寂しかりけり ――玉城徹の晩年の歌2010/12/17 14:31

  草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に



  暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日



                  「歳末歳首雑吟」『左岸だより』第六十九回
                           二〇一〇年三月十九日発行




 この「歳末歳首雑吟」十四首が、玉城徹の最後の発表歌ということになろうか。『左岸だより』は、主宰誌『うた』解散後、歌壇のごく少数の人々に「私信がわり」に送った玉城徹の個人的なペーパーのようなものである。第七十回を四月二十八日に発行したものが、最後となった。

 二〇〇八年梅雨の頃、玉城は沼津市西島町から静岡市の老人ホームに移る。従来、一年前に作った歌を出すようにしてきたというが、七月十六日発行第四十九回から二〇〇九年六月五日発行第六十二回まで、西島町にあって作った歌を発表し尽くしてのち、『左岸だより』に玉城徹の歌は見られなくなった。


「窓の前には、安倍川の堤が立ち塞がって、広い眺望が得られないのには困ってしまう。わたしが住むのは二階である。堤上の道の方が、ここより上に見えるのは、ここが低地だからであろう。」
                         (『左岸だより』第六十回後記)

「堤の上は、舗装されて二車線の道がある。車が往き来する。晴れた日には、車の反射がきらりと一瞬部屋の中へ差しこむ」「わたしは、一首も歌が作れない。その原因は、多分、自然との活きた交感が遮断されているからだろう。」
                          (『左岸だより』第六十一回後記)



 歌のない『左岸だより』が続いた。ところが、今年三月、わずか八頁にすぎなかったが、「歳末歳首雑吟」十四首を掲載する第六十九号が届いた。ホームで作った初めての歌ということになる。ひさしぶりに満ち足らう思いをして読んだが、なかでも掲出二首には胸をつかれるようであった。

「寂しかりけり」「この寂しさよ」という語には、思わず人をして駆け寄らしめるような響きがこもっている。窓の前に立ち塞がった阿倍川の堤の、その索漠たる風景がどんなに精神を苦しめるものであったか、伝わってくるようであった。

 さらに、歌の内容はそれだけではない。人の世のすべてが手元から去ってうつろになってしまった、という嘆きの声が聞こえた。人の世を愛憐して切に求めてやまぬ声が、時間と空間を越えた遠いところから聞こえた。



  うき我をさびしがらせよかんこどり    芭蕉



 「うし」とは、物事が思いのままにならず、厭わしく不愉快に思うこと。「さびし」とは、本来備わっているはずのものが欠けていて満たされない気持、もとの望ましい状態を求めようとする気持をいう。

「うき我」とは、つくづく世を厭うて遠ざけたいおのれの自覚である。人間(じんかん)の事は何もかもが不愉快であり、俗塵から離れてひとり籠もっていたい気持である。そういうわたしの心の向きを変えてさびしがらせてくれよ、かんこどりよ。人の世から遠ざかっていることが物足りなくて、人の世を求めてやまぬ、そういう気持にさせてくれよ――。芭蕉の句は、そういう。

古来、厭世を言う者は多い。まことに同感せずにはおれないが、しかし、それを越えて、「うし」ではなく「さびし」の境にこそ、人というもののありようがある――。そう、芭蕉はいうのである。

 この句は、元禄二年には結句が「秋の寺」であった。二年後、「かんこどり」と改める。遁世の場所である「寺」から「かんこどり=閑古鳥」への改作は、句の力点を「うし」から「さびし」「閑寂」の境へとおしひろげよう。

 このような芭蕉の「さびし」の世界があって、ここに玉城徹の「寂しかりけり」「この寂しさよ」の歌がある。

 最後の歌集となった『石榴が二つ』(二〇〇七年五月刊)には、「さびし」という語をつかった歌は七首を数える。もともと感情語の多い作者ではない。七首の「さびし」は突出しており、つぎに多い「恋し」の語とともに、この晩年の歌集を特徴づける。「恋し」とは、時間空間を遠くはなれた、ある対象を求める気持をいう。異性に限らないが、エロスの揺曳する語である。
以下、「さびし」の歌七首の用法をひとつずつ見ていこう。


 
  凝る雲の白のかがやき
   ほがらかに寂しきそらに
  かがやきの白を置きたり
  見つつわれ思ふともなし
  東門 西門 南門 北門
         
                    「雲 長歌並びに反歌一首」『石榴が二つ』



 長歌「雲」の第一節。青い空虚なそら、満つるもののないそら。その寂しさは、しかし「ほがらか」である。一つ、二つ、凝る白雲のかがやきによって、そらの空虚は寂しくも満たされている。反歌は〈住み古りて人の世うれし歩み出で端山(はやま)のあかきもみぢに向かふ〉。端っこではあっても、なお「人の世」の中にあって「住み古りて」いる。たしかにそう感じられるところからくる「ほがらか」さが、「寂しきそら」にながれている。



  道の辻家むらのそらの寂しけれ青くかたむく宝永火口



 「歳晩日日」より。これも「そら」の空虚のもたらす寂しさである。地上にごちゃごちゃと詰む家むらと、そのうえのそらの空虚さ。富士の山の宝永火口がくっきりと青く遠くに見える。



   吹き靡く街の青葉やわが心寂しと言はむのみにもあらず
 

   吹き入れて風ひえびえと五月なり金の憂へをここに呼ぶべく



 「五月」より。吹き靡く街の青葉よ、吹かれつつ歩くわたしの心を見てみれば、寂しいと言おうとするだけではない――。そう、歌はいう。では、寂しさのほかに何があるのか? 

