方代散策 『迦葉を読む』(3)2010/09/13 15:39

 
   八、急須


 そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり


 昭和五十六年『うた』十月号初出。あなたとは朝な夕な手にとってはお茶をいれる急須のように親しいつき合いだが、という。「そなた」の語からしても、相手は女に他ならない。

 それなのに、歌を読んで浮かんでくるのは、乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとり暮らしの老いそめた男の姿である。「そなた」は、所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する。じつに高等な比喩法ではないか。


 寂しくてひとり笑えば卓袱台(ちゃぶだい)の上の茶碗が笑い出したり
 
 卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
 
 さびしいから灯をともし傍らの土瓶の顔をなでてやりたり
 
 卓袱台の上の土瓶がこころもち笑いかけたるような気がする
 

 一九八〇(昭和五五)年刊『こおろぎ』から土瓶や茶碗の歌を拾ってみた。すべて明白な擬人法を採る。方代の歌は、そもそも擬人法に特色がある。童話のようななつかしさも、わかりやすさも、歌に擬人法を多用するところがおおいにあずかっている。

 掲出の歌も、擬人法で発想するなら、「急須とはおんな(女房)のように親しくて」とか、「そなた急須よ」とか、そんなふうになるところ。これなら『こおろぎ』時代と同水準の歌だ。

 ところが、ここでは「そなたとは急須のようにしたしくて」――単純な擬人法ではない。「急須のように」は、比喩という以上に「急須」という語が実体の重みをもっているので、「そなた」と「急須」の転倒だと誰もが気づく。しかも、指し示す語の力によって「そなた」の幻影はたたないではいない。

 「そなた」は「急須」でもあり、「急須」は「そなた」でもある。方代は、幻影とも実在ともつかぬ交錯するあわいを、こういう叙法によって発見した。このあわいだけが確かなもの(=ほんと)で、実在している(とみんなが思っている)「うき世はなべて嘘ばかりなり」。

 擬人法は、モノがいかにも人に化して見えてこないといけない。『こおろぎ』の「茶碗」も「土瓶」も、まるでほんとうに笑っているかのようで、そういう幻影をちゃんと見せてくれるからこそ、歌がたのしい。

 しかしながら、認識の根本をただしてみるとき、『こおろぎ』の擬人法では「急須」は依然として実体であり、「うき世」は実在する。幻影は、作者がつくり出した幻影に過ぎず、作者だけに所属する主観のもたらしたものである。

 ところが、『迦葉』のこの歌にあっては、「そなた」こそが実在するのであり、「急須」は比喩として引合いに出されているにすぎない。にもかかわらず、作者も読者も、「急須」こそが眼前にあって「そなた」は幻影であることを知っている。この矛盾した叙法によって、実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した。

 実在は実在、幻影は個人の主観から生まれるものという、いわゆる客観-主観の二元論を超えて、そのあわいを〈開く〉――方代の擬人法はこんなところにまで出てきたのだった。驚くべきことである。


   

   九、生の音


 おだやかな生の音なり柚の実が枝をはなれて土を打ちたり



 昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。熟し切った柚の実が、あるとき枝から土に落ちる。やわらかな土に落ちる、そのときの音を「おだやかな生の音」だと聞いた。

 眼前に見てうたったわけではない。近所に熟れた柚の木を見たり、どこか畑の土に柚が落ちているのを見たり、もしくは何かで「柚」の文字を見たというだけでもよい。それをきっかけに、柚の実が落ちるときの音を耳の内に聴いた。

 「枝をはなれて」土を打つという、枝から土までの距離によって、いかにもやわらかい土に受けとめられた柚の重さが感じられる。一般には果実の落下の比喩は「生の終り=死」だろう。ふかぶかとした落下の音はおだやかな死を迎えた証。おだやかな死は、おだやかだった生の証であるから、理屈としては「生の終り=死の音」と「生の音」は等価である。

 しかし、歌としての差は、はなはだ大きい。「おだやかな最後(死)の音なり」では、落下の瞬間に集中した「音」の歌となる。一方、「おだやかな生の音なり」とすると、柚の過ごしたおだやかな生の時間の集約として「音」はあらわれる。しかも、「生の音」という語が下句にまで響いて、落下した柚はなお生き続けているかのように感じられる。

 ここにも、「生」と「死」、実在と非在との交錯するあわいが取り出されているといえまいか。





  十、豆腐と戦争



 奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている




 昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。奴豆腐を酒のさかなにつまみながら、近づいてくる戦争の気配を感じている――。言っていることは少しも難しくはないが、どこか言いおおせてないような、不安定な気分をさそわれる。

 「近づいてくる戦争の音を聞いていた」。こう言い切ってくれれば、かつてそういう時期を体験したのだなとわたしたちは納得する。茂吉でも白秋でも昭和十年前後の歌を読むと、窓の外を兵隊の軍靴の音が過ぎていったとか、街角を一群の兵士が曲っていったとか、そういう歌がいくらも散見される。報道無くとも、町中の庶民の日々には情勢の緊迫はかすかな変化で感じ取られていったのにちがいない。そして、大正三年生まれの方代にも、そういった記憶があったかもしれない。

 しかし、歌は「聞いていた」ではなかった。では、「聞いている」のは歌の制作時である昭和五十六年のことか。一九八一年、一億総中流時代と言われたあの日本経済成熟期にも、戦争体験をもつ方代は「近づいてくる戦争の音を聞いて」未来を思わないではいられなかったのか。

 近藤芳美という歌人は、そういう未来の到来をつねに警告していたことを思い出す。しかし、この方代の歌は、平和そのものの現在もすでに「戦前」という感慨を述べているとも断言しきれない。

 いちばん近い解釈は、過去の時間を現在只今のことのように切実に感じているというものか。それにしても「奴豆腐は酒のさかなで」では叙述が類型を出ず、作者の過去のある日の体験をさすとも言い難い。

 つまり、これは、過去とか現在とか、時間軸の上に乗せられない歌の作りようをしているのである。直線的に延長する時間軸の上にこの歌は位置しない。読後、不安定な気分をさそわれるのは、それをむりやりに時間軸の上に乗せて解釈しようとするからだ。現代の読者は、どのような歌も過去から未来へと直線的に流れる時間軸の上に位置づけなければ読みとれなくなってしまった。

 奴豆腐をさかなに酒を汲むような、庶民のごく平和な夕べに、かすかな不協和音のように戦争が亀裂を入れ始める――それを感じている庶民の耳。方代は、自分の過去のある時の体験や、自分の現在の考えを述べたいのではなく、そういう庶民の耳というものを取り出したかったのであった。


   *


 『迦葉』の歌を仔細に見ていくと、身に刻み込まれた戦争体験を歌の動因とするものがしばしばある。



  死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう



 掲出歌と同年四月号『うた』に発表した「六十になれば」十二首のなかに、こういう歌があった。いつの時代にも通ずる庶民の智恵である。今の大学生もこの歌を読んで「わかる」と共感する。「二日一夜」を泣いて三日目には「ほがらかに・・・忘れてしまう」ことにし、立ち上がるところに励まされるのだろう。

 だが、一定以上の年齢のものは「二日一夜」という語句で、この歌がまぎれもなく戦争体験から発していることを読み取る。

 そう、あの「どこまでつづくぬかるみぞ/三日二夜を食もなく/雨ふりしぶく鉄兜」という軍歌。昭和七年、関東軍参謀部八木沼丈夫が作詞した軍歌「討匪行」は、帝国陸軍関東軍参謀部が選定・発表した純軍歌というが、どこまでも続くぬかるみのなかを飢えながら行軍するこのありさまは、のちの昭和十二年支那事変勃発後、数知れない多くの召集兵士が骨身にこたえて味わうことになる。広くうたわれた軍歌で、戦後生まれのわたしでさえ語句の片々を記憶する。日本の軍歌の特徴は、厭戦歌反戦歌とまがうほど沈痛・悲哀の情に満ちているとは、よく指摘されるところでもある。

 ここで方代が「三日二夜」より一日少ない「二日一夜」を選ぶのは、そのような悲哀と堪忍の情から陶酔的な一体感をかもし出す(それを愛国の情へと転化していく)軍歌への抗いと反発からである。「ほがらかに・・・忘れてしまう」という、ケロッとした突き放すような明るさもまた、その反発から生まれる。



  柏槇の雫に濡れてうたいます滅ぼされたるああポロネーズ



 同じ一連中には、このような歌もあった。「ポロネーズ」とは、ポーランド風の宮廷円舞曲のリズムをいうらしいが、「滅ぼされたるああポロネーズ」から連想されるのはショパンの「軍隊ポロネーズ」や「英雄ポロネーズ」である。雨滴する柏槇の木下で、兵隊帽をかぶった兵士が、オペラ歌手ふうに胸のまえで手を組みながらうたっている「絵」が、目に浮かんでくる。

 同時に、わたしは「柏槇」で、鎌倉建長寺の寺庭で見た樹齢七百三十年と言われる柏槇の木を連想してしまうのだ。幹周り六.五メートル、樹高十三メートルといわれるが、その曲がりくねった襞なす幹が印象的だった。樹齢七百三十年の柏槇の木下でうたっているのは、方代に似た、かつて兵士であった男だろうか――。

