。

 「名も無き詩人」が、むつび合う若い仲間たちに祝福を贈るという空想。詩の格は、ここに生まれる。

 方代の生涯の歌を流れるこの通奏低音――人々へ向かう無邪気な善意と祝福――が、はっきりと自覚をともなっておもてに現われるようになったのは、最後の歌集『迦葉』においてであった。



     一、 ぜんまい


  あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている



 「廻って」は、「まわって」と読もうか。ぜんまい摘みの経験はないが、図鑑を見ると、胞子葉と栄養葉の二種類が春に芽を出すという。
俗に胞子葉をオス、栄養葉をメスと言って、オスの方は食べないそうである。やわらかい赤褐色の綿毛をあたまに被り、それを突き破って胞子葉はくるくる巻きの突起のような緑を、栄養葉は双葉をのばす。

 「五月の空をおし上げている」のは、オスの胞子葉だろうか。
山菜摘みが好きだった方代は、ぜんまいも摘んだにちがいないが、固くて食べられない胞子葉の方は摘み残しただろう。
朝毎に山歩きをしながら見ていると、ある日、綿毛をやぶって真新しいさみどりの色が突き出た。五月の明るい空のひかりのもとに。

 「あさなあさな廻って行くと」は、どこかねじれた語法だ。
「朝ごとに同じルートを廻っているが、今日行くと」を圧縮したような語の繋げかたである。だが、ここは「いると」ではなく「行くと」でなければならない。
「行くと」だからこそ「ぜんまいが五月の空を」以下が眼前に見えてくる。ぜんまいに出遭った、行きあった、という感じが生まれる。

 「どこを」を省略したこと、これがすごい。この省略によって、「あさなあさな廻っ」てゆくというわれの行動の軌跡がぜんまいのくるくる巻きと響き合い、おかしみをともなった様式性が歌に感じられるのだ。

 「あさなあさな廻って行くとぜんまいは」、ここで一気に「五月の空」へと大飛躍。小さなぜんまいのくるくる巻きのさみどりの、ぴちぴちとした生命力。それを頌えるこころが、さわやかな五月の全天をおし上げているかのようにうたわせる。




     二、 石の笑い



  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ



 「かりそめにこの世を渡る」十二首中の最後の歌。一連中には次のような石の笑う歌もある。

 
  不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている


 「しののめの下界」も、不二の山が遠くに見える笛吹川の川原であると、わたしの目には見える。いや、笛吹川など見たこともないが、山がすぐに迫ったものさびた石ころだらけの川原があり、遠くの空にはうっすらと不二の嶺が見えているような、そんな場所がおのずと眼前に浮かんでくる。それは、方代のつくり出してくれる風景である。

 方代に「石」の歌は多いが、石が笑う歌も早くからあらわれていた。



  沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり
                  泥二号 昭和三十四年四月

  しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ
                寒暑創刊号 昭和四十六年九月



 昭和三十四年、方代四十五歳の「石の笑い」は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のような歌とともに現われた。〈塩からき世〉を生きる歌のなかでたった一つ嵌めこまれたような「石の笑い」である。

 それから十二年後、掲出歌の原型が生まれる。「しののめ」は、東雲とも書き、暁・明け方。枕言葉でもあるが、ここでは「明け方の」という意。方代の好む音韻の語であろう。ほかにも用例がある。愛着のまつわりを語に感じる。

 「下界」は、仏教語で人間界・欲界をさすという。
単純に高いところから見下ろしたあたりをいうこともあるが、ここではやはり天上界から人間界に落ちて立ったときという空想があるのだろう。笛吹川の石ころだらけの川原のようなところに、気がついたら立っていて、ふと耳に石の笑いが聞こえた。
そんなお話を作っているのである。

 昭和五十五年前後は『右左口』時代だが、歌集には採られていない。納得のできないところがあったのだ。



  しののめの下界に降りて来たる時石の笑いを耳にはさみぬ
      東山梨郡牧丘町加田幸治邸の歌碑 昭和五十五年三月

  しののめの下界に降りて来たる時・石の笑いを耳にはさみぬ
              かまくら春秋 昭和五十五年八月号

  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ
                   うた 昭和五十五年十月