言うまでもなく、「うき我をさびしがらせよかんこどり」が背後にながれているだろう。人の世にあって「憂し」という思いにとりつかれないではいない。不愉快なことばかりである。「わが心寂しと言はむのみにもあらず」、どうしても憂いの影が添わずにはいない。
しかしながら、厭世に嵌り込んでしまってはおしまいだ。だからこそ、「金の憂(うれ)へ」を呼び出そうとする。不満やくるしみがどす黒くてはいけない。あたかも白秋『桐の花』を思わせるような、はなやかな五月の「金の憂(うれ)へ」がそこに呼び出される。



  蝉のときはや終はりぬと部屋にわがひとり思へば寂しくもあるか



 「戸田みなと」より。しきりに鳴いていた蝉も絶え、いのちさかんな夏の季節が過ぎ去ろうとしている。過ぎ去った生気と活気にあふれた時節を思うと、いまさらにその欠けた虚しさを思うのである。「寂しくもあるか」は、季節の過ぎ去る気分的な感傷をいうのではない。過ぎ去ったのちの、どうしようもない虚ろの物足りなさのかたちがとりだされる。
 


  みんなみに満ちくるくもり伊豆の嶺の隠ろふ今日の心さびしも



 「窓に見る老人」より。「伊豆の嶺」を南から満ちてくる雲が隠してしまった。いつも見えていたものが、見えない。「心さびしも」という欠如をなげく感情が、そこに動く。



  港べは今年は早く草刈ればゑのころの穂を見ずてさびしき



 「残暑」より。毎年、秋口の港べに散歩にくると、一区画に雑草のしげっているのを見た。ところが、今年は草刈りを早くしたものか、さっぱりとしてしまって、あちこちを向いて揺れるえのころ草の穂を見なかった。あるはずのえのころ草の穂の無いのが寂しい。



  道のべに枯葉走りぬ楽しとも寂しともなくしばらくあはれ



 「白秋言」より。心が楽しさに満ちているとも、空虚で寂しいとも、いずれともない状態である。

 以上が、歌集『石榴が二つ』にあらわれた「寂し」の歌のすべてである。さらに、これよりのち、『左岸だより』第三十一回(二〇〇七年二月二十八日発行)には、つぎのような一首があった。「彫刻家飯田義国氏逝く。飯田氏はわが友、橋元四郎平氏の友人なり。悲しみて作れる歌」という詞書をもつ歌の二首目。さらに、第六十九号「歳末歳首雑吟」にはもう一首、「さびし」の古形「さぶし」を使った歌があった。



  義国のにはかに亡きに四郎平のさびしき心わが思ふかも
 

  貧しきが心さぶしく項垂(うなだ)るる心根も今うべなはむかな



このように、玉城徹の「寂し」は、たんに気分的な感傷をいうのではない。小環境において諸事情から生ずる一個の感傷を排出せんがための「さびしい」とは、まったく異なる。玉城徹という個人の「喉」を通しながら、歌はつねに「寂し」という語の淵源へ向かおうとしている。

 ふたたび、冒頭にかかげた「寂しかりけり」「この寂しさよ」二首、ここに改めて見てみよう。


  
  草枯れの堤を照らす日の光寂しかりけりわが眼(め)の前に
  

  暮れはてて風の音のみ窓に鳴るこの寂しさよ新年(にひどし)五日



これまでの歌の「さびし」の用例と異なるのは、過ぎ去った「蝉の時」や、あるべき「伊豆の嶺」「ゑのころの穂」など、欠如の対象が歌の上にあらわにされていないことである。

 眼の前には、草枯れの堤にしろじろと日が照っているばかり。ほかには何にもない。何という索漠たる風景。
 年改まって五日となるが、暮れはてた窓の外を風が鳴る音のみ。そのほかには何にも聞こえず何にも見えない。

 かつては人の世を「憂し」と感じないわけにはいかなかった。しばしば不快は襲い、怒りは来たり、厭わしい思いは去ろうとはしなかった。だが、もう、いまはいっさいが愛憐される。驕りたかぶるものも、卑小なものも、人の世のすべてに愛憐を覚えないではいられない。それほど、人の世は遠くなってしまったのである。

 老い果てた玉城徹という個人の喉を通して遠く果てしない彼方から「寂し」という語が響いてくる。人の世というものが根源にもっている寂しさが、耳に響いてくるかのようだ。



                            (『短歌現代』2010.9)

http://www4.ocn.ne.jp/~tanka/page027.html
短歌新聞社刊『左岸だより』8500円

茅野雅子「女の詩」・・・・詩歌のジェンダー2010/10/14 09:30

 与謝野晶子・山川登美子とともに「明星の三才媛」と言われた増田雅子は、同じ『明星』の歌人であった茅野蕭々と恋愛、結婚して茅野雅子となったのち、『青鞜』第二巻第一号(明治四五年一月号)に「女のうた」と題する次のような詩を寄せた。