 子どものころ『ビルマの竪琴』を何度も読んだものだが、あの兵士たちのつかのまの憩いの風景が想像される。方代の兵隊時代にも、雨の日には大木のしたでこんな光景があったかもしれない。丸山真男は、「軍隊の内部でよかったことは(略)休暇の時に一緒に戦友とどうこうしたとか、演習の休憩の時に歌をうたったとか、実に小さな些細なことがあの砂漠のような生活の中で、オアシスのようによいものに感じるんです」(吉本隆明「丸山真男論」より)と述懐して言う。

 この歌には、いっしんに歌いあげているときの無心がひとすじに流れていて、惹きつけられる。方代のいう「どうにも我慢のできなかった」軍隊生活のなかにも、そういうオアシスのような無心のひとときの記憶はあっただろう。「それが堆積して大きな力になって独自に印象づけられて」(丸山真男)いるところから、「滅ぼされたるああ・・」という嘆声は発する。ここに俗っぽい懐旧の情はみじんもない。


    *


「奴豆腐は酒のさかなで」の掲出歌には、いくつものヴァリエーションが生まれている。昭和五十六年『短歌新聞』十月号掲出歌発表の翌月、「かまくら春秋」には上句五七を「手作りの豆腐を前に」とし、さらに翌年『うた』一月号、同『かまくら春秋』一月号、順に並べるとつぎのようになる。

  
  奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている
  
  手作りの豆腐を前に近づいて来る戦争の音をきいている
  
  手作りの豆腐を前にもやもやと日がな一日を消してゐにけり
  
  手作りの豆腐を前に何にもかもみんな忘れてかしこまりおる



 『うた』一月号の一連十二首の題も「手作りの豆腐」だった。「手作り」であるところに方代のこころが留まったと見える。豆腐と戦争から、「手作りの」を得て主題が移っていっている。

 それにしても、戦争――もっと言うなら戦争と庶民――は、方代の歌の底深く厚くながれている大きな主題であった。



                             ( 『牙』2010.7)

方代散策――『迦葉』を読む(2)2010/05/29 20:31

 
(石の笑い補記1

 「石の笑い」という語の初めて現れた、昭和三十四年作


 沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり


は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のほか、〈坂越えて急ぐひとりの方代の涙を月は見たであろうか〉〈誤って生まれ来にけりからす猫の見る夢はみな黒かりにけり〉のような、いわば涙のなかに嵌め込まれた「石の笑い」であった。

 交友のふかかった岡部桂一郎氏はこの時期の方代を、「生きるための暮しにふかい行き詰まりと絶望を感じていた。一日も早く(この世を)終りたいというのは方代のカッコよさをねらったものではなく、実は彼の本音だったのだ」(『山崎方代追悼・研究』不識書院)と書く。

この時期の「石の笑い」という語がいくばくこわばってこなれないのに比べて、〈しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ〉とうたう『迦葉』の時代、こんなにも屈託無いたのしい「石の笑い」を成就できたのは、晩年の生活がそれなりに功成り名を遂げ、心に余裕のできた反映だろうと、わたしたちは納得しがちである。

そうではない。そう解釈してしまっては、すべては生活の如意不如意が歌を決めていくという論法に陥り、どうにもならない。不如意な生活が意を得るやたちまち精神がぶよぶよになって堕し、増長し、歌を駄目にしてしまうのが、通常人だ。方代の足元にも罠は口をひらいていただろう。そこを賢明にも避け得て、『迦葉』の「石の笑い」の屈託ない世界が成就した。創作者としての厳しい闘いがそこにはあった。


  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ


は、『迦葉』のなかでも指折りのすばらしい歌だが、この透明な笑いを、晩年生活のそれなりの如意の結果と解することは、この歌をどぶ泥につっこむことである。以上、あえて補注しておく。)


(石の笑い補記2

 大下一真著『山崎方代のうた』によれば、没後、故郷中道町に中道町民芸館が建てられ、その玄関脇に〈桑の実が熟れてゐる/石が笑ってゐる/七覚川がつぶやいてゐる〉という方代の碑があるという。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉の類型。故郷の景にかかわる「石の笑い」という発想を方代は気に入っていた。右歌は、全歌集には収録がない。)




 三.キリスト様


    はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ



 初出は、『うた』昭和五十六年一月。その直前、『短歌現代』昭和五十五年十一月号にはつぎのような歌がある。


    はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ


 断然「キリスト様だ」のほうが優れている。歌そのものの次元が異なっている。

 「顔いっぱいがキリスト様だ」とうたいきってわたしの目に浮かぶのは、かつて学生時代に映画『デカメロン』で見た中世農民の日に焼けた皺だらけの顔である。乱杭の歯っ欠けの口をにっと開いて笑う大写しの顔は、無類の無邪気さを現していた。「キリスト様」というのに、どうしてあの西欧中世農民の顔が思い浮かぶのか。

 この歌は、自分〈われ〉が無花果を食べているとも、誰かが食べているとも受け取れる。自分〈われ〉の「顔いっぱいがキリスト様」のようだと受け取っていいが、それでも読み終わって見えてくるのは、ひとりの日に焼けた皺だらけの無邪気な農夫の顔いっぱいの笑いなのだ。

 一方、『短歌現代』に発表した〈はじけたる無花果の実を食べおると顔いっぱいが鼻のようだよ〉では「食べおると」だから、自分〈われ〉が食べていると、という意味でしかない。掲出歌は二句切れにして、歌が説明をまぬがれ、飛躍した。自分のことであり、他の誰彼のことでもあるという、普遍性を獲得できた。

 「鼻のようだよ」が、無花果と関連深い「キリスト様だ」となったことによる飛躍は、これまた言うまでもない。

 無花果は小アジア原産、パレスチナには早くから移植された重要な果樹であり、旧約聖書新約聖書ともにしばしば現れること、方代はかすかにでも知っていたということになる。

 イエスが空腹を覚えとき遠くから無花果の繁った葉を見て近づいたが、実りの季節ではなく、実がついてなかった。それでこの木に向かって「今から後いつまでもおまえの実を食べる者がないように」と言ったと、マルコ伝には記す。方代は、こんな寓話も知っていたのだろうか。方代の歌は、そのとき空腹を覚えた者と、はじけるまでに実りの季節を迎えた無花果と、出会いの時の合致した幸福を思うぞんぶんに讃えている。




   四、末成り南瓜


      胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような老人である




 初出は『うた』昭和五十六年四月号だが、これも二カ月前の『かまくら春秋』に次のような似た歌がある。


      どっしりと胡座の上に身をのせて六十五才の春を迎えり


 この改作の方向も、さきの「キリスト様」の歌と似ている。どっしりと胡座の脚のうえに身をのせているわたしは六十五才の春を迎えたよ――こちらは、そう、〈われ〉が叙べている歌だ。ところが、先の掲出歌では、文人画とも挿絵とも漫画ともつかないような老人の姿がはっきりと見えてくる。その姿は、〈われ〉でもあり、他でもある。

 「胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような」、すこしひねた末成り南瓜のようなものが、胡座の膝のうえに乗っている。「乗っておるのは」という言い方は、外側から見るかたちをしめす。胡座の膝のうえに乗っているのは末成り南瓜のような・・・さて、ここで普通に語を続けるなら、末成りの南瓜のような顔、末成りの南瓜のような頭、こうなるところ。「老人である」とは、けっして続かない。「胡座の上に乗っているのは」-「老人である」と繋がることになって、おかしいからだ。

 ところが、「老人である」と繋げて、じっさいにこの歌から思い浮かぶのは、老い屈まった老人の、ひねた末成り南瓜のような大きな顔が、胡座のうえにのっかっている姿である。「胡座の上に乗っているのは」-「末成りの南瓜のような」-「老人である」という、この語順に若干のひずみがある。それがこの歌にどこか舌足らずな面白みをかもし出してもいる。

 おそらく、作歌時におけるこの歌の呼吸は、「末成りの南瓜のような」で切れている。四句で一呼吸おき、飛躍して、結句「老人である」と一首を大きく包含した。結句で大きくくるみとってこそ、水墨画のような稚純な老人の姿をそこに現出させ得たのである。

 こうして、〈われ〉の歌としての「六十五才の春を迎えり」の自画像の域を脱する、歌の普遍性が生まれ出た。

 山崎方代という、特殊なうえにも特殊な生き方をしてきた歌人のの歌が、特殊な人生をたどった者の一独白、一物語に終らず、大きな普遍性を獲得しているのは、このような創作者としての苦闘があったからだと、いまさらながら思い知る。




   五、一粒の卵


     一粒の卵のような一日をわがふところに温めている




 『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。


     短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ


 卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩。

 ところが、「一粒の卵のような一日」とここから始まると、「卵」から鳥の抱卵を連想して「わがふところに温めている」となる。「温めている」で、にっこりほっこりしている歌の姿が現れ出る。こんな一日だったよと叙べる歌が、抱卵の鳥なのか〈われ〉なのかといった歌に変ずる。

 こうして並べると、いかにもやすやすとこの改作が現れ出たかのように見えるけれど、くるっと扉をひらくような一飛躍が必要だったのではあるまいかと、同じ作者としては思わずにはいられない。