 さらに九年を経て、この歌が再びあらわれた。「突然の」を消し、「立ちて」を「降りて」に換えた。これで「立ちて」にあった物体の重さが無くなり、歌が「石の笑い」に似つかわしい軽やかさを帯びてきた。
「突然の」はもちろん、言うまでもなく不自然であり、無雑作すぎたのである。歌碑の歌としたのは、これで出来たと思ったからであろう。

 かまくら春秋三首の題は「石が笑っている」。「石の笑い」がようやく歌にこなれて、方代のこころをとらえている。
ところが、歌碑の歌から二、三カ月経て見ると、「降りて来たる時」の「時」の切れが決まらないことに気づいた。不安定なのだ。
ここが細くなっている。それで「・」を入れて補強し、しっかりと切れるようにしなければならなかった。これで説明的な調子をやや免れ、「石の笑い」がいくらか前面に出てきたようだ。

 そうしてまたさらに二ヶ月後、「来たる時」の間延びが「ゆくりなく」に置き換えられた。
しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ――ついに歌は軽やかに飛翔する。
これはすばらしい歌の飛躍である。次元を異にする歌となった。

 「ゆくりなく」は、「ゆくりなし」の連用形で、不意に・思いがけなくという意味の古語。現代人が使うと気取りが鼻につくことの多い語だが、この歌ではぴたりと決まった。「しののめの」とよく調和する。

 まるで風のたましいが空を滑って降りてきたようだ。
天界のものとも下界のものともつかず、どちらをも自由に行き来できるようなそんなものが、軽やかに透明にすうっと降(くだ)ったとき、くすくす、くすくすと石が笑うのを小耳にはさんだ。
石はうれしいのである。
しののめの下界に滑り降りてきたものを知って。

   
                           『牙』2010.3初出

方代散策――『迦葉』を読む(2)2010/05/29 20:31

 
(石の笑い補記1

 「石の笑い」という語の初めて現れた、昭和三十四年作


 沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり


は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のほか、〈坂越えて急ぐひとりの方代の涙を月は見たであろうか〉〈誤って生まれ来にけりからす猫の見る夢はみな黒かりにけり〉のような、いわば涙のなかに嵌め込まれた「石の笑い」であった。

 交友のふかかった岡部桂一郎氏はこの時期の方代を、「生きるための暮しにふかい行き詰まりと絶望を感じていた。一日も早く(この世を)終りたいというのは方代のカッコよさをねらったものではなく、実は彼の本音だったのだ」(『山崎方代追悼・研究』不識書院)と書く。

この時期の「石の笑い」という語がいくばくこわばってこなれないのに比べて、〈しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ〉とうたう『迦葉』の時代、こんなにも屈託無いたのしい「石の笑い」を成就できたのは、晩年の生活がそれなりに功成り名を遂げ、心に余裕のできた反映だろうと、わたしたちは納得しがちである。

そうではない。そう解釈してしまっては、すべては生活の如意不如意が歌を決めていくという論法に陥り、どうにもならない。不如意な生活が意を得るやたちまち精神がぶよぶよになって堕し、増長し、歌を駄目にしてしまうのが、通常人だ。方代の足元にも罠は口をひらいていただろう。そこを賢明にも避け得て、『迦葉』の「石の笑い」の屈託ない世界が成就した。創作者としての厳しい闘いがそこにはあった。


  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ


は、『迦葉』のなかでも指折りのすばらしい歌だが、この透明な笑いを、晩年生活のそれなりの如意の結果と解することは、この歌をどぶ泥につっこむことである。以上、あえて補注しておく。)


(石の笑い補記2

 大下一真著『山崎方代のうた』によれば、没後、故郷中道町に中道町民芸館が建てられ、その玄関脇に〈桑の実が熟れてゐる/石が笑ってゐる/七覚川がつぶやいてゐる〉という方代の碑があるという。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉の類型。故郷の景にかかわる「石の笑い」という発想を方代は気に入っていた。右歌は、全歌集には収録がない。)