    一
君はなほ夏の鳥の如く
楽しげに浅はかに歌ひ給へば、
我が苦しみも涙も
蒼白き頬も知るに由なからむ。

況して我が背負へる十字架を、
『子』といふ重き黒き荷を、
降りつもる雪を、赤き我が素足を、
如何で知り給はむ。
恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、
君は男にて我は女なれば。

実に恋は男に快楽を歌とのみ与ふれど
我等には尽きざる苦みと、子と、涙と、
それより生るる新しき真の大なる生命をもたらしぬ。女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。

     二
夕ぐれの心を如何に云ひ出でむ
この女のみ感じ得べき或ものを。

遠き地平に消えてゆく光の微動と
しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂を、
我等が細き皮膚ならで
何物かよくわかち得む。

また見えそむる星に、水の皺に、
我が長き黒髪に響き出づる
この妙なる歌を如何に云ひ出でむ。
あはれ夕ぐれのこころを。女の秘密を。

     三
言葉には云へざる故に黙すを、
なほ語れとせめ給ふや、

広く大なる世界より
我等が感ずるものは、
大方かく妙に細かければ
男も知る粗き言葉には云ひ難し。

あはれ君の女ならましかば。



 茅野雅子は、この詩で、<女の領土>ともいうべき場所を採り出している。それはまず、「苦しみ」「涙」「蒼白き頬」「『子』という黒き重き荷」に象徴されるような場所、男の永久に知らない、知ろうともしない、うち捨てられた場所だ。新しい天地を求めた恋の結末に、女はこのような苦い重い十字架を負わされるが、男はあさはかに夏の鳥のごとく歌い続けている。しかし、考えてもみよ、重い十字架を背負うものほどいっそう「新しき真の大なる生命」を生み出すことができるのだと、雅子は価値を逆転させ、男にうち捨てられた場所を<女の領土>化した。これまでのようにただ忍従するというのではなく、男より「大なる生命」を生み出す機会として、苦悩をすすんで引き受けようとする強い新しい女性像をうちだそうとした。
 この「女のうた」は、大正六年に刊行された『金沙集』に収められている。それを見ると、この詩の少し前に、



  あさはかの思ひなりけり男をばいな自らを頼みてしこと
  子の上と厨のことを思ふ外に命ひまなし浅くもあるかな



などを含む、「浅き心」六首が並ぶ。「男をばいな自らを頼」んで、ともに学び合う、新しい男女の生活が営めるものと結婚したが、それは「あさはか」なことであった、現実の女の生活は「子の上と厨のことを思ふ」ばかりで、命の浅い日々であると嘆く。「あさはか」な「浅い」存在は、歌では、女である自分の方なのだった。
 また、「浅き心」一連の次には、「見えぬ世界」と題する、次のような歌を含む六首が並ぶ。



  我等より見る天地の外をゆく星に等しと男をおもふ
  女には見えぬ世界に時ありて如何なれば君の行き給ふらむ
  夢にだに我れの見がたき国へゆく刹那の君の憎くもあるかな



 さらに、子の歌三首を含んで「女のみ感じ得べき或もの」の言語化を意図したかに思われる「五月」一三首を並べ、そして冒頭の詩「女のうた」が来るのである。


 これらは、明らかに同一主題による変奏といえよう。わたしたちは詩と歌と合わせて読むとき、雅子の採り出そうとした<女の領土>の輪郭をいっそう明確にたどることができる。


 それはまず第一に、現実生活における女の、その周縁化されたあり方を暴き出そうとするものであった。女にも同等の精神を認めようとする男と<恋愛>し、新しい男女の生活を夢見て結婚したはずの女が、いよいよ現実生活に入れば、いかに社会のジェンダー規範という罠に陥って、締めつけられ、周縁化され、苦しまざるを得なかったか。なかでも「『子』という重き黒き荷」は、当時にあっては女のみに課された、女の逃れられない宿命と感ぜられた。


 じつは、雅子の詩「女のうた」の四カ月前、同じ『青鞜』創刊号(明治四四年九月)巻頭に掲載された与謝野晶子の詩「そぞろごと」一連にも、そのような女の苦しみは充分に表現されている。「山の動く日来る」という高らかな言揚げで始まる「そぞろごと」一連の詩が、現実に直面して憔悴した「青白き我顔」のイメージで締め括られていることは、よく知られている。類似の語句と発想のある雅子の詩「女のうた」は、四か月後という時期から考えても、同じように現実生活に女として苦しんでいるものからの、いわば返し歌であったともいえよう。


