短歌誌『桜狩』・・・浦崎真子による・・・・・2009/09/01 22:23

  
  産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか

                      阿木津 英『紫木蓮まで・風舌』(沖積舎、1985年)




 1985年新装本として発行された作者二十四歳から二十九歳までの作品を収めた歌集の中の一首である。これまでにも多くの読者に鑑賞されまた評されてきたと思う。初めてこの歌を読んだ時は、その力強さとスケールの大きさの中に阿木津英と言う作家の生きる事、歌を詠む事への強い意志が伝わってきて自分の背中を強く押されたような気がした。

 詠まれてから四半世紀以上が経ち世の中が変わり、複雑かつ先の見通す事の難しい今、この歌が私の胸に強く響いてくる。「ものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」と言う情景を思い描き、一人ひとりが両手を広げ、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んでそれぞれの世界を生み出して行けそうな気がする。

 最近のプログ「阿木津英の仕事」の中の「あれは詩じゃない」「文学魂」「文学魂と今の世の中」等にも、当時と変わらない毅然とした作者に会うことが出来る。

 その中で(「文学魂」は、野伏せり夜盗の精神にこそやどる)と谷川健一氏の言葉を引いて言い切る強さと、この歌集にある



  定点を見失いたる思いにて六月土のおもて光るも

  ああああと声に出だして追い払うさびしさはタイル磨きながらに



などに見られる一面をも持つ作家阿木津英に読者はこれからも惹かれて行くのだろう。


                   
                     (「秀歌鑑賞」(126)、『桜狩』2009.3・4月号、第130号)

短歌誌『玉ゆら』・・・小俣文子による・・・・2009/08/30 18:00

  
  中心のある形態に馴れて目はうつくしとこそ大噴水を
                       
                   (『巌のちから』阿木津 英歌集 短歌研究社)


 2000年から2003年3月までの作者五十代始めの第五歌集『巌のちから』は、雪舟の水墨画に向かい合っている時に生まれた言葉で、2003年その三十首により第三十九回短歌研究賞を受賞と『あとがき』に知る。



  地の芯のふかきを発し盛り上がる巌のちから抑へかねつも



 雪舟の絵のもつ力は、それを観ている作者をも触発し、身の内からの抑えがたいエネルギーとなったのだろうか。



  不語似無憂(いはざればうれひなきににる)と書くそのこころをぞ含むごとくす



 以前、私も東京国立博物館の一室にこの良寛の書が掛けられ、去りがたい気持ちであったことを思う。語(かた)らざればと読んでいたが、〈いはざれば・・・〉とルビをふる作者の"われ"という強い意志にふれたおもいがする。
 静と動、きびしくみつめる目、はげしさ。



  わが深き憎悪したたり落つるべし昏れゆくそらの層断ちたれば



 肩の力をぬけば、気付かなかったことが見えてくる。
「一二三」「いろは」の書を思うこの歌にも心ひかれる。



  白銀(しろがね)の線(すぢ)震ひつつやはらかく風ふくみたり良寛の字は



                    (「歌の本棚」、『玉ゆら』2009.冬号 第23号)

一ノ関忠人による・・・2008/12/15 15:00

 阿木津英の五冊目の歌集は、『巌のちから』。その前の『宇宙舞踏』からは十三年の間がある。この間に阿木津は仮名遣いを完全に旧仮名遣いに切り換えた。『宇宙舞踏』も、旧仮名遣いで統一されているが、歌の案出の段階から旧仮名になったのは、今度の歌集をもって初めてのことだという。

 阿木津は、フェミニズムの問題をはじめ苦闘している。苦闘に見えるのは、阿木津の抱える問題が大きいからだが、挑戦の姿勢は阿木津の文学営為の初発からである。

「近代」と呼んでしまうとあまりにも大づかみに思えるかもしれないが、阿木津の作歌や批評活動は「近代」の全貌をつかみ、それを相対化しようとする戦いに他ならない。この壮大なる難問に挑む歌人はそう多くない。短歌のうえで意識的にこの問題に挑んだのは、折口信夫(釈迢空)と玉城徹くらいのものではないか。勿論、茂吉や白秋も同じ問題に突き当たっている。しかし、それを論理化しなかった。阿木津は、その課題を引き受ける。それだけに戦いは苦戦を強いられる。十三年間歌集が出なかった理由の一つは、その戦いの大きさにもよる。


 ・日輪はたかく懸かれりみづうみの波間に焔ゆらめき立ちて

 ・かいつぶり鳴くこゑふくむ湖を春かぜをとめ揺らしやまずも


 この大柄で豊かな量感を感じさせる調べをもった二首は、阿木津の歌というだけでなく、近年の収穫と言っていいだろう。自然を捉えて、力感に溢れている。

  産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか

は、阿木津の初期の歌だが、この二首は、阿木津が苦闘の末につかんだ果実である。捉えた自然の大きさはそれに向き合う人間と対応している。自然に内包された人間存在の小ささに思いは及ぶものの、それを対象化した作者が大きく見えてくる。歌集名にもなったこの一連には、