 三.キリスト様


    はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ



 初出は、『うた』昭和五十六年一月。その直前、『短歌現代』昭和五十五年十一月号にはつぎのような歌がある。


    はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ


 断然「キリスト様だ」のほうが優れている。歌そのものの次元が異なっている。

 「顔いっぱいがキリスト様だ」とうたいきってわたしの目に浮かぶのは、かつて学生時代に映画『デカメロン』で見た中世農民の日に焼けた皺だらけの顔である。乱杭の歯っ欠けの口をにっと開いて笑う大写しの顔は、無類の無邪気さを現していた。「キリスト様」というのに、どうしてあの西欧中世農民の顔が思い浮かぶのか。

 この歌は、自分〈われ〉が無花果を食べているとも、誰かが食べているとも受け取れる。自分〈われ〉の「顔いっぱいがキリスト様」のようだと受け取っていいが、それでも読み終わって見えてくるのは、ひとりの日に焼けた皺だらけの無邪気な農夫の顔いっぱいの笑いなのだ。

 一方、『短歌現代』に発表した〈はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ〉では「食べおると」だから、自分〈われ〉が食べていると、という意味でしかない。掲出歌は二句切れにして、歌が説明をまぬがれ、飛躍した。自分のことであり、他の誰彼のことでもあるという、普遍性を獲得できた。

 「鼻のようだよ」が、無花果と関連深い「キリスト様だ」となったことによる飛躍は、これまた言うまでもない。

 無花果は小アジア原産、パレスチナには早くから移植された重要な果樹であり、旧約聖書新約聖書ともにしばしば現れること、方代はかすかにでも知っていたということになる。

 イエスが空腹を覚えとき遠くから無花果の繁った葉を見て近づいたが、実りの季節ではなく、実がついてなかった。それでこの木に向かって「今から後いつまでもおまえの実を食べる者がないように」と言ったと、マルコ伝には記す。方代は、こんな寓話も知っていたのだろうか。方代の歌は、そのとき空腹を覚えた者と、はじけるまでに実りの季節を迎えた無花果と、出会いの時の合致した幸福を思うぞんぶんに讃えている。




   四、末成り南瓜


      胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような老人である




 初出は『うた』昭和五十六年四月号だが、これも二カ月前の『かまくら春秋』に次のような似た歌がある。


      どっしりと胡座の上に身をのせて六十五才の春を迎えり


 この改作の方向も、さきの「キリスト様」の歌と似ている。どっしりと胡座の脚のうえに身をのせているわたしは六十五才の春を迎えたよ――こちらは、そう、〈われ〉が叙べている歌だ。ところが、先の掲出歌では、文人画とも挿絵とも漫画ともつかないような老人の姿がはっきりと見えてくる。その姿は、〈われ〉でもあり、他でもある。

 「胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような」、すこしひねた末成り南瓜のようなものが、胡座の膝のうえに乗っている。「乗っておるのは」という言い方は、外側から見るかたちをしめす。胡座の膝のうえに乗っているのは末成り南瓜のような・・・さて、ここで普通に語を続けるなら、末成りの南瓜のような顔、末成りの南瓜のような頭、こうなるところ。「老人である」とは、けっして続かない。「胡座の上に乗っているのは」-「老人である」と繋がることになって、おかしいからだ。

 ところが、「老人である」と繋げて、じっさいにこの歌から思い浮かぶのは、老い屈まった老人の、ひねた末成り南瓜のような大きな顔が、胡座のうえにのっかっている姿である。「胡座の上に乗っているのは」-「末成りの南瓜のような」-「老人である」という、この語順に若干のひずみがある。それがこの歌にどこか舌足らずな面白みをかもし出してもいる。

 おそらく、作歌時におけるこの歌の呼吸は、「末成りの南瓜のような」で切れている。四句で一呼吸おき、飛躍して、結句「老人である」と一首を大きく包含した。結句で大きくくるみとってこそ、水墨画のような稚純な老人の姿をそこに現出させ得たのである。

 こうして、〈われ〉の歌としての「六十五才の春を迎えり」の自画像の域を脱する、歌の普遍性が生まれ出た。

 山崎方代という、特殊なうえにも特殊な生き方をしてきた歌人のの歌が、特殊な人生をたどった者の一独白、一物語に終らず、大きな普遍性を獲得しているのは、このような創作者としての苦闘があったからだと、いまさらながら思い知る。