 晶子の「そぞろごと」一連の詩は、眠りから目覚め、理想に燃えて出発したはずであった女が、やがて現実をまえに破れ去る理想の惨憺たるありさまを描きだして迫力がある。実世界の前に必ず想世界は破れるといった北村透谷を思わせるような晶子の詩は、男のみならず、女にとっても現実の前に理想は破れるのだと告げる。それは、いま理想を掲げて船出したばかりの若い世代平塚らいてうらに対する、教訓めいた意味合いさえ感じ取れないこともない。


 しかし、雅子の詩は少し違った。雅子の詩は、晶子に応えるかのように、その惨憺たる女の現実を受容する強さを持って、なおかつそこから理想へと踏み出そう、理想を失うまいと呼びかけた。


 さらに、もう一つ、この詩の大きなポイントは「恐らく永久に知り給はじ知らむともし給はじ、/君は男にて我は女なれば。」というところ、『金沙集』の歌をも援用すれば、「女には見えぬ世界」があるということを採り出したところにある。


 社会に周縁化された<女>という場所からは、男の住む広大な世界は決して見通すことはできず、もちろん渡っていくこともできず、女の「天地の外」の隔絶した世界であるということを、雅子の詩と歌とは告げる。周縁化された場所から、中心へは決して視線は届かないのであった。また、そのような周縁化された場所に生まれる思いは、中心たる場所からは永久に知られず、知ろうとさえもされず、うち捨てられた場所なのである。雅子の詩と歌は、このような社会に周縁化された場所に立って、そこからの遠近法=ものの見え方を採り出し、非対称な<女>と<男>の関係を採り出した。現実生活を生きる女の場から、ジェンダー構造をつかみ出したといっていいのである。


 では、さらに具体的に「女のうた」に即しつつ、見ていってみよう。まず、第一連では、右に述べたように、この周縁化され、うち捨てられた苦悩の深い<女>の場所を、キリスト教の教えを借りつつ価値を逆転させる。むしろ、あえてそこを「新しき真の大なる生命」を生み出すことのできる場所として<女の領土>化する。そして、「女こそ、ああ、恋を讃ぜめ。」と、なお<恋愛>を讚える。 しかし、現実には、この価値の逆転はいかにも危ういだろう。雅子自身、「浅きこころ」六首にもうたったように、現実を前に敗北寸前なのであった。


 ところが、「女のうた」の第二連では、「女のみ感じ得べき或もの」があると、ジェンダーではなく、セックス(生物学的性差)に基づいた<女の特性>を展開する。女は、男よりはるかに「細き皮膚」を持っているので、「夕ぐれの心」「遠き地平に消えてゆく光の微動」「しめれる土より、沼より湧き出づる靄の匂」「見えそむる星に、水の皺に、我が長き黒髪に響き出づる/この妙なる歌」を感じ分けることができる、という。


 じつは、晶子の「そぞろごと」一連中にも、「われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を」「愁ふるは、若し粗忽なる男の手に砕け去らば。ーー」というように、<女の特性>を繊細で脆く、<男の特性>を粗忽とする詩句は見えていたが、雅子はそれをいっそう組織的に展開した。


 このような生物学的性差に基づく特性の称揚は、あたかも負け惜しみであるかのような周縁化されたジェンダーとしての<女>の場所からの価値逆転より、男の身体を持つものに対して、いっそう対等たり得る価値の根拠を<女の領土>に与えるように見える。


 それにしても、雅子がここで「女のみ感じ得べき或もの」として列挙したものの、何としめやかでおぼろでこまやかで〃女らしい〃ことか。ほんの四カ月前、『青鞜』創刊号には、与謝野晶子の「山の動く日来る」という堂々たる女性覚醒の宣言があり、また平塚らいてうは「元始、女性はじつに太陽であつた、真正の人であつた、いま、女性は月である」と、これまでの月としての女性像を否定して、赫赫たる太陽としての女性像を掲げたのであった。従来の〃女らしさ〃を否定する〃新しい女〃というイメージにぴったりの、これらの女性像の力強さに比べて、雅子の「夕ぐれの心」「星」「水」「黒髪」に象徴される女性像は、あまりにも〃女らしい〃。しかし、雅子は、これをあえて対置した。


 のみならず、目覚ましいことには、第三連でこれを「言葉」の問題へと転化させたのである。「言葉には云へざる故に黙すを、なほ語れとせめ給ふや」「男も知る粗き言葉には云ひ難し」ーー「細き皮膚」の感じ得る「微動」や「匂」を言い表す<女の言葉>はいまだない。「男も知る粗き言葉」ーーすなわち男の耳にも届くような「粗き言葉」では言い表せない。だから、女はしばしば沈黙せざるを得ないという。


 こうして、雅子の「女のうた」は、現実社会を生きる女として周縁化された場所に立たされながら、なおかつそこを領域化すべく、<女の特性>の根拠を女の身体に求め、その感受のゆたけさがいまだ認知されないのはそれを現わす<女の言葉>が無いからなのだという地点にまでいたる。


 しかし、雅子がいう「夕ぐれの心」から生まれるような、おぼろかな「光の微動」やしめやかな「匂」や、繊細なかすかな<女の言葉>は、本当にいままで存在しなかったのか。歴史文化を振り返るなら、日本的と称されるものには、しばしばこのような徴がついていたのではなかったか。