   六、石から石へ


     両の手を空へかかげて川べりの石から石へはばたいていた




 この歌は、先に掲げた「石の笑い」の歌群をただちに連想させる。〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉ような、石ころだらけの川べりでここはあるに違いない。

 頭のでっかちな老人が両手をぱたぱたさせながら、石から石へかろやかに、笑いながら、足を掲げて飛んでいる姿が目に見えるようだ。クレパス画のような描線で、絵本の絵のようでも、漫画のようでもある。こっけいみがある。

 「両の手」とはすなわち鳥の翼の比喩にもなる。一首はここを翼と言わなかっただけのこと、翼をかかげて川べりの石から石へはばたいていたという、鳥の歌とも言える。ところが、歌に見えてくる姿は、どうしても鳥ではない。頭がちな老人が両手をぱたぱたさせて飛んでいる姿しか、見えてこない。それを不思議に思うのだ。

 「はばたいていた」――物語るかたちである。わたしは昔そうしていたよ、というのか、そういう場面を見たよ、というのか。



    柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる



 これも、鳥とも人とも定まらない歌であった。「キリスト様」の歌と同じ連作中にある一首。

 子どもの頃、柿の木や枇杷の木、ぐみの木などにのぼって、熟れた実を取って食べては、樹上から種を吐き捨てたものだ。そういう記憶が蘇って、樹上にいるのは人だとまず思う。ところが、ここでは「梢」である。「梢に止」ることのできるのは鳥だろう。さて、鳥かと思えば、嘴ではなく「口から種を吹き出」す。

 「石から石へ」の歌も同様だが、鳥を擬人化したのでもなく、人を鳥に喩えたのでもない。比喩の技法におさまりきらないところが、じつにおもしろい。鳥でもあり、人でもある。どちらでもあるような姿が、「石から石へ」の歌でははっきりとまなうらに描ける。


 
    柿の木の梢(うれ)から落ちてたっぷりと浮世の夢を味わいにけり



 こんな歌も、「石から石へ」の直前にはあった。「石の笑い」の初案〈しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ〉と類想だろう。翼を持つ者、飛ぶことのできる者が、誤ってどじを踏んで地上におっこちる。石はそれを見てくすくす笑うのだし、柿の木から落ちたものは、罰として浮世の辛酸もふくんだ夢をたっぷりと味わうことになる。



 
   七、天秤棒


     食いこめる天秤棒を右肩へぐるりとうつす力がほしい




 子どもの頃、行商のおじさんは天秤棒を担いで家々を巡っていた。前と後ろに振り分けた荷物の重みで天秤棒がしなうのを、ぐあいよく拍子をとって歩く。ニコヨンで土を運ぶもっこ担ぎもそんなふうだったし、汲み取り式便所の肥をはこぶのも天秤棒だった。

 「ぐるりとうつす力がほしい」――ぐるりとうつすときに「力」がいるものかどうか知らない。しかし、外から見ていても、ゆさゆさと揺れる荷物としなう天秤棒と、腰からリズムをとってひょいひょいと歩きながら、ときにぐるりと肩を移すあの姿は、かろやかなものである。労働のリズムというものがそこにはある。

 肩に食い込む重荷も、労働のリズムにかろやかに乗るとき何の苦も感じないでいられるのだ。



                                   (「牙」2010.6)

方代散策・・・『迦葉』を読む第一回2010/05/05 18:55


   序――民衆


 山崎方代は、一九八五(昭和六〇)年八月十九日、肺癌による心不全のため、国立横浜病院の一室で没した。肺癌の判明したのは前年十二月のこと。三月には摘出手術をしているが、おそらく病状は進行していたのだろう。
 最後の歌集『迦葉』のあとがき草稿は八月十三日に口述したが、完成せず、遺詠「蝉」五首が『うた』十月号に掲載された。



  病院の窓の内より民衆に笑みを送りて祝福申す
 


 遺詠五首の五首目、十一月末に刊行された『迦葉』にも入っていない、最後の歌。この世を去るにあたっての挨拶の歌である。

 初めて読んだとき、なかばあきれながら笑った。高い窓のしたには「民衆」があふれんばかりに埋めつくし歓呼の声をあげながら手をふっている――そんな光景がたちまち見えてきたからである。
このとき方代は、満面に笑みを湛えながら窓から大きく身を乗り出すようにして別れの手を振る「英雄」である。
病院の窓はいつのまにか列車の窓のようなものに変じ、「英雄」方代を乗せて空高くへと出発する。つねに「民衆」とともにあって、「民衆」のために粉骨砕身した革命家。
彼をたたえる「民衆」の歓呼の声にも、応えて大きく手を振る革命家の祝福の笑みにも、互いのあいだには限りない善意が満ちあふれている。

 このような光景が浮かぶのは、「民衆」というマッスをあらわす語があるからだ。方代が民衆をマッスとしてとらえるまなざしをもっていたことを意外にも思い、その無邪気さに笑いもしたが、しかし、ひるがえって思えば、方代は「民衆」というロマンチシズムを終生信じた歌びとだったのである。

 人々へ向かうあふれるような無邪気な善意と祝福こそは、方代の歌のこころのもっとも根底にあるものであった。これあるがゆえに、方代の歌は、いかにも親しみやすく気楽で庶民的であるのにも関わらず、けっして格が低くならない。

 つぎに引用するのは、大下一真著『山崎方代のうた』(短歌新聞社)からの孫引きで、ボーリング大会の「開会の挨拶」。方代は、一九七二年五十八歳の年、鎌倉飯店店主根岸侊雄が自宅の敷地内に建ててくれた四畳半のプレハブの家に移る。その鎌倉飯店常連連中で作ったボーリングクラブの大会であった。



 こがね色に空がきはだつて
 鎌倉山の嶺みねを
 幾重にもわかてば
 もうゆく秋の風が
 うおう うおうと
 心の底深く
 そこはかとなく
 しのびよって来るこの頃
 今日今宵
 やはらかき灯のもとで
 日ごろのうでと心をきそひ合うことの
 この楽しさは
 いづこより来る
 さはさりながら
 この国の私達の日常は
 実にめくるめくして
 さびしく けはしく
 ともすれば人間よしみの
 愛憎の世界も忘れかけようとしている時に
 おのずからここに
 したしい若い仲間が集いより
 るり色の
 ボーリングの名のもとで
 あたたかい そして
 まことこまやかに
 いと高い愛情をそそぎあい
 青春の光の野辺に立ちはだかり
 人間万歳をくり広げることは
 かならずあしたの生活に
 明るい灯がともることを
 はばかりません
 これをもって
 開会の言葉とします

 今宵十月二十五日        
   一ちまたの名もな(ママ)無き詩人   山崎方代



 「開会の挨拶」替わりの詩だが、方代の歌の秘密をうかがわせるおもしろみがある。
方代語法とでも名づけたくなるような「私達の日常は実にめくるめくして」「光の野辺に立ちはだかり」「灯がともることをはばかりません」といった語の連なりはほとんど気分まかせだが、しかし、決して放縦には流れない。
語はよくコントロールされて、一見舌足らずな語法はかならず詩的なおもしろみへと転じている。
また、季節から入り、「今日今宵」の楽しさを言い、その意義と、「あしたの生活」への希望を唱えて終って、「開会挨拶」としての結構はきちんと整っている。一見型破りに見えるが、型は踏んでいるのである。

 口から出まかせの破格のように見えて、じつはきちんと型を踏み、語の扱いの上にもコントロールの効いているところ、方代の歌の第一の秘密であろう。

 さらに、この詩、じつに品の良いことにも気づく。格が高い。子どもの詩もしばしばブロークンな語法を使うが、そこに格というようなものはない。しかし、方代のこの詩にはまぎれもなく格がある。

 「この楽しさはいづこより来る」という遊びの無邪気さ。「人間よしみの愛憎の世界」(憎の入っていることにも注意)のうすれつつある「この国の日常」のなかでの、「若い仲間」たちの親しい睦み合いの善意、愛情のそそぎあい。ボーリングという無邪気な遊びにわれを忘れる若い仲間たちへの、あふれるような善意と祝福――。

 「名も無き詩人」が、むつび合う若い仲間たちに祝福を贈るという空想。詩の格は、ここに生まれる。

 方代の生涯の歌を流れるこの通奏低音――人々へ向かう無邪気な善意と祝福――が、はっきりと自覚をともなっておもてに現われるようになったのは、最後の歌集『迦葉』においてであった。



     一、 ぜんまい


  あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている



 「廻って」は、「まわって」と読もうか。ぜんまい摘みの経験はないが、図鑑を見ると、胞子葉と栄養葉の二種類が春に芽を出すという。
俗に胞子葉をオス、栄養葉をメスと言って、オスの方は食べないそうである。やわらかい赤褐色の綿毛をあたまに被り、それを突き破って胞子葉はくるくる巻きの突起のような緑を、栄養葉は双葉をのばす。

 「五月の空をおし上げている」のは、オスの胞子葉だろうか。
山菜摘みが好きだった方代は、ぜんまいも摘んだにちがいないが、固くて食べられない胞子葉の方は摘み残しただろう。
朝毎に山歩きをしながら見ていると、ある日、綿毛をやぶって真新しいさみどりの色が突き出た。五月の明るい空のひかりのもとに。