   五、一粒の卵


     一粒の卵のような一日をわがふところに温めている




 『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。


     短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ


 卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩。

 ところが、「一粒の卵のような一日」とここから始まると、「卵」から鳥の抱卵を連想して「わがふところに温めている」となる。「温めている」で、にっこりほっこりしている歌の姿が現れ出る。こんな一日だったよと叙べる歌が、抱卵の鳥なのか〈われ〉なのかといった歌に変ずる。

 こうして並べると、いかにもやすやすとこの改作が現れ出たかのように見えるけれど、くるっと扉をひらくような一飛躍が必要だったのではあるまいかと、同じ作者としては思わずにはいられない。




   六、石から石へ


     両の手を空へかかげて川べりの石から石へはばたいていた




 この歌は、先に掲げた「石の笑い」の歌群をただちに連想させる。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉ような、石ころだらけの川べりでここはあるに違いない。

 頭のでっかちな老人が両手をぱたぱたさせながら、石から石へかろやかに、笑いながら、足を掲げて飛んでいる姿が目に見えるようだ。クレパス画のような描線で、絵本の絵のようでも、漫画のようでもある。こっけいみがある。

 「両の手」とはすなわち鳥の翼の比喩にもなる。一首はここを翼と言わなかっただけのこと、翼をかかげて川べりの石から石へはばたいていたという、鳥の歌とも言える。ところが、歌に見えてくる姿は、どうしても鳥ではない。頭がちな老人が両手をぱたぱたさせて飛んでいる姿しか、見えてこない。それを不思議に思うのだ。

 「はばたいていた」――物語るかたちである。わたしは昔そうしていたよ、というのか、そういう場面を見たよ、というのか。



    柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる



 これも、鳥とも人とも定まらない歌であった。「キリスト様」の歌と同じ連作中にある一首。

 子どもの頃、柿の木や枇杷の木、ぐみの木などにのぼって、熟れた実を取って食べては、樹上から種を吐き捨てたものだ。そういう記憶が蘇って、樹上にいるのは人だとまず思う。ところが、ここでは「梢」である。「梢に止」ることのできるのは鳥だろう。さて、鳥かと思えば、嘴ではなく「口から種を吹き出」す。

 「石から石へ」の歌も同様だが、鳥を擬人化したのでもなく、人を鳥に喩えたのでもない。比喩の技法におさまりきらないところが、じつにおもしろい。鳥でもあり、人でもある。どちらでもあるような姿が、「石から石へ」の歌でははっきりとまなうらに描ける。


 
    柿の木の梢(うれ)から落ちてたっぷりと浮世の夢を味わいにけり



 こんな歌も、「石から石へ」の直前にはあった。「石の笑い」の初案〈しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ〉と類想だろう。翼を持つ者、飛ぶことのできる者が、誤ってどじを踏んで地上におっこちる。石はそれを見てくすくす笑うのだし、柿の木から落ちたものは、罰として浮世の辛酸もふくんだ夢をたっぷりと味わうことになる。



 
   七、天秤棒


     食いこめる天秤棒を右肩へぐるりとうつす力がほしい




 子どもの頃、行商のおじさんは天秤棒を担いで家々を巡っていた。前と後ろに振り分けた荷物の重みで天秤棒がしなうのを、ぐあいよく拍子をとって歩く。ニコヨンで土を運ぶもっこ担ぎもそんなふうだったし、汲み取り式便所の肥をはこぶのも天秤棒だった。

 「ぐるりとうつす力がほしい」――ぐるりとうつすときに「力」がいるものかどうか知らない。しかし、外から見ていても、ゆさゆさと揺れる荷物としなう天秤棒と、腰からリズムをとってひょいひょいと歩きながら、ときにぐるりと肩を移すあの姿は、かろやかなものである。労働のリズムというものがそこにはある。

 肩に食い込む重荷も、労働のリズムにかろやかに乗るとき何の苦も感じないでいられるのだ。



                                   (「牙」2010.6)