街上遊歩(27) 鴉と猫とヒト2009/06/24 02:16

 以前ほど距離感は無くなったと思われるが、地方の国立大学より東京の私大の方が人気があるというから、今の若い人にも東京という都市は何かしらきらきらしいところであるのだろう。

 しかし、実際に住んで目につくのは、いかにも地の人らしい顔つきをしたお豆腐屋のおじいさんや、薬屋のおばあさんや、街通りに住む老爺老婆たちである。都市をあげての新しさや繁栄に向かおうとする空気のなかで、かえって目に止まるのかも知れない。

 それから、遊歩道の植込みのかげに潜んでいる野良猫であり、建物の屋上に止まっては空で声を張り上げている鴉であり、公園のベンチに寝ているホームレスである。

 不況のきわまったひと頃は、わたしの住む周辺の小公園にまでホームレスがやって来て、ベンチに陰鬱に足を投げ出し、あるいは寝そべっているのを見た。晩秋の暮れかかったベンチに苦しそうに咳込む蓬髪の人を見たこともある。

 それが、このところ、ふと気がつくと、公園にも駅の構内にも鳩がいなくなり、植込みの陰に潜んでいた病気の野良猫たちがいなくなり、生ゴミをつつく鴉の数が減り、駅の構内にも、周辺の小公園にも、ホームレスの姿を見なくなった。

 都をあげてのカラス対策をしていることは知っているし、新宿駅周辺に寝泊まりしているホームレスを強制撤去させたというニュースを聞いたこともある。
 
 それでも、この不況下、ホームレスが減るはずもあるまい。汚いもの、醜いもの、余計なものが、いつのまにか気がつかないうちに、処分されてしまっているのではないかと思うと、どうも落ち着かない不気味さを感じる。


  街ぞらを鴉飛びつつ植込みに野良猫くぐみヒトは箱に寝る     


 そう思ったら、自分の歌のなかの誰も知らない深夜の街ぞらに、思うさま鴉を羽ばたかせ、植込みに野良猫をくぐませ、段ボールで組み立てた箱のなかにヒトを深々と眠らせたくなった。

 そこは、鴉と猫と段ボール箱で眠るヒト以外、まともな(と思っている)人の誰も知らない街の空間である。

 現代都市の本質なんて、じつはこんなところにあるのではないだろうか。
 

                                  (西日本新聞2003.10.20)

街上遊歩(26)都鄙意識2009/06/14 11:12

 東京に移る以前、福岡、岡山、熊本の三つの県庁所在地に住んだことがある。そのどれとも、東京という都市は違っていた。

 東京が世界で一番面白い都市といわれた、バブル景気にさしかかるころに移ったせいもあろうが、目もくらむばかりの物品のきらびやかさがあった。しかし、同時に、都市全体に差別意識のようなものが薄暗く沈むように拡がっていた。

 そのころテレビでは、ビートたけしがダサイタマなどといって笑わせていたが、あのような田舎者差別や、電車の路線によって住む”人種”が違うなどという差別意識は、現実のものだった。

 こんな感じは、それまでの三つの県庁所在地では受けたことがない。地方でも、ウチの家は、といったそれ相当の自負を持つ人はあるだろうが、そういうのではなく、都市全体に沈み拡がっている意識である。だから、いつのまにか誰の心にも忍び入ってくる。

 なぜだろうか、と考えた。一つには、東京では、貧富の差が大きい。地方都市では感じられなかった富裕層の存在が、東京ではそこはかとなく実感される。

 あるいはまた、皇居があるからかもしれない。皇居を抱き込んだ都市だから、身分意識が日常的に醸成されるのかもしれない。東京は地方人の集まりだともいわれる。互いにどこの馬のホネともわからないから、成り上がり者的差別意識が発達するのか。