 「あさなあさな廻って行くと」は、どこかねじれた語法だ。
「朝ごとに同じルートを廻っているが、今日行くと」を圧縮したような語の繋げかたである。だが、ここは「いると」ではなく「行くと」でなければならない。
「行くと」だからこそ「ぜんまいが五月の空を」以下が眼前に見えてくる。ぜんまいに出遭った、行きあった、という感じが生まれる。

 「どこを」を省略したこと、これがすごい。この省略によって、「あさなあさな廻っ」てゆくというわれの行動の軌跡がぜんまいのくるくる巻きと響き合い、おかしみをともなった様式性が歌に感じられるのだ。

 「あさなあさな廻って行くとぜんまいは」、ここで一気に「五月の空」へと大飛躍。小さなぜんまいのくるくる巻きのさみどりの、ぴちぴちとした生命力。それを頌えるこころが、さわやかな五月の全天をおし上げているかのようにうたわせる。




     二、 石の笑い



  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑いを耳にはさみぬ



 「かりそめにこの世を渡る」十二首中の最後の歌。一連中には次のような石の笑う歌もある。

 
  不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている


 「しののめの下界」も、不二の山が遠くに見える笛吹川の川原であると、わたしの目には見える。いや、笛吹川など見たこともないが、山がすぐに迫ったものさびた石ころだらけの川原があり、遠くの空にはうっすらと不二の嶺が見えているような、そんな場所がおのずと眼前に浮かんでくる。それは、方代のつくり出してくれる風景である。

 方代に「石」の歌は多いが、石が笑う歌も早くからあらわれていた。



  沈黙を尊しとして来たるゆえ石の笑いはとどまらぬなり
                  泥二号 昭和三十四年四月

  しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ
                寒暑創刊号 昭和四十六年九月



 昭和三十四年、方代四十五歳の「石の笑い」は、〈おもむろにまなことずれば一切の塩からき世は消えてゆくなり〉のような歌とともに現われた。〈塩からき世〉を生きる歌のなかでたった一つ嵌めこまれたような「石の笑い」である。

 それから十二年後、掲出歌の原型が生まれる。「しののめ」は、東雲とも書き、暁・明け方。枕言葉でもあるが、ここでは「明け方の」という意。方代の好む音韻の語であろう。ほかにも用例がある。愛着のまつわりを語に感じる。

 「下界」は、仏教語で人間界・欲界をさすという。
単純に高いところから見下ろしたあたりをいうこともあるが、ここではやはり天上界から人間界に落ちて立ったときという空想があるのだろう。笛吹川の石ころだらけの川原のようなところに、気がついたら立っていて、ふと耳に石の笑いが聞こえた。
そんなお話を作っているのである。

 昭和五十五年前後は『右左口』時代だが、歌集には採られていない。納得のできないところがあったのだ。



  しののめの下界に降りて来たる時石の笑いを耳にはさみぬ
      東山梨郡牧丘町加田幸治邸の歌碑 昭和五十五年三月

  しののめの下界に降りて来たる時・石の笑いを耳にはさみぬ
              かまくら春秋 昭和五十五年八月号

  しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ
                   うた 昭和五十五年十月



 さらに九年を経て、この歌が再びあらわれた。「突然の」を消し、「立ちて」を「降りて」に換えた。これで「立ちて」にあった物体の重さが無くなり、歌が「石の笑い」に似つかわしい軽やかさを帯びてきた。
「突然の」はもちろん、言うまでもなく不自然であり、無雑作すぎたのである。歌碑の歌としたのは、これで出来たと思ったからであろう。

 かまくら春秋三首の題は「石が笑っている」。「石の笑い」がようやく歌にこなれて、方代のこころをとらえている。
ところが、歌碑の歌から二、三カ月経て見ると、「降りて来たる時」の「時」の切れが決まらないことに気づいた。不安定なのだ。
ここが細くなっている。それで「・」を入れて補強し、しっかりと切れるようにしなければならなかった。これで説明的な調子をやや免れ、「石の笑い」がいくらか前面に出てきたようだ。

 そうしてまたさらに二ヶ月後、「来たる時」の間延びが「ゆくりなく」に置き換えられた。
しののめの下界に降りてゆくりなく石の笑ひを耳にはさみぬ――ついに歌は軽やかに飛翔する。
これはすばらしい歌の飛躍である。次元を異にする歌となった。

 「ゆくりなく」は、「ゆくりなし」の連用形で、不意に・思いがけなくという意味の古語。現代人が使うと気取りが鼻につくことの多い語だが、この歌ではぴたりと決まった。「しののめの」とよく調和する。

 まるで風のたましいが空を滑って降りてきたようだ。
天界のものとも下界のものともつかず、どちらをも自由に行き来できるようなそんなものが、軽やかに透明にすうっと降(くだ)ったとき、くすくす、くすくすと石が笑うのを小耳にはさんだ。
石はうれしいのである。
しののめの下界に滑り降りてきたものを知って。

   
                           『牙』2010.3初出

続『方代』論2009/11/14 13:55

 山崎方代没後、一周忌の夏、『山崎方代追悼・研究』(不識書院)が刊行された。一九八六年のことである。

 わたしもこれに、「鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩抄』から引き出されたもの」という、主として第一歌集『方代』を対象とした作家論を寄せたが、その末尾はこの種の文章としては破格の、終わったような終わらないような、フェイドアウトになっている。

 方代が方代となっていく過程はどのようなものであったのか、という課題を自らに課して書いたが、あれではまだ半分で、『方代』後半に色濃い高橋新吉や尾形亀之助との響き合いを書かなければならない、そのうち書こう、と思ったからであった。思い続けて、すでに十六年。

 この間に種々の方代論も現われた。この後にも現われるだろう。もう必要ないかもしれない。それでも、何か自分の始末がついてないようで、心が残る。そこで、このたびは、高橋新吉の言葉との響き合いを中心に少し考えて見ようと思う。

 全歌集年譜では、一九四八年の項に「この頃、詩人近藤東から尾形亀之助の詩集『障子のある家』を譲り受け、読む」「『新吉詩集』を耽読」とある。

 高橋新吉が、『高橋新吉の詩集』を出すのは、一九五〇年。『高橋新吉詩集』を創元選書から出すのは、一九五二年。この年、「工人」が終刊。方代の歌は、前年八月号を最後に、一九五四年六月まで全歌集「 資料」篇には見えない。

 歌の無い時期、方代は、この二冊の新吉の詩を読みこんでいたのだろうか。『方代』二百首中後半百首は、一九五四年から五五年夏にかけて作ったもののようだが、ここには高橋新吉の痕跡を随所に見ることができる。


  おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり


  高橋新吉先生の御説によれば神様も法則にして木の葉のごとし



 『迦葉』に収められた、死の数カ月前の作品である。尾形亀之助とともに、高橋新吉が現れている。方代のような歌人は、たんなる気まぐれや思いつきや偶然で、他の影響を受けるなどということはあり得ない。

 鈴木信太郎訳ヴィヨンと尾形亀之助と高橋新吉、そして甲陽軍艦は、方代の歌を形成していくための、ぜひとも必要な栄養素だった。その痕跡は、生涯にわたって見られる。方代は、それらを徹底的に吸わぶった。

 そこで、問うのである。『方代』刊行直前の方代は、とりわけ高橋新吉の詩が、なぜ必要だったのか。ばくぜんと疑問を心に置いて、全歌集資料篇をはじめから読んでいった。

 わたしは、この資料篇を読むのがじつに好きである。二十歳そこそこの短歌にのぼせた貧しい青年が、畑仕事もろくにしないで日がな歌会に出て行ったっきり、親の目を盗んでは金をくすねて会費に使い、昼も夜ものどが灼きつくように短歌のことを思っている。その希求の激しさに、おのずから新しい出会いの扉がひらき、青年はむさぼるようにそれを飲みほす。

 そこには、ほとばしるように歌うこころが、時に語のつながりの変な、時に文法まちがいの、歌の上に流れ出ている。



  父と母しかといだきて永久に土をたがやす吾が運命なり


  草ぶきの家屋の破れに露おりてたまたま燦めく星の明かりに
  

  十三人生まれしはらから十二人死してのこるは吾一人なり



 それぞれ、昭和十年九月、昭和十一年一月、同十一月の、山崎一輪時代の歌。すでに、父も母も目が不自由になっていた。
 
 歌は、父も母も盲いの貧しい家の一人子であることに、美しい昔話のような、自らをその主人公のようにも思いなし、そこに切実なる興趣を覚えて、うたいあげている。その叙事的な仕立てが、わざとらしさや自己陶酔の嫌みを伴わないのは、歌うこころにひたすらに言葉を乗せているからである。
 兄弟が十三人生まれて十二人死んだなんて、思わずわたしは年譜をめくり返してしまった。
 この嘘っぱちも、歌うこころが、その勢いに乗って、ちょうど筆が紙をはみ出してしまうように、はみ出したのである。
 有名な、ほんとの嘘、の機微は、ここにある。この歌うこころこそは、終生、方代の根っこだった。



  あれは地球の壊れる音ではないか。      
 
  茶碗の中に梅干の種が二つある。       




  ほしいままに地上に充ちているものもすでにおかされていると思う 

                 

