街上遊歩 (21)アジアの背なか2008/09/11 20:58

 わたしが大学に入ったころの博多の街は、欧米人らしき外国人が多かった。天神の交差点で信号待ちをしていると、かならず道の向こうの人群のなかに肌の色の違う外国人が混じっていた。それがいかにも都会に来たというおしゃれな感じがしたものだが、思えば板付基地があったからで、博多はそのころ基地の街だったのだ。

 入学してようやく授業にも慣れはじめた一九六八年六月二日、九大本学に建設中であった電子計算機センターに米軍飛行機が墜落、全学挙げての基地撤去運動が始まり、これが七〇年安保闘争とも絡み合って激しい学生運動の時代にはいる。

 全共闘の渦中にあったキャンパスではうかつにも気づかなかったが、板付基地撤去はほどなく成就したのであった。やがて、街なかに外国人の姿を見なくなった。

 それから二十数年を経、ひさしぶりに博多の街に降りると、地下鉄の車窓をはじめ、いたるところにハングルや略体漢字で案内標識が書いてある。東京に住み慣れた目からすると、東アジアの一部といったイメージが街全体に浸透して、エキゾチックでさえある。

 これは福岡市の市政努力にもよるものだろうが、子どものころ、台湾や琉球といった言葉をしばしば耳にした、その東アジアとの近しさが思い出されもしたのである。

 仕事を終えた翌日、川のほとりだったとおもうが、街を歩いていて、福岡アジア美術館という斬新な建物に出会った。

 入ると、東アジアの近代絵画が展示されている。絵画の近代化としての油絵をどのように消化するか、アジアの諸地域でそれぞれに苦心してきたことがわかる展示で、そのこなし方の違いを面白く見ていくうちに、ある絵に出会った。

 上半身はだかの男が、膝の上の胡弓に覆いかぶさるようにして抱いて弾いている絵である。曲の感情のきわまるとき、おのずから折り曲げ伏す背なかが画面を占めているのだが、その胡弓に没頭する青黒い陰鬱な背なかは、むせび泣いているかのように震えている。

 アヘン戦争以来、幾重にも蹂躙されてきた人々の苦しみと痛みが、祈りをけっして手放さない激しさをもこめて、その背なかには戦慄していた。

 画家の名も絵の題もすっかり忘れたが、画面はいまでも眼前に呼び出すことができる。


                                   (西日本新聞2003.10.11)

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