街上遊歩 (22)日本語と台湾2008/10/23 10:00

 閻(えん)小妹といっしょに歩いた台湾は、忘れられない。

 知合いの中国人にビザが下りなかったため、わたしたちは成田空港で初めて顔を合わせた。腰高で脚がすんなりと長く、椅子式の生活様式が体にしみこんでいるような体型だった。目は細かったが、明眸皓歯の皓歯とはこのような歯をいうのかと感じ入った白い魅力的な歯をしていた。

 文化大革命の最後の世代で、高校教師だった母親は右派として長い間牢獄に入れられ、大学教授の父親も不遇で、ほとんど一家離散の状態で少女期を過ごしたという。

 バスに乗っていると、突然「何か、とてつもない悪事を働きたいね」と言い出す。何をしたいのかと尋ねると、たとえば列車強盗とか、と言う。かっぱらいやキセルは日常的だったのだそうだ。

 文化大革命が終息し、検定試験を受けて大学に入学し、上田秋成研究を専攻して、おそらく現在もどこかの大学で中国語を教えているはずである。

 台湾は、閻さんにとっては、やがて一つになるべき地で、北京語は通じにくいとはいうものの、わが中国語の地に来たという誇りとよろこびが体中から感じられた。

 旅行の最後の日、台北郊外の淡水に、オランダやイギリスが領有していたという紅毛城を見た。暑い夏の日だったが、バスを降りて、淡水河沿いに古い町並をかなり歩いた。道を右手に折れて、坂を上り、竹藪かげの崖道を歩いているうちに、どうやら迷ったらしい。

 「この道かしらね」
 「誰かに聞いて見ようか」

 ちょうど前を歩いていた、手拭いを被った小さなおばあさんが、立ち止まった。わたしたちが追い越すようなかっこうになって、振り返ると、驚きのあまり茫然として立ちすくんでいるように見える。紅毛城はこの道でいいのかと訪ねる閻さんの中国語には答えず、わたしにはむしろそれを振り払うような気配が感じられた。黙ったまま、少しの間いっしょに歩いていたが、

 「わたしのうち、ここ」

と、日本語で言い、崖下の家を指して、それから下っていった。

 長い間聞くことのなかった日本語が、おばあさんに強い懐旧の情を引き起こしたように見えたが、その時間の襞に折り込まれていた思いはどのようなものだったのだろうか。


                               (西日本新聞2003.10.13)

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