  茶碗に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ



 前者は、高橋新吉詩集『霧島』の「不思議」という詩の「一」である。二行の間は、一行分あけてある。
 後者は、歌集『方代』から。隣同士に並んだ歌である。



  わが父は                  
  日まはりのかげに
  たたずみて
  猫とたはむれゐたまひしに、
  秋風の吹き初めしころ
  冷きむくろになりたまひて
  手には乾きたる一握りの土を持ちて
  ゐたまひたり。




  死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ



前者は、詩集『新吉詩抄』の「わが父」。後者は、『方代』。



  父上よ わたしが生きて居りますことはあなたのおかげで
  あります。何うか此のやうな見苦しい朽葉のやうな言葉を書きつらね  て 多くの人の目に触れるやうな事をするのをとがめないで下さい。  冷えた茶を啜り終るやうに私もやがて残生を急ぎ足で終ろうと思つ  て居ります。



  がぶがぶと冷えたるお茶を呑み終る如くせわしく終らんとする



前者は、詩集『雨雲』の「残生」。後者は、『方代』。

 高橋新吉の詩といえば、一九五〇年刊『高橋新吉の詩集』に収められた「日が照つてゐた//今から五億年前に」(「日」)、「留守と言へ/ここには誰れも居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る」(「るす」)というような詩が有名だ。のちに飯島耕一が「詩人の笑いとはこのようなものである」といいつつ、発表当時には「ちょっと禅坊主臭」く感じられたという(「形而上的詩人・高橋新吉」)これらの詩を、方代はむさぼるように読んだのであったろう。


 これ以上新吉の詩をいちいち引く事はさし控えるが、「皿の上にトマトが三つ盛られおるその前におれがいる驚きよ」「机の上にひろげられたる五本の指よ瞳に見えるものみな過去である」などなど、『方代』後半の存在・死・時間・空間をうたう歌は、新吉の詩に響き合うようにして生まれている。

 五億年も一瞬も同じ、存在の現前も消失も同じ、とするこのような超時間的な思考法は、『方代』前半百首で、ヴィヨンに刺激されつつ「方代」という語を歌に詠みこみ「方代」誕生をさせたのち、そのような歌の叙事化の方向にある種の矯正を加えたといっていいだろう。
 後半百首では、「方代」という語を歌いこんだ歌は、一首のみ。次のようなものであった。



  このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくべし



 「方代」から、方代を完全に引き剥がすために、このような否定の一段階が必要だった。そういえないだろうか。
 叙事化すると、歌がだめになることは、わたしたちのさんざんな試行錯誤による経験から明らかである。方代は、そこを乗り越えるために、超時間的な思考法、物の見方を必要とした。つまり、歴史ではなく、神話化へと向かうために。

 また、新吉の、禅語的な短簡な直観的な詩語も、引用に見るように、詩の一部を歌に仕立て直すような形をとりつつ、大胆な口語取り入れの呼吸を作り出していくのに役立っただろう。 
 しかし、高橋新吉の詩と山崎方代の歌と、遠望するとき、明らかな違いが見える。新吉の詩はあくまでも散文詩、禅などの教養もときに露出し、大上段から切って捨てるようなところがある。
 じつは、この切って捨てるような、突き放すような否定の調子も、『方代』の時期の方代には必要なこころの調子だった。
 だが、方代の歌はもともと、歌うこころの所産である。禅臭などはきっちりと避けた。その思い切った口語も、歌うこころによってこそ、すみずみまで血が通うのであった。


                                    (『方代研究』2002年?)

方代の修羅・・・第二十回方代忌基調講演 2006.9.22009/10/25 13:58

 方代さんが亡くなった後に、『山崎方代追悼・研究』(一九八六年刊)が不識書院から出ました。その中でわたしはヴィヨンと方代について書いたんですが、このたび何を話そうかと思ったときに、やはりこのヴィヨンということが頭に残っていまして、方代の「無頼」ということ、あるいは「修羅」ということについて話してみたい、考えてみたいと思いました。

 方代さんは、没後二十年もたつにもかかわらず、たくさんの方がこうやって集まる、そういう右左口村の「民衆」歌人、温かい、ふるさとを思わせるような歌人として知られているんですけれども、それと「無頼」とどこで結びつくのだろうか。確かに、定職にも就かないような暮らしをしてきたということはあります。

 とくに敗戦後の大変な時代に、「無頼」な日々を過ごしたということはあると思うんですけれども、しかし、ふるさとの歌人、温かい方代さんというのと、「無頼」の歌人というのと、どうもわたしの中でうまく結びつかないんですよね。

 「無頼」とヴィヨンという組み合わせはとても似つかわしいのですが、「無頼」と方代はちょっと齟齬がある。よくわからないという思いが残っていました。
 レジュメに、「方代の歌におけるヴィヨンの意味」と書きましたけれども、わたしが追悼集の評論で指摘したのは、次の三つです。


 一つは、ヴィヨンの「『追放流竄』の運命という悲しみ」における共感。これは玉城さんがあるところで、「戦争を山津波と同じ『自然』として受容するのであれば方代の嘆きはないのである」「戦争は『二つの星』とひきかえに、方代に永遠の『流竄』を宣告した」、そうお書きになっていらっしゃいます。
 戦傷者にされ、まともな人生を歩めなくなった方代、戦争によって人生を追放流竄された方代。そういう方代が、ヴィヨンの追放流竄に共鳴したのだろう、ということは考えられます。

 もう一つは、ヴィヨンの詩を読むことで、方代は、歌の中に〈方代さん〉という人物を演出登場させるようになった、そのヒントになった。たんに名前が気に入っていたことによる自然発生的なものではないということ。
 
 それからまた、方代の読んだヴィヨンは、文語に口語の入り混じった五七調の鈴木信太郎訳であったということ。

 こう整理をしてみたのですが、それにしてもやはり、わたしの頭の中にはどうしても納得できないものがずっと残っていたみたいなんです。それで、今日はその「無頼」ということをもう一度考えてみたいと。

 レジュメのⅡのところに書きましたけれども、右左口村方代おぼえがきという自筆のものがありますが、それにもヴィヨンの詩、ことに形見分けの詩が、歌の出会いになったと書いてあります。

 そらでいえるくらいになったというんですが、なぜあれほど吸わぶりつくすと言うくらいにヴィヨンの歌を読んだのか。読めたのか。
 フランスの、中世の、ずいぶん長い詩でしょう。暗記したくなるほど面白いとは、すくなくともわたしには思えません。そこまで読みこなせない。方代にはなぜそれができたのか。
 戦後の方代には、なぜそれほどヴィヨンの形見分けの詩が胸に響いたのか。今回、三つほど理由を考えてみました。

 一つは、方代の身体ということですね。方代が生まれたときに、方代の親父さんは六十五歳、逆算すると一八四九年か一八五〇年くらいになります。
 一八五〇年と言いますと、ペリーが来航したのが一八五三年なんですね。まだ江戸の時代。そこに書いていますように、フランスやドイツは二月革命があったり共産党宣言の出た年なんですけれども、明治になるのはそれからおよそ二十年もたってからなんです。ですから、父親の龍吉はほとんど江戸時代の人。江戸幕末期の山梨の寒村の農民であったということなんですね。

 お母さんは二十くらい年が違っていて、それでも、一八七〇(明治三)年。お父さんの一八五〇年生まれというのは、正岡子規なんかよりもうんと年上なんですね。

 子規は、明治元年の前の年、慶応三年生まれです。伊藤左千夫がそれより何歳か年上。斎藤茂吉とか、そのほか近代の有名歌人、みんなあれは明治の十年から二十年ぐらいまでの生まれであって、この親父さんのほうがうんと年上なんです。
 明治国家形成後の新体制下、新しい環境に生まれて物心がついた人と、この親父さんのように二十歳ぐらいまでを江戸時代で過ごしたというのでは、相当に大きな違いがあるはずです。
 
 レジュメには、「明治近代国家による、身体の国民化近代化」と書きましたけれども、明治になってから軍隊と学校、それから工場というものができました。
 明治に徴兵制が始まりますけれども、明治五年でしたか、その徴兵制度で国民皆兵になるわけなんです。最初のころは、長男は免除されるということもあったようですが、原則として国民皆兵。そこで徴兵して訓練するときに、武士と農民とでは身体の使い方が全然違っていたらしい。
 
 江戸時代の庶民、ことに農民は走れなかったそうですね。普通の人は走らなかった。走る武士や飛脚というのは、子供のころから練習していて、特殊技能らしいんです。
 手と足をこう、わたしたちは左足を出すときには右手を前に振ります。そのような歩き方ができなかった。右足を出すときには右手、左足を出すときには左足を出して、ナンバ歩きというそうですが、だいたいそういうふうにして歩いた。
 
 つまり、軍隊の行進ができなかった。いくら訓練しても、行進ができない。回れ右もできなければ匍匐前進もできない。とにかくあらゆる兵隊らしい動きができなかったらしいです。それで、フランスかどこかから先生を雇って教え込んだらしいんですけれども、どうしても駄目だったと。それで、これは子供のときから教えなければいけないというので、小学校で体育の時間ができたらしいですね。