 たとえば、北原白秋は、『創作』明治四三年六月号の「桐の花とカステラ」で、「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精である」と述べ、さらに次のように書いている。




私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤が私のこころの小さい古宝玉の緑であり一弦琴の瀟洒な啜り泣である。

  


 さらに、「なんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしい」「私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい」とも述べる。白秋は、日本の古い歌を、西欧のオーケストラや油絵に匹敵するようなものへと近代化しようとするあまり、「一箇の小さな緑の古宝玉」たる歌に過重な負担を担わせがちな当時の幾多の試みに反論して、このように言うのであった。それも、たんに歌を古いままに墨守していこうというのではない。右に引いたエッセイ「桐の花とカステラ」の文章だけを見ても歴然とするように、カステラをはじめとして、吹笛・西洋料理店・フラスコ・アレンヂメント・タッチ・フレッシュなどなど、ひんぱんに片仮名語を混ぜ合わせながら、あたかも異邦人が日本の古い歌を初めて発見したかのような視線をもって、その小さなかすかな美しさを讚え、その美を損なう過重な近代化を戒めるのである。これは白秋だけのことではない。白秋が属した『パンの会』のような、いわば文学の科学的近代化ともいうべき自然主義思潮に抗して、そういう一つの流れが当時あった。


 同じ新詩社の歌人である茅野雅子には、このような白秋たちの流れは共感しやすかっただろうし、また当時新進気鋭の詩人でもあった白秋のエッセイ「桐の花とカステラ」は必ずや読んでいたはずである。雅子が、晶子やらいてうの堂々たる「山」や赫赫たる「太陽」に象徴される、白昼の光のもとに立つ新しく力強い女性像を排して、いかにも〃女らしい〃ほのかな繊細な「夕ぐれの心」を対置したのは、このような白秋たちへの共感があったことはまちがいないだろう。さらに、雅子自身の国文科(日本女子大学)に学んだ経歴も、そこには関わっていたかもしれない。 


 雅子は、「星」や「水」や「黒髪」に象徴される「女の秘密」=女の美を、白秋のように異邦人の視線をもって(ということは、つまり<男>の視線をもってということにほかならないのであるが)、再発見しようとしたといえよう。王朝時代から「男手」「女手」「男文字」「女文字」といった対語のある日本では、このような〃女の美〃の提出の仕方は理解されやすく、説得力あるものである。 ところが、雅子が掲げるような、ほのかなしめやかな繊細な美は、歴史を振り返ればすぐわかるように、とくに実体としての女のみが担ってきたというわけのものではない。男である白秋も日本の古い歌に「空気の微動」「寂しい湿潤」「微かな月光」「陰影」を求めるように、<女性性>としての日本の美を求めるものは、とくに実体としての女である必要はない。だから、それらは、現実の周縁化された<女>という場所にあるものの存在証明にはならない。


 だからこそ、雅子は、現実に周縁化された場所で苦しんでいる女として、この文化の上での〃女らしさ〃(=女性性)を、女の身体を根拠として、実体としての女の上に奪回しなければならなかったのである。雅子には、実体としての女だけが放つことのできる「言葉」、女の身体にのみ根拠づけられた「言葉」、すなわち<女の言葉>がぜひとも必要だったのだ。それゆえ、現実における<女の言葉>の不在を論理的な帰結とせざるを得なかったけれども。


 現代のわたしたちはもはや、「細き皮膚」に象徴される女の身体を根拠に、「女のみ感じ得べき或もの」があり、それは夕ぐれの「光の微動」や、湿った「靄の匂」や、「星」や「水」や「黒髪」から生まれる歌のような、いわゆる〃女の感受性〃〃女の感覚〃といったようなものがあるとは、ほとんど信じない。あるように思われるとすれば、それはそのような感じ方の累積が、象徴体系のなかに組み込まれてジェンダー化されているのだ、といった方が正しいだろう。


 たとえば、漢詩vs和歌というときの和歌に代表されるような、小さなもの、優美なもの、繊細なもの、おぼろかなものを愛するといった特徴を持つ日本の文化を、<女>として比喩することに、わたしたちは耳馴れている。だが、ここに見る文化の上でのジェンダーと、たとえば明治という時代における社会規範としてのジェンダーとは、似て非なるものであることを、わたしたちはよく承知しておかなければなるまい。


 茅野雅子の詩と歌とが採り出したように、社会に周縁化された<女>という場所は、中心=<男>を成立せしめるためには無くてはならぬ下支えであるが、忘れられてよい、うち捨てられた場所なのであった。しかも、<女>という場所からは、<男>の世界はまったく見通すことのできない「見えぬ世界」である。


