黒瀬珂欄による・・・・2008/09/03 08:03

  曇りぞらおほにし垂りて陸橋のうえなるわれは独りわらいす   
                                   『白微光』昭和62年刊



「おほにし」とは「ぼんやりと」の意。万葉集の柿本人麻呂の歌などに用例がある。掲出歌の風景はおそらく、どんよりとしたスモッグか粉塵が垂れ込めた街なのだろう。あえて「おほにし」を旧仮名で用いた点に、ふしぎなたゆたいが感じられる。薄暮の下、一段高い陸橋を舞台のように感じたのか、ふと自分だけの世界に入りこみ、独り笑いをこぼしたのだ。重々しい現代都市の空と、時間を越えた古語の交錯。それはそのまま、現代女性と古代女性の交錯でもある。


         (黒瀬珂欄著 365日短歌入門シリーズ『街角の歌』ふらんす堂、2008)

  【お断り 黒瀬珂欄の「らん」の漢字は、本当はさんずいです。どうしても反映できな
  いので、しかたなく仮に「欄」の字を使いました。著者に失礼をお詫び申し上げます】

街上遊歩 (20) 鏡の中の顔2008/09/08 13:30

 十二年ほど前の秋、アメリカ南部を旅行したことがある。不況とエイズの不安が広がっていたころで、メンフィスの街は、なかばゴーストタウンのようであった。

 アメリカ南部のたたずまいは、映画「風と共に去りぬ」で見たとおりのもので、黒人への人種差別も、サンフランシスコなどとは違って、肌身に感じられた。郊外の巨大スーパー・マーケットの駐車場で、廃車に近いポンコツ車に寄っていくやつれた身なりの黒人のおばさんが目に残っている。

 南部の大学を卒業した友人の旧交を温める旅に同行したので、友人の友人たちの家を途中に訪れたが、そのいかにも南部の白人女性らしいふくらんだ袖のこぎれいなドレスが、先程見た黒人のおばさんと対照的に感じられた。

 宿泊したのは、夫が歯医者をしている家で、二階の子ども部屋のベッドを使わせてもらった。わたしは英語はだめだが、その友人の友人は賢明な心根のやさしさの感じられる女性で、一夜の歓待を受けて眠りについた。アメリカに着いて四泊目くらいの夜であっただろうか。

 明くる朝、起きて洗面所に行くと、鏡に見慣れない顔が映っている。
 「なに、この中国人は。」
 声が口をついて出そうなくらい、目を剥いた。一瞬のち、それが自分の顔であることに気づき、さらに愕然とした。

 白人男女のなかに交わってほんの数日しかたっていないのに、すっかり白人に自分を同化させてしまって、黄色人種の顔を持っていることを忘れている。

 しかも、鏡の中に黄色人種特有の顔を見出したとき、日本人ではなく、なぜ中国人だと思ったのか。自分でもわからない。


  真夜なかにがばと起きたわれはきちがひで罅(ひび)入るほどに鏡見てゐる


 一九三〇(昭和五)年に刊行された前川佐美雄『植物祭』中の一首である。翌年には満州事変勃発、十五年戦争へと傾いていくが、その前夜の不安をうたいとった歌集の、鏡の歌が印象深い。

 ときとして鏡は、自己の無意識のすがたを映し出す。佐美雄は、分裂し、まとまりのつかなくなってしまった「われ」の姿、ひいては「日本」の姿を、狂気のように見定めようとしている。

 あのアメリカでの朝の鏡も、わたしの(わたしたちの)無意識がふと引きずり出されたということなのか。



                                (西日本新聞2003.10.10)

街上遊歩 (21)アジアの背なか2008/09/11 20:58

 わたしが大学に入ったころの博多の街は、欧米人らしき外国人が多かった。天神の交差点で信号待ちをしていると、かならず道の向こうの人群のなかに肌の色の違う外国人が混じっていた。それがいかにも都会に来たというおしゃれな感じがしたものだが、思えば板付基地があったからで、博多はそのころ基地の街だったのだ。

 入学してようやく授業にも慣れはじめた一九六八年六月二日、九大本学に建設中であった電子計算機センターに米軍飛行機が墜落、全学挙げての基地撤去運動が始まり、これが七〇年安保闘争とも絡み合って激しい学生運動の時代にはいる。

 全共闘の渦中にあったキャンパスではうかつにも気づかなかったが、板付基地撤去はほどなく成就したのであった。やがて、街なかに外国人の姿を見なくなった。

 それから二十数年を経、ひさしぶりに博多の街に降りると、地下鉄の車窓をはじめ、いたるところにハングルや略体漢字で案内標識が書いてある。東京に住み慣れた目からすると、東アジアの一部といったイメージが街全体に浸透して、エキゾチックでさえある。

 これは福岡市の市政努力にもよるものだろうが、子どものころ、台湾や琉球といった言葉をしばしば耳にした、その東アジアとの近しさが思い出されもしたのである。

 仕事を終えた翌日、川のほとりだったとおもうが、街を歩いていて、福岡アジア美術館という斬新な建物に出会った。

 入ると、東アジアの近代絵画が展示されている。絵画の近代化としての油絵をどのように消化するか、アジアの諸地域でそれぞれに苦心してきたことがわかる展示で、そのこなし方の違いを面白く見ていくうちに、ある絵に出会った。

 上半身はだかの男が、膝の上の胡弓に覆いかぶさるようにして抱いて弾いている絵である。曲の感情のきわまるとき、おのずから折り曲げ伏す背なかが画面を占めているのだが、その胡弓に没頭する青黒い陰鬱な背なかは、むせび泣いているかのように震えている。

 アヘン戦争以来、幾重にも蹂躙されてきた人々の苦しみと痛みが、祈りをけっして手放さない激しさをもこめて、その背なかには戦慄していた。

 画家の名も絵の題もすっかり忘れたが、画面はいまでも眼前に呼び出すことができる。


                                   (西日本新聞2003.10.11)