 小学校で、行進とか回れ右とか、そういう西洋式の身体の使い方を教えこんだ。西洋式の身体の使い方というのは、中心点があって支点があって、そして身体を捻って使うらしいです。日本式の身体の使い方には、そういう支点というようなものがない。これは武術家がそんなふうに言っていますね。全く身体の使い方が違っていた。

 ですから、二十歳まで江戸時代で過ごした方代の親父さんは走れなかったのではないかと思うんです。走れない親父さんに、子供の方代が、毎日の生活のなかでいろいろなことを教えてもらう。
 うさぎの糞が何かの薬になるとか、さまざまな生活の知恵を教えてもらうわけなんですけれども、そのなかで無意識のうちに親父さんの江戸時代の身体作法といったようなものも身にしみ込んでいったはずです。
 
 もちろん小学校に行っていますし、体育の時間もあるわけですから、方代が走れなかったとはまさか思いませんけれども、家庭で身につけた身体作法と学校の体育で教えてもらうことには若干のギャップがあっただろう。
 寒村の小学校だから、そんなにやかましいことはなかったかも知れませんが、軍隊式の身体の使い方には必ずしも器用ではなかったのではないか。


 それともう一つ、学校、軍隊、工場は、抽象的な時間による身体の管理がなされる場所です。
 工場労働者は、毎日、朝九時に仕事が始まって、昼になったら鐘が鳴って、一時間休んでというぐあいに、抽象的な時計の時間で、分秒単位で管理されます。ところが、農民というのは、いつ種を植えるか、いつ肥料をやるか、いつ稲を刈るか、決めるのに、具体的にその年の稲の育ちぐあいとか、その年の天候とか、総合的に見ながら決めていくわけですね。抽象的な時計の時間で決めるわけにはいきません。

 農民の身体に入っている時間感覚と、工場労働者のそれとはまったく違います。だから、産業革命後の資本主義社会では、抽象的な時間による身体管理を子供のときから学校で訓練して、有用な工場労働者を作り出していかなければなりません。

 ところが、方代はこれも駄目だった。戦前、古河電鉄かなんかに勤めたけれども、すぐに辞めた。五分くらい遅刻するものだから、出社しないでどこかで遊んで、時間になったら帰ったという話も残っていますけれども、そういうふうなサラリーマン、工場労働者になることが、方代にはなかなかできなかったわけですね。

 それはやはり、江戸時代の身体作法をもった農民である父親龍吉に育てられた方代の身体といったようなものがあったからではないか。とことん、こういう近代的なものに馴染まない身体がまずそこにあった。軍隊生活が馴染まなかったというのも、一つにはこの問題があるだろう。

 方代のみならず、そのころはまだ、田舎の農民にはそういう人が何人もいたと思うんです。詩人の井上俊夫さんに『初めて人を殺す』という本があります。これは岩波現代文庫に入っています。井上さんもやはり農民出身で小学校卒の学歴ですが、詩や文学が好きで、独学で勉強していた。昭和十八年に二等兵で入隊していますが、中国大陸で初年兵教育を受けたときのことを書いているのが、この『初めて人を殺す』という本です。

 同じ仲間に、馬場二等兵がいた。これはグループのなかで一番とろい人です。小学校を出てから百姓一筋でやってきた人で、井上二等兵と同じ農民出身だから親近感を感じているらしく、手紙が来たといっては読んでくれ、手紙を書いてくれと、頼まれる。

 馬場二等兵の家は、お父さんが早くに亡くなって、お母さんと妹の三人暮らし。母親は文盲で、妹が手紙を書いてくるのですが、「お母ちゃんと二人で、兄ちゃんが無事で帰ってくるのを首を長くして待っています」と、そんなことばかり書いてある。

 これでは具合が悪い。御国のために頑張ってくださいと、一言付け加えてないと、お前のところは一体どんな銃後の生活をしておるのかと注意されるそうなんです。馬場二等兵は馬場二等兵で、「おかんの顔を見たい」「田圃がどないになってるか気にかかって仕様がない」と、そんなことばっかりを手紙に書いてくれと頼む。それでは困るわけですね。検閲が必ず入るわけだから、天皇陛下のためにわたしは一生懸命頑張りますと、最後に付け加えないといけない。

 また、字が読めないものだから、一回読んでやった手紙を何回も読んでくれ読んでくれとやってくるわけです。仕方なく読んでやると、時と場所もわきまえずに大粒の涙を流して泣く。そんなのを見られた日にはビンタです。読んでやった方も、読んでもらった方も両方ビンタですよ。あぶなくてしようがない。

 それに動作がとろくさくて、へまばかりする。軍隊式に身体が動かない。夜中に非常呼集がかかると、闇の中で自分の服装を整えなければいけないんですが、馬場二等兵は間違って人のものを着たりするから、となりの兵隊は困るわけですよ。結局列に並ぶのが最後になってしまって、またビンタを張られるわけですね。この馬場二等兵が、一番リンチを受けていたそうなんです。

 ある晩、夜中に非常呼集がかかった。営庭に並ばされて、行進していくと、炊事当番かなんかしていた中国人の捕虜が日本の兵隊服を着せられて、木に縛りつけられていた。リュウという名前だったのですが、それを今から、初年兵教育の仕上げとして銃剣で突けというわけです。刺突訓練というんでしょうか。中国大陸ではだいたい組織的にこのような初年兵教育の仕上げが行われていたらしいです。

 だいたい捕虜をそんなふうに扱っては絶対にいけないわけで、国際法の違反です。けれども、日本の軍隊は、中国大陸では捕虜をとらないと決めていた。つまり、殺す、処分するということ。同じ処分するなら有効利用をと、各部隊に下げ渡して、初年兵教育の仕上げの刺突訓練に使った。将校教育の仕上げには、下士官が一人ずつ日本刀で斬首したそうです。それが、組織的に行われていた。

 で、一列に並んだ初年兵に、さあ誰が一番に突くかと、隊長が言うわけです。当然みんな尻込みをします。最初に来た者からやらせてはどうでしょうと教育係が言うと、隊長が「いや、一番最後に来たやつにやらせろ」と言う。最後に来たのは、馬場二等兵なんですね。

 リュウは「私、殺す、いけない。私、殺す、いけない」と叫び、馬場二等兵は「嫌だ、絶対に嫌だ、それだけは堪忍しておくなはれ」と梃子でも動こうとしない。

 誰か最初に行くやつはいないのか、幹部候補のやつはどうした、そう言われて、幹部候補生を目指している者は点数を稼ぎたいので、渋々ですが、行くんですね。わあっと言って、突進して、太股かなんかを突き刺すわけなんです。

 そうやって一人一人木に縛りつけられている捕虜を突いてゆき、井上二等兵も突きます。ところが、馬場二等兵は最後まで頑強に抵抗して動こうとしない。これでは教育係としては面目がたたないので、どうやらこうやら手をそえて、息絶えた捕虜をかたちばかり突かせたということです。

 こういう話を、じつはこの夏、ある大学の集中講義で話しましたところ、そこに中国からの留学生がいました。中国人は、この初年兵教育に捕虜を使ったということを誰でも知ってるそうです。

 ところが、わたしたちはほとんど知らなかった。少なくともわたしは、この本で初めて知りました。いま、『蟻の兵隊』という映画が来ているそうですが、そのなかでも初年兵教育の仕上げに捕虜を使ったことが一つのテーマになっているようです。(後注・捕虜だけでなく、スパイの嫌疑をかけられた村人や女学生も犠牲になったという)。

 確かに戦争なのだから、人を殺すということはあるわけなんですけれども、訓練の仕上げに、無抵抗の捕虜をこのように殺して、それで度胸をつけさせる。つまり、一線を踏み越えさせるわけです。それが手始めで、病みつきになって、快感にもなる、やめられなくなる。日頃、リンチを受けている兵隊は、中国人の民家を襲って、窃盗し、強奪し、強姦する、そういうことが快感になるということがあるらしいです。

 方代がいたのはチモールですから、状況はまったく同じとは言えません。しかし、将校としてチモールにいた前田透の文章を、田澤拓也さんが引用していましたが、上陸すると、あたりはひっそりとしていて、荷物を担ぐ原住民のほかには住民の影一つなかったと書いてあるんですね。
 ええっと思うんですね。原住民は、そうすると住民ではないのかと。そういう意識をもった日本軍がいるわけです。

 方代が、実際に戦地では病院にいる時間が長かったとしても、少なくとも四年間のうち半分は南方の戦場にいたわけですから、何があったかわからない。どんなことも起り得たと考えたほうがあたっているのではないか。

 「追放流竄」というのは、方代が戦傷者にされてしまったからではなくて、むしろ自分が加害者だったからではないか、加害者の思いがあったのではないか、あったはずだ、と、『初めて人を殺す』のようなものを読みまして、わたしは思うようになりました。

 方代は、この馬場二等兵ほどとろかったとは思いませんけれども、もう少し要領良くやっただろうと思うんですけれども、似たような身体感覚をもった方代が、実際に人を殺すという加害者の立場で過ごした戦争の後、非日常から日常の世界にもどってきたとき、その記憶にどれくらい耐えられるんだろうか、と思うんです。
 馬場二等兵は、最後に嫌々突いたのですが、誰よりも耐えられない思い出になっているはずだと、容易に推測がつきます。井上二等兵も、その最初の殺人が忘れられなくて、誰にも妻子にも言えないできた。(後注・ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』の主人公もそうだった)。