  子を産まぬこと選び来つおのづからわが為すべきをなすがごとくに

という、「産むならば」の歌に対応した一首があって、この一連が現在の阿木津英だという表明だろう。

 この歌集の頂点には、こうした見事な短歌が並ぶいっぽうで、時代を反映した社会への鋭い批評が歌いこめられている。


 ・人間の空仰ぎしと言ひ出づる喜びの面うひうひしけれ

 ・家畜より成り上がれるが送り来つ個体識別番号付して

 ・身に火薬巻きつけて少女ゆく道をおもはざらめや照り返す日に


 「らい予防法」違憲判決に、国が控訴を断念。罪を認めたときの原告の言葉に反応した一首目。二首目はわれわれに与えられた個体識別番号への揶揄。そして三首目は自爆テロへの心寄せである。差別や新自由主義的な世界の動きへの批判が強く歌われる。

  キャベツの葉粗刻みして食らひをり昼曇りせるへやにしわれは

のように、逼迫した生活の反映かと思われる歌もあって、阿木津の現実存在の苦境がわかる。とはいえ、決してネガティブにはならない。ある種の雄々しさが歌集を貫いている。そて、なにより魅力的なのは、一首一首にゆったりとした時間が流れていることである。文語ならではの、豊饒がここにある。


 ・夕照りの竹群撓ひなびきてはうち反りゆく大窓に見ゆ

 ・九階にのぼり来たりて輝きを斂めむとする雲遠く見つ

 ・おほぞらを光微かにわたらへり鋪道をゆくわれをつつみて


 こうした歌を読んでいると阿木津は構築型の歌人であることがよくわかる。安易な抒情に流されることがない。この大柄な短歌と大きな思想を土台に阿木津の短歌の豊かな実りは、更にこの先に予定されているように見えてくる。


                        (歌誌『朝霧』2008.11「現代短歌鑑賞11 構築」)

黒瀬珂欄による・・・・2008/09/03 08:03

  曇りぞらおほにし垂りて陸橋のうえなるわれは独りわらいす   
                                   『白微光』昭和62年刊



「おほにし」とは「ぼんやりと」の意。万葉集の柿本人麻呂の歌などに用例がある。掲出歌の風景はおそらく、どんよりとしたスモッグか粉塵が垂れ込めた街なのだろう。あえて「おほにし」を旧仮名で用いた点に、ふしぎなたゆたいが感じられる。薄暮の下、一段高い陸橋を舞台のように感じたのか、ふと自分だけの世界に入りこみ、独り笑いをこぼしたのだ。重々しい現代都市の空と、時間を越えた古語の交錯。それはそのまま、現代女性と古代女性の交錯でもある。


         (黒瀬珂欄著 365日短歌入門シリーズ『街角の歌』ふらんす堂、2008)

  【お断り 黒瀬珂欄の「らん」の漢字は、本当はさんずいです。どうしても反映できな
  いので、しかたなく仮に「欄」の字を使いました。著者に失礼をお詫び申し上げます】

松村由利子による・・・2008/08/02 12:43

 著者は昨年、十三年ぶりに五冊目となる歌集『巌のちから』を出版した。
 その真っすぐで力強い詠いぶりに、過去の歌集を再読したくなったファンも多いに違いない。第一歌集『紫木蓮まで・風舌』から第四歌集『宇宙舞踏』までをまとめた本書は、新旧のファンを魅了する一冊となっている。


   いにしえの王(おおきみ)のごと前髪を吹かれてあゆむ紫木蓮まで
 
   産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか


 のびやかな調べは、既成の価値観にとらわれない精神性からくるものだろうか。「フェミニズム短歌」と少しばかり揶揄のこもった言い方をされたこともあるが、作者の持ち味であるたっぷりした詠いぶり、大どかさは、時代を超えて心を揺さぶる。
 女性性をテーマにした印象が強かった人には、思いがけない歌も多いだろう。


   意地悪き顔の百姓男くるひらたくかわく道のおもてを


の骨太さには、斎藤茂吉に通じるものがある。


   浴室のタイルの壁を軟体のなめくじひとつのぼりてゆけり


には、吉原幸子を思い出させられる。


   地下壁の広告見れば蛍光に透く青き波。--青は慰め

   足裏に月をおさへて立ち上がる宙(そら)のをんなのそのゆびぢから


 長く定型に向かい続けた著者の歌は、今も進化し続けている。その文体や技巧の着実な足跡をたどる意味でも、記念すべき愛蔵版だと言えそうだ。



                        (『短歌新聞』2008.5.10「のびやかさと着実さ」)