 一方、先進的な中国大陸文化に対する、あるいは西欧文化に対する自文化の特性を、みずから<女>としてジェンダー化するとき、この<女>は、中心たる中国大陸文化ないし西欧文化の無言の下支えであろうとするのではない。ここにおける<女>は無関心にうち捨てられるどころか、たとえば先の白秋の主張にも見るように、いつの時代にもつねに男たちにとって問題の一焦点であってきた。ここに、中心ー周縁の関係は無い。むしろ、彼らは<女>でもあり得る<男>として、先進文化たる<男>に対して差異化をはかり、たがいに対等な関係であろうと志向している。 茅野雅子の詩「女のうた」は、この二つの似て非なるジェンダーを、実体としての女の立場から直結させようとした。周縁化に屈しない新しい時代を生きる女として、女の身体を根拠に、新しい視線で〃女らしさ〃を再発見する歌、そのようなものを希求しようとしたのであった。


 だが、そんなことは可能なのか。




浅みどり遠き世界の消息を秘むるが如き森に来しかな
匂やかにかはせみ色の羅の中に我がある如し初夏の森
植木屋の小さく刻む鋏より真珠ちるかと耳立つる朝



 
 詩「女のうた」の直前に配された「五月」一三首より。『金沙集』全体に白秋の影響濃く、ここにもそれが見られる。「女のみが感じ得る或るもの」を言い表そうとするとき、男である白秋の影響を受けざるを得ないことの矛盾はさておくとしても、エッセイ「桐の花とカステラ」で言揚げした白秋が見事に歌集『桐の花』の歌へと脱皮していったようには、これらの歌はうまくいっていない。


 『桐の花』における白秋は、異邦人の視線をもって、それまでの日本の古い歌にまつわりついていたぬめりを洗い流すことができた。つまり、オリエンタリズム(サイード)を構成する西欧的主体の視線を模擬することによって、日本的なるものの自己否定と肯定とができた。だが、雅子の歌に、それはない。むしろ、「匂やかに」だの「真珠散るかと」だの、いわゆる固定観念としての〃女らしさ〃に全面的に自己同一化してしまっている。 これは、根本的には、雅子の才能にのみ帰せられる問題ではないのではないか。実体としての女(周縁化された客体)は、白秋のなし遂げたような西欧的主体(男=中心的主体)の視線を模擬して、自らを主体化することはほとんど不可能だということの証左ではあるまいか。<女>が<男>の視線を模擬するとき、<女>は、その内面化した視線によって自らをもう一度客体化する。雅子は、内なる<男>の視線によって、固定観念としての〃女らしさ〃にいっそう自己同一化してしまう。


 じつは、わたしは、この稿を書くために、いくつか近・現代詩史に類するものをひらいてみた。詩は、日本の伝統的な詩型である短歌や俳句に対して生まれた形式であり、ことに近代詩から現代詩へとわたる過程に「短歌的抒情」なるものを否定してきた経緯を持つが、わたしはあらためて詩が、日本的なるものあるいは〃女らしさ〃から遠ざかろうと一貫して努めてきたものであることを確認した また、<女性性>のみならず女性そのものをも排除してきたことを、中島美幸は、アンソロジー『日本の詩101年』(新潮社、一九九〇年)に採用された女性の詩の数が一割しかなく、しかも戦後女性詩人を全否定した選びを指摘して批判しているが(「女性の詩意識をめぐる現在ーー『戦後女性詩人』再考ーー」、一九九二)、そのとおりであろう。 しかし、わたしはまた、同アンソロジーでの辻井喬・平出隆対談「百年の詩史の光景」で、〃観念としての女性性復活〃が希望されていることに注目する。これは、一貫して<女性性>なるものから遠ざかろうとしてきた詩形式としては、当然起こって来るべき反省であり、欲求である。


 しかし、ここに茅野雅子の歌と詩に見たように、いまだ<女>という周縁化された場所から脱し切らない他ならぬ女であるものには、このような<女性性>なるものへの、何ら手続きなしの回帰は、自縄自縛に陥るも等しいことになろう。




              (『国文学 解釈と教材の研究』第47巻1号、学燈社。2002年1月)

あれは詩じゃない (『星雲』2008.5)2008/04/30 00:24

おそらく十六、七年ぶりにもなるのだろうか、詩人の井坂洋子さんと池袋で会って、食事をした。

待ち合わせた芸術劇場二階喫茶店の扉にあと数歩というところで、大きな白いマスクをして出てきたのが井坂さんである。なつかしいという思いが湧く。お互いの手をあげて挨拶をかわし、連れだって下りのエレベーターに乗った。考えてみると直接会ったのはこれが二度目なのだ。

初めて会ったのも、ここ池袋だった。イタリアレストランでワインを飲んだことを覚えている。『未来』のための原稿依頼をしてあって、それを受け取りにうかがったのだ。

吹き抜けの空間を、エレベーターで下りながら、井坂さんは振り向いて夕食はどこがいいかとたずねる。

――お豆腐料理でいい?
――あ、お豆腐、好きです。このごろお豆腐が好きになっちゃって。油ものは、もう・・。

井坂さんは、大きな白いマスクをはずした。風邪をひいたのと聞くと、暖かいからという。

芸術劇場を出、駅ビルの方へ歩き、エレベーターの箱に乗って、店と店のはざまを通り、奥まったところにあるお豆腐料理屋の暖簾をくぐる。
向かい合わせの席に坐りながら唐突に、あのとき阿木津さんが言ったことを、わたし、二つ覚えてるのよ、と言う。聞かせてもらったが、あまりたいしたことも言っていないことに面伏す思いで、ふたたび忘れてしまった。