 そういう目で、方代の歌を見てみました。戦争中の歌はありませんが、戦争から帰ってきてから歌が出てきます。



  甲板の結べる霧ににぶき重き額をおしあてなどして支へたり                                『一路』昭和二十三年一月号
  食い飽きしナナスカラバを尚食いて郷愁の言の雨をふらしき                                同三月号
  ゴム林をゆりし自決の一弾の短き重き音のまぼろし
                           右同



 こういう戦争で苦労した歌、いわば被害者としての歌が出てくるんですけれども、昭和二十三年四月号の、これは何だろうと思うんですね。



  死にたれば額の際のなびきたる赤き生毛にふれてもみたり
  
  身震ひをし乍ら急ぐ手の中に温められしはライターのみなり



 四月号には、この後に〈幼児の頭をなでて戦の終りたる日を聞くはせつなし〉〈交はりの線をはづして批評するかなしき垢を心につけて〉がありますが、右の二首はどうしても続けて読みたくなります。

 死んだので、額際のなびいている赤い生毛に触れても見た。身震いをしながら急ぐ手の中に、ぎゅっと握って温められていたのはライターのみだった、という。
 「死にたれば」というのは、何なのだろうと思うんです。様々な状況が考えられますけれども、一つの可能性としては、殺すつもりではなかったけれども殺してしまったというふうな場面とも考えられる。

 それから、「赤い生毛に」という、この赤い生毛って何だろうと思うんですよ。赤毛の人かな。日本人じゃない感じだなと思うし、謎の歌ですよね。よくわからない歌です。
 このような歌があるということですね。これ以外に、方代の歌に自分が殺人をしたと読めるような歌は見つからない。
 そういう目で見れば、これが一番そう見える歌。正規の戦闘とは別の出来事のように見える歌です。

 ヴィヨンは司祭を殺して、窃盗もして、そういう犯罪者ですが、方代も俺も人殺しだと。
 部隊の一人として戦闘中には当然誰かを傷つけている可能性が高いわけですが、それは兵士としての義務であり、「正義」です。
 しかし、先ほどの初年兵教育の話のように、戦場では殺す必要のない殺人がしばしば行われている。戦闘が終わったあと、民間人の家に押し入って強奪したり、強姦したり、そんな話は日常茶飯でした。
 とくにチモールでは輸送ルートが絶たれて、食糧がなくて飢えたようですから、何があってもおかしくない。そんななかに方代もいて、右のような謎めいた歌がある。

 そういうふうに考えてみたら、ヴィヨンが人殺し、窃盗犯でありながら、偉大な、何世紀も後に名が残る詩人であり得た、というのは、方代にとっては、大きな救いだったかもしれないんです。

 方代には、やはり自分は人殺しだと、あるいは犯罪者だというような思いが・・・まあ、だいたいの人は戦争中のことは戦争中のこととして、割り切って、黙って過ごして、善良な市民として戦後を生きていったのでしょうけれども、腹の中ではそれは絶対に消えない記憶として残ります。

 香川進という歌人がいますけれども、この人は将校でしたが、『氷原』という歌集に歌が残っています。生きて帰れると知っていたらやらなかったことがたくさんあると。やはり、同じような状況だろうと思うんですね。

 自分は人殺しだ、犯罪者だ、まともな道を踏み外した人間だ、こうなっちまったからにはもっと悪くなってやる、そんなふうに思っても仕方がない。思うほうが、戦中から戦後への切り替えを器用にやるより、自分自身のなかに齟齬が起きない。
 自分は、戦争なんかに引っ張られて人非人にされちまった、人非人になっちまったからには、この道を行くところまで突き進まなければしようがないんだと。
 そのとき、たった一つの杖は歌である。歌が救いとなっている人生ですね。そういう生き方を教えてくれたのが、ヴィヨンだったかと思うんですね。

 ヴィヨンの詩集を手に入れたのは昭和二十四年一月のようですので、それを読んで、歌を作って誌上に出てくるのは、二月か三月くらいになります。とくに、昭和二十四年三月くらいになりますと、もう歌の勢いが違ってきます。
 はっきり自分の位置は犯罪者、ならず者のほうですね。



  汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく



 「汚れたるヴィヨンの詩集をふところに」、すなわちヴィヨン詩集を杖とし、歌一筋に、歌だけをふところにして、「夜の浮浪の群」つまり市民の生活ではなくて、市民外、欄外の生活、まっとうな人生ではない、これこそは無頼といっていいわけなんですが、そういう生活を積極的に選んで入っていくのだという勢いが、この歌には感じられます。

 これは、自分は戦傷者で、まともな仕事ができない、仕事を見つけることができないので、やむなく浮浪者の群に入っていかざるを得なかったという、そういう消極的なものではなくて、積極的に自分は浮浪者の群に入っていくのだと、そういう勢いのようなものが、レジュメにあげた昭和二十四年三月あたりの歌からは、はっきりと見てとれると思います。


 
  ゆく所までゆかねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ                             『工人』昭和二十四年四月



 人非人になってしまったからには、人非人の道を最後まで貫くよりほかしようがない。
 歌を手に握りしめながら。「ゆく所までゆかねばならぬ告白」は、歌一筋という以上に、人非人の道を貫くと読んではじめて「ヴィヨン」が生きてくる。



  十月三十日のあけのわさびの強い香よ人間に近い泪をながす                              『工人』昭和二十四年十一月



 「わさびの強い香よ」というのは、あのわさびを食べると鼻がつーんとして涙がぼっと出る、あの感じですね。「人間に近い泪をながす」、自分は人間ではないんですね。一人の「修羅」なわけです。

 このように、もともと軍隊というようなところにはまことに馴染みの悪い身体をもった方代が、戦争にむりやり引っ張られて戦傷後遺症を負ったのみならず、人非人にされちまった。
 まともな人間の道を踏み外した者であるという記憶をもち、その身体の中の記憶を器用に割り切ることができない戦争帰りの男。
 軍隊に馴染みのわるかった身体だからこそ、いっそうそうである。そういう身体が、戦中戦後を齟齬なくおのれを貫くことのできる生き方、それを方代はヴィヨン詩集に教えてもらったといっていいのではないでしょうか。


 さらにもう一つ、ヴィヨンの詩から獲得したものは「復讐と贈与」ということだと思います。
 復讐の表出の仕方といいましょうか、復讐、怒り、「何で俺をこんな人殺しにしちまったんだ」という怒りですね、その表出をしていいんだということ。
 軍隊に馴染みのわるかった身体、その身体の底から嫌だった軍隊生活のなかで、リンチを加えた上官や、さまざまな許せない出来事があったことでしょう。それらに対する復讐の心の真っ直ぐな表出、それがこの昭和二十四年のヴィヨン読後からはっきりと出てきています。

 広中淳子という名は、方代が慕情を捧げた相手としてよく出てくるんですけれども、今回、高村寿一さんがその著書で広中淳子の歌を掲載してくださっているのを見て、はっとしました。
 広中淳子という名から想像するような美しいおとめの歌ではないではないか、と思ったんですね。
 まったく、復讐と哀願、呪詛の歌ですね。騙した男を許せない、その哀願と呪詛をうたっている歌です。



  君が娶る春の夜にして七度の七十倍までの寛き心なく
  
  里遠き深夜の窓に哀願と呪詛をいだきて歩みよりたり
  
  復讐は身にかえりくることと知りながら思い描きぬ硝子窓透きて                  


 歌は拙い、歌を始めたばかりかなというような感じの歌ですけれども、これは絶対に裏切った男を許すことができない、復讐してやる、呪ってやる、そういう歌なんですよね。
 思い切った復讐の表出をしています。これを見たときに、方代がなぜあんなにまで広中淳子を慕って、というか、会いたいと、会いに行こうとまで思ったのか、わかったような気がしました。
 
 まさしく同じ魂をもっている、「広中淳子の、あなたの心は俺しかわからないよ」といったような思いだったんだろうな、この暗い怒りをわかってあげられるのは俺しかおらんと、そういうふうに思ったんだろうなと思うんですね。
 同じような気持を、ヴィヨンが形見の歌で書いています。とびとびに部分的に引用しますと、



  恋愛の獄舎(ひとや)の覊絆(きづな)を 断ち切ろうと
  思ふ気持が 強く浮かんだ。

  女に対する復讐を 恋愛の
  あらゆる神に 祈願して、
  恋の痛手(いたで)を和(やはら)げる 祈りを献げた。

  五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。
  所詮、この身は 恋愛の聖者の中に
  名を残す 殉教者(じゅんけうしゃ) 恋の使徒。

  一(ひとつ)、さきに語つた わが恋人に、
  あまり邪険(じゃけん)に 棄てられて
     ・(略)・・
  俺は 自分の心臓を 手筥(てばこ)に入れて女に贈る
                                   (鈴木信太郎訳)



 この形見の歌は、窃盗してとんずらするというときに書き始めるわけなんですけれども、その出だしに、今まで邪険に扱われてどのようにしても振り向いてくれなかった女に、思いを断ち切るちょうどよい潮にするというんですね。