 どの理由も正鵠を射たというほどではないようだが、先日、ある本を読んで、これだったかと思うことがあった。

 田舎・地方・鄙は賤しく、都市は田舎に優越しているという都鄙意識は、百官の府たる平安京に移住した貴族たちの間から生まれた、というのである。

 平城京での古代貴族たちは自分の本拠地としての土地を所有しており、生産を管理していた。豪族であり、地主であった。
 その土地を捨てさせ、平安京の律令官人として俸禄を与える体制が整ったころから、田舎に土地を持ち生産に関与するのは賤しい、田舎びている、という意識が生まれたという。
 
 裏返せば、そのころ律令制による諸貴族たちの集中管理体制が整ったということになる。

 なるほど、あれは「みやこ」意識だったのだ。東京という百官の府に住んで、「貴族」ならぬものの心にも、いつのまにか都鄙意識を植え付けてしまうものは。

                                      (西日本新聞2003.10.18)

街上遊歩(25)鴉の言い分2009/03/12 19:57

 羽根をいっぱいに張り拡げて飛び立つ鴉に、猫が大跳躍して、果敢にうち向かっている広告写真が、何年か前、駅の構内に貼ってあった。背景は、ゴミが散乱している荒地である。

 猫にとって、鴉は油断ならない相手だ。子猫なら喰うし、争いが起きれば空から攻撃する。野良だったうちの猫も、鴉がベランダに近寄ってくるや、ただならぬ気配で戦闘態勢にはいる。夜明けがたの街裏では、餌をめぐる戦争が起きているのだろう。

 鴉はご馳走の生ゴミを漁ったあと、マナーがないというので、ヒトに憎まれるが、とても黙ってやられているばかりではない。敵の玄関口に、わざと生ゴミを散乱させて復讐をするのだそうだ。

 東京都では、何年か前から鴉と戦闘態勢に入っている。公園に大がかりなワナを作って、昨年度は一万二千羽を捕獲した。本年度の目標は一万三千羽だという。


 鴉の屍(し)おびただしくも積む穴のほつかりひらく街衢(がいく)のそらに    英


 その捕獲した一万二千羽の鴉は、どうなったのか。新聞でニュースを読んだとき、ふと思った。一万二千羽の真っ黒いかたまりが積み上げられて、ゴミ処理場の焼却炉のなかに投げ込まれたのだろうか。

 アウシュビッツの死体の山が連鎖的に思い出される。これは鴉の大虐殺だ。鴉会議では、黙って引き下がるべきかどうか、ヒト対策に知恵を絞っているはずだ。

 「ヒトほど狡賢いやつはいないな。カァ」
 「カァ。そもそもバブル景気のころ、飲めよ、喰えよ、といって、街なかにご馳走積み上げて、来てくれってったのはヒトどもじゃないか。こういうのを、騙し討ちっていうんだろう。カァカァ」
 「針金ハンガーで巣を編み上げる工夫だって、並大抵じゃあなかったに・・・。」
 「カァカァ。まったくあいつら、仁義も礼節もしらねェな。鴉だと思ってバカにしてやがる。」

 鴉の言い分にも一理がある。
一九七〇年代には、山手線の内側に鴉はいなかった。八五年に、七千羽。以後急激に増えて、現在三万五千羽だという。
 問題のなかった七千羽にまで(虐殺して)減らすというが、バブル経済期以後、東京のヒトが食べ物を簡単に捨てるようになったということを、まず反省すべきであろう。


                                (西日本新聞2003.10.17)

街上遊歩(24)噴水と鳩2009/03/12 19:48

噴水と鳩とは、字面だけを眺めても、なかなか映りのよいものである。

 アポリネールに「刺殺された鳩と噴水」という詩があった。戦争に出ている友人たちの一人一人の顔を思いだして、噴水のほとりで嘆く詩である。マラルメにも、噴水の有名な詩があったが、このような噴水や鳩に関わる言葉の織物の厚みが、目の前の噴水と鳩とを、いっそう楽しいものにしてくれる。

 かつては、近くの世田谷公園でも、噴水のめぐりに憩う人々の足元を、いくつもの鳩がよたよたと歩いていた。何かの拍子に、くくくくと低く喉を鳴らしながら、いっせいに飛び立つことがある。そのときの、耳のあたりを掠めてゆく翼の脇のしなう音は、何とも言いあらわしがたい。何度も歌にしようとし、実際作っても見たが、どうもうまくいかなかった。