わたしの記憶しているのは、ワインで酔っぱらったわたしのまえに、井坂さんのおだやかな笑顔があったということだけである。気持のよい距離から静かに見つめているような笑顔だった。

でも、そのときもらった原稿のことは、よく覚えている。詩にとって批評とは死体解剖みたいなもの、死体解剖にはたして意味があるのだろうかというようなことが書かれてあった。そののちしばらく、「死体解剖としての批評」ということが、おりふしの思いに浮かんで来た。

瓶ビールを一本だけとって、グラスに分け合ったが、井坂さんのグラスのビールはあまり減らない。背筋をぴんと伸ばした井坂さんの座高は、わたしより少し高い。手作り豆腐を木の匙で掬いながら、互いに過ぎてきた年月を確かめ合うように、詩の現在、歌の現在が話題になる。ふたりともすでに還暦近い年齢になってしまった。

じつは、こうして「還暦」という語を口にするのは、畏れ多いような、おそろしいような、とても真正面から向き合えないといった気持がわたしにはする。それに価するような歩みをしていないからだろう。

にも関わらず、確かに時は過ぎているのであって、かつての三十代女性詩人井坂洋子も三十代女性歌人阿木津英も、流れ去った時の感触をまさぐるようにしながら、その少しずつずれてきたものを語り出さずにはいられない。

――このあいだは、永瀬清子の地元で記念行事があるというので、講演依頼されて行ったのね。会場は満員だったんだけど・・・。

永瀬清子の詩を朗読するのが、NHKの有名な女性アナウンサーだったらしい。朗読が主で、みんなは朗読を聞きに来てたのよ、わたしは添え物だったわけ、と苦笑する。

自治体の「町興し」的感覚で行なう、昨今の行事の一つなのだった。
詩では、しばしば朗読が行なわれる。朗読をどう思うかと尋ねる。

――だって、詩で、いい朗読って聞いたことがないもの。あのアナウンサーの朗読も、朗読法にのっとったちゃんとしたもので、すごく上手なんだとは思うけど、あれで永瀬清子の詩がわかるのかしら。

胸の奥で、ふかく同感する。有名アナウンサーの朗読をたっぷり聞いて、詩を聞いたという満悦の笑みをあいまいに浮かべながら、会場を散ってゆく市民たち。郷土の詩人永瀬清子を知ってもらい、かつ市民の教養を高めるという目的を、エンターティンメント化した催しで見事に成功させた市役所職員数人の、誰彼に頭を下げては挨拶する紅潮した顔。
井坂さんは、中原中也賞の選考のために山口にも行ったそうだ。年若い受賞者のインタビュー記事が、そういえば新聞に出ていた。これまでの詩とは違って、ずいぶんビジュアル的なもので、あれはあれなりにセンスがいるのだろう、わたしにはとてもできないけれど、という。

現代詩は、あるときから比喩を捨てて身軽になった。そうした詩人だけがこれから生き延びていくのではないか。そう、今年の中原中也賞の選考をともにした高橋源一郎が言ったともいう。

暗喩は、現代詩にもっとも重要な技法であってきた。その暗喩の晦渋を振り捨てる傾向に、詩はあるらしい。詩誌専門雑誌の若い編集者が、可愛く無邪気に「井坂さんの今度の詩はよくわかりませんでした」と書いてくるのよと笑った。

――わたしももう少し、わかりやすく書いた方がいいのかしらね。

詩というものは一字一句に骨身を削るもの、余白に語らせるもの、という常識も崩れかかっているらしい。

話を聞きながら、そういえば詩の世界に、短歌の俵万智や、俳句の黛まどかのような存在は出現しただろうかと、思いを巡らす。適当な名が浮かばない。わかりやすくて、大衆に浸透するような詩という意味で、「あいだみつをのような詩は・・・」と口にした。

そのとき言下に「あれは詩じゃない」と井坂さんはさえぎった。
そう、確かに。「あれは詩じゃない」。こういう言葉をひさかたぶりに聞いた気がする。

「あれは歌じゃない」。一言のもとに斥けて話が終わる、そういう会話を、わたしもかつて何度も耳にしたことがあった。そういう会話を耳の底に残しながら、わたしは自分なりの「歌である」歌とはどういうものかという尺度を手探りし、歌を作ってきた。

歌じゃないものは、作れない。作りたくない。作ることに価値を感じない。

たぶん、わたしは作ることに関しては意識して頑固に守ってきた方だと思う。けれど、いつのまにか、この時の流れのなかで、「あれは歌じゃない」という言い方を他に向かって放てなくなっている。そういう言い方をすることを抑制し、封印しさえしている。