 「五体はこのまま生きながら、女を思うて俺は死ぬ。所詮この身は恋愛の聖者の中に名を残す殉教者恋の使途」、そう言って、関わりのあった一人一人に、こういう形見をおまえに残そうとあげていく。それで形見の歌なんです。

 この女には、「あまり邪険に棄てられて・・俺は自分の心臓を手筥に入れて女に贈る」と言っています。好きで好きでたまらなくて、哀願するのに、邪険に「あんたなんか死んでしまえばいい」と言われて、とうとう自分は断ち切るんだと。そのあなたに愛憎こもごもまじった復讐として「心臓」を贈る。

 どうも、わたしが思うには、方代には広中淳子以前に、何かそのようなことがあったんじゃないかと思うんですよね。想像ですけど。
 たとえば、



  自首に立つドンホセにあらず墓山を降りて夜の海に近づく
                            『工人』昭和二十四年三月
  可愛さあまって憎き心の行動を押えんと白夜の駅に下りたつ                                『工人』昭和二十四年五月



 ドンホセというのはカルメンの恋人で、カルメンがどうしても「うん」と言ってくれないものだから、殺すんですね。その殺したドンホセが自首しに行くんじゃないんだ、逃げる、ということなんですね。
 それから、昭和二十四年七月には、



  そむきたる汝には絹の臀の重みにたえる紐を送らん



 自分に背いたおまえには、自分で首を吊るための絹の紐を送ってやろうというんですね。これは、形見の歌の中からヒントがあるんですけれども。
 しかし、ヴィヨンを読んで、その熱に浮かされてこんな文学的虚構をしたというより、多分、方代には、広中淳子以前にこういう、好きで好きでたまらなかったのに邪険にされた経験があるのではないのかなと思うんです。
 広中淳子も、男に騙され、哀願と呪詛に身のやるせない、追いつめられた者。同じ魂を発見した思いで、あんなに執着したのではないかなと思うんです。これは推測にすぎませんね。証明はできないわけなんですけれども。


 もう一つ、方代がヴィヨンの形見の歌から得たもの。方代は、この詩をそらで言えるようになったよというんですね。なぜ、それほど形見の歌が好きだったか。
 長いんですよ。ものすごく長い詩です。八行が四十節ある詩なんですが、これはそこに「復讐と贈与」と項目を立てましたけれども、「復讐とは、贈与の一形態である」ということを、方代は形見の歌から読み取ったんだなと、わたしはこの年になって形見の歌を読み直して、ようやく理解ができました。

 復讐するということは、贈り物をプレゼントすることと同じなんですね。御礼参りと言いますけれども、確かに御礼参りなんですね。しかし、お礼参りっていうのにはやはり、力には力でという感じがありますけれども、そうではなくて、プレゼント。
 で、そのプレゼントの仕方がヴィヨンはたいへん面白いわけなんです。わたしを可愛がってくれたお父さんには天幕(後注・天幕や陣幕を贈るのは自己を騎士として自負して残すのだという)をあげましょう、恋人には自分の心臓をやろう、そんなふうに関わった人にプレゼントの品々をあげるんですが、それがみんな空手形なんですね。自分がもってないものばかり。
 おそらくこの当時の人が、この形見の歌を聞いたらワッハッハと言って腹を抱えて笑っただろうと思われるんですね。
 非常に皮肉のきいたものなんです。相手を嘲弄したり、今ならギャグというんですか、皮肉があって、しかもそのなかに愛情もこもっていて、形見の品々をつぎつぎにあげていくことで意趣返しにもなるというものです。

 たとえば、屠牛夫(うしごろし)のジャン・トルーヴェには『羊』の看板に『牝牛』看板を添えてやると。こんな看板が中世の街路には目印としてあったようです。『牝牛』の看板には、「強力無双の百姓が背中に背負ってる」絵が描いてある。それを遺贈するというんです。もちろん、自分のものではありません。「若し、百姓が渡さない時は、手綱で首を絞め 絞め殺しても 苦しうない」。絵に描いた牛を渡せるわけも、殺せるわけもない。

 わたしは、この四十節もある形見の歌のおもしろさを、注釈があったってよくは読みこなせないのですが、それを方代はちゃんと受け取っているわけです。そうでないと、全部そらで言えるくらいに読めません。いったい、方代は、学者でもないのに、どうしてそこまで形見の歌を読みこなせたのか。
 それは、この形見の歌に通底している精神、復讐するとは贈り物をあげるということなんだということ、それを直観的に読みとったからにほかなりません。たとえば、つぎの歌は随分あとからのものではありますが、



  山椒の棘を生かせし摺り粉木を仕上げて形見の品に加える



 摺り粉木なんかも形見の歌に出てくるんですが、これは山椒の棘を生かした摺り粉木ですから、とげとげがあるんですね。とげとげのついた摺り粉木ですよ。これをプレゼントするんですね。誰にするのか。握ったらちくちくと痛いですよね。こういうふうな贈り方、まさしくこれがヴィヨンの贈り方なんです。
 ヴィヨン読後の昭和二十四年三月にもつぎのような歌があります。



  おから寿司水と一緒にのみおろし売られゆく娘にマフラを投げる



 有名な歌ですが、これもマフラーなんか持っていやしないのに、マフラーを投げると言うわけなんです。プレゼントですね。自分はこの娘にこういうふうにあげたい、あげるぞと。同じ月の歌ですが、
 


  父知らぬ子を産みおろす若き娘に生の卵を一つ置いて去る



 そんなことしやしないのに、しかしまあ、そう言うわけですね。これはやはり自分の形見、プレゼントだと思うんです。必ずしもここには復讐は入っていませんけれども、そういう憐れみがプレゼントとして表現される。そして、自分を邪険にした者には「そむきたる汝には絹の臀の・・」となるわけですね。

 このような、復讐とは贈与の一形態だということ、このような復讐の仕方を、方代はヴィヨンから学びました。
 復讐というと、ふつう「憎悪」、憎しみを相手に返すんですが、恋の恨みのみならず、戦争なんかに引っ張り込んで俺を人殺しにしちまいやがってという、その恨み、呪詛や怒りをあらわすのに、贈与の形であらわしていく、そういう表し方を、ヴィヨンから方代は受け取ったんですね。

 ヴィヨン読後、方代はそれをただちに理解した。呪詛や怒りでいっぱいになっていた方代には、それが必要だったからです。
 そして、この贈与によってする復讐が、長い時間をかけて、方代の晩年にはまさしく贈与そのものになっていくわけなんですね。怒りが昇華されていくわけなんです。



  欄外の人物として生きてきた 夏は酢蛸を召し上がれ



 欄外の人物ですから、自分はまっとうな市民ではない、外側にはじき出された人間として生きてきた。当然、その恨みもあれば怒りもあるわけなんですが、それをすべてひっくり返すかのように「夏は酢蛸を召し上がれ」と贈与するんですね。
 「召し上がれ」というこの言い回しも、じつはヴィヨンの形見の歌のなかにあるんですが、これもプレゼント、贈与です。

 このような、怒り、復讐、そういったようなものを機知によって哄笑とともに相手に返していく。
 憎しみ、憎悪ではなくて、笑いとともに快活に相手に返していく、そして最後には笑いだけになるという、この形。
 方代は、最後にはそこまでもっていったんだなというようなことが、わたしには今回わかった、感じ取れたわけなんです。


 このような方代の傍証のような意味で、レジュメに、首の歌をすこしあげておきました。



  ギロチンはまずギロチンに生きながら己れの首をはねはぶかしむ                                  昭和三十年一月
  がむしゃらにゆかねばならぬがっしりとこの男には首がないのだ                                   昭和四十二年十月


 
 昭和三十年、もう徹底的に悪くなってやるという形で逃亡していって、「己れの首をはねはぶかしむ」。これは過去を振り向かない、きょろきょろして迷うような首を切らせたという意味もあると思いますが、一つの自己処刑、自己処罰ということも考えられます。
 昭和四十二年になりますと、首のない男が登場してくる。昭和四十四年には、首のない男が何首も出てきます。
 ところが、昭和四十八年四月になりますと、首が出てくるんですね。



  ずっしりと両肩に首をめりこまし季節の朱い花買っていた



 季節の朱い花を買うというのは、何か恋人にあげる花のような感じですが、昭和四十八年は『右左口』が出た年です。昭和五十年ではまだ「首のない博徒がひとり住んでいて」とうたうんですけれども、昭和五十三年三月になると



  両肩に首をがっしりとうめ込みし男が山を降りて来にけり
 


 首ががっしりとついて、振り向かなくてもいいような、振り向きもしないようにがっしりと首を埋め込まれた男が山を降りていくんですね。このような、犯罪者としてギロチンで首を刎ねられるべき男の生涯にわたる叙事詩といったことも、見てとれます。

 今回、もういちど方代におけるヴィヨンの意味を考えてみまして、戦争被害者としての方代ではなく、加害者としての方代という視点から見て、方代の修羅、方代の無頼といったことがいくらかは合点がいったというふうな思いをしております。

 そして、復讐とは贈与の一形態であるということ。ヴィヨンから学んだ復讐の表出の仕方は、笑いとともにプレゼントすることであった。これを、血を血で洗い、憎悪を憎悪で洗う戦争から帰った方代が掴んだことの現代的意味はまことに大きいと思われます。
 どうも今日はありがとうございました。