 もう何年も前のことになるが、公園に行っては、噴水のめぐりを鳩の群が飛び交うのを楽しみにしていたのに、急に鳩がいなくなった。どうしたのかと思えば、近くの木立のなかで、中年女性が大きな袋から餌をとりだしては撒くので、鳩たちはすっかりそちらに群がっているのである。その女性を中心に、地面に鳩たちが押し合いへし合いしては、餌を貪っている。

 それはちょっと反則じゃないか、鳩を自分だけで独占しようってのは・・・と、おおいに不満だったが、仕方なく、横目で見ながら通り過ぎる日が続いた。

 ところが、ある冬の夕方、もう薄暗くなりはじめたころのことである。いつものように中年女性が鳩の群を従えていたが、すっかり馴れた鳩を手で捕まえては、ちょっと調べる様子をして、大きな袋に押し込んでいる。何をしているのか。しばらく立ち止まってみていたが、声をかける勇気もなく、ついにわからなかった。

 病気の鳩の手当てをしようとして、捕まえていたのか。それとも餌をやって馴れたところを捕まえ、数を間引こうというのか。まさか、うまそうな鳩を選んでいたわけではあるまい。

 何度か、その不審な行動を目撃して、頭をひねっているうちに、公園に「鳩に餌をやらないでください」という、鳩の大きさに比べれば巨大な看板が立った。やがて、その中年女性の姿を見なくなり、鳩の群もいなくなってしまった。


                                    (西日本新聞2003.10.16)

街上遊歩 (23)火薬を巻きつけて2008/11/10 22:25

 「自爆犯は女性司法修習生」という見出しに顔写真を添えた記事を、先日、新聞で見た。
パレスチナ自治区ジェニン出身の二十九歳の女性である。
イスラム聖戦に所属していた兄弟の一人といとこが、この六月、イスラエル軍の侵攻作戦で殺されていた。イスラエル軍は、自爆の報復として、ジェニンの女性の実家を爆破したという。これで、女性自爆テロは四人目である。


 身に火薬巻きつけて少女ゆく道をおもはざらめや照り返す日に   英


 三人目は、ドゥヘイシェ難民キャンプで育った十八歳の少女だった。学校からの帰り道に火薬を受け取り、そのまままっすぐスーパー・マーケットへ行った。出入り口で守衛に呼び止められ、そこで自爆したという。

 この話は、昨年六月、数百人規模の虐殺があったのではないかといわれるジェニン難民キャンプ取材のニュース番組を、インターネットの動画配信で見て知ったのである。

 少女の親友の家は、イスラエル軍兵士のスナイパーに日頃から狙われていた。ゲームでもするように、向かいのビルから弾丸が小窓に撃ち込まれ、ある日、部屋にいた親友を貫いた。
身を寄せ合うようにして暮らす難民キャンプでは、その日頃からの圧迫感はわがことのように感じられていただろう。婚約者がいて、三ヶ月後には結婚するというのに、親友が殺されたのをきっかけに、ようやく堰き止めていた感情はおしとどめようがなくなる。

 自分の未来のすべてをなげうち、過激派のアジトに行って、殉教者となる誓約書を読む姿をビデオに撮ってもらい、火薬を受け取る。火薬には、殺傷力を増すために、太いねじ釘がたくさん混ぜ込まれてあり、ずっしりと重たかっただろう。

 怪しまれないように、衣服の下にその火薬を巻きつけ、道に出る。あたりには、学校がひけたあとの難民キャンプの子どもたちが遊んでいたかもしれない。

 まぶしいほどの午後の日ざしが、歩んでゆく道を照り返していただろう。イスラエル人がよく行くスーパー・マーケットまでのいくばくもない距離を、少女は歩みすすんでゆく。

 その思いつめたような歩みを、悲しまないでいられようか。


                              (西日本新聞2003.10.15)