井坂さんの「あれは詩じゃない」という一語を聞いて、新鮮な風に打たれたように、そう思った。

三十一文字でさえあれば、あれも歌、これも歌、何デモアリ、の滔々たる現在の流れのなかで、「あれは歌じゃない」という言葉は無効になってしまった。あなたがいくらどんなに言ったって、マス・ジャーナリズムの認知があるでしょ。有名大歌人の認知だってあるでしょ。メイン・ストリートを闊歩しているでしょ。そんな声無き圧倒的力を前に、「あれは歌じゃない」という語にこもる呪文の力は失せてしまった。そのことは、誰もが知っている。

井坂さんの「あれは詩じゃない」という言葉を聞いたとき、その背後には「詩であるもの」の存在がなお確かにあることが感じられた。井坂さん個人の思いを保証する詩人たちの共同感覚が、まだそこでは崩壊しきってはいないのだ。

しかし、また、振り返って思えば、わたしたち短歌作者が「あれは歌じゃない」という言い方を抑制しているのも、たんに時勢におし流されているせいばかりではあるまい。

「あれは歌じゃない」という語を、護符のように振り回すことができなくなったときに初めて、それでは「歌」とはどういうものかという問に直面することになってしまった。わたしたちの誰もがその問のまえに立たされ、問題のあまりの大きさに呆然とし、やがて口をつぐむしかないことを思い知る。

頼りになる共同感覚が崩壊しさってしまったわたしたち短歌作者たちは、ひとりひとりが、素裸のままで、その大きな問に向きあわされているに等しいのだ。

わたしたちは、ひとりひとりが、その胸の中に「歌」とはどういうものなのかということを、問い返してゆかなくてはならない。何が、どのようなものが、自分にとっての「歌」なのか――。

E.H.ゴンブリッチの名著『美術の物語』序章冒頭には、「これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ」とある。

そう、これこそが「歌」というものが存在するわけではあるまい。歌は、日本語による特殊な歴史を負った特殊な詩形である。長い歴史の間には、これこそが「歌」と思われるものの変遷もあっただろう。

あるべき「歌」の定義が問題なのではなく、「作る人たちが存在するだけだ」。その「作る人たち」がどのように作ってきたのか、日々の、時々刻々の、その営為に刻みこまれたもの、それこそが知りたいことだ。

この辺境の地の片々たる一詩形を、ひとつひとつ実現してゆきつつ、「作る人」は何を思うのか。何を願うのか。

たとえば、売れなければならないしがない浮世絵師だった北斎は、どのようにして目先の人々に受けるばかりでない、あのような版画へ向かっていけたのだろう。江戸で俳諧師の仲間入りをした芭蕉が、どのようにして、何を求めて、あのような芭蕉になっていったのか。

「作る人」たちの日々の思いのなかに、もっと金を稼ぎたいとか、売れたいとか、名を知られたいとか、上から与えられる栄誉が欲しいとか、ライバルの名が高くなってゆくかげでの嫉妬とか、そんなものが全くまじりこまなかった、関係がなかったとは、とても思えない。しかしながら、それらに足を取られては右往左往し、身を溺れさせた者たちは、決してあの北斎や芭蕉のような仕事は成し遂げられなかったであろうということも、わたしたちは自明のように知っている。

何が、彼らを「そこ」へ引っ張っていくのか。

自分の仕事だ。自分の仕事だけが、向かうべき場所を教えてくれる。このごろのわたしは、そんなふうに考えてみる。暫定的な答である。

杜甫が、今のような杜甫として評価が定着するまでに三百年かかったという。三百年後、たとえ詩聖とあがめたてまつられようと、それが「作る人」杜甫にとって何の関係があろう。百年後の名声を期待するのは、只今の名声を期待するのと同じ根性でしかない。

「作る人」が、どのように「作る人」であり続けるのか、あり続けうるのか。そういう疑問が、おりふしにわたしの胸を去来する。

眼前の井坂さんは、御飯の上に刻み紫蘇漬けを乗せながら、少しずつ口に運んでいる。グラスには、泡を無くしたビールが、黄いろの液体となってしずまっている。

やや空虚になった食卓の埋め合わせをするかのように、井坂さんはバッグをひらいて、熊谷守一美術展のパンフレットや、熊谷守一美術館で買った絵はがきを取り出した。近くに住んでいるという。

守一の娘・榧さんは、わたしの知合いの友人でもあって、お会いしたことがある。面差しは忘却のかなただが、あの美術館のたたずまいははっきりと覚えている。そんなことどもをおしゃべりしながら、では、と言いそうになって、ふと気づく。

――あら、原稿いただいたかしら?

今回は、『あまだむ』にわたしの歌集評を御願いしたのだ。

――いえ、まだ。

ごめんなさい、こんなものしか書けなくて、というような意味のことを、呟くように言いながら、井坂さんは席を立つ。

その席の立ち際にわたしは、初めて会ったときもらった原稿に、批評は死体解剖のようなものだとあったことを覚えている、と告げた。立ち上がりながら、

――それも比喩を見つけたと思ったのね。

と、つまらないことのように言って、面を伏せ、話から身をそらす。

そうして、わたしたちは別れ、わたしは改札口の方へ歩き出した。井坂さんは、これからあの大きな白いマスクをかけて、家まで自転車を漕ぐのである。