街上遊歩 (16)理性と想像力2008/06/15 22:19

 以前飼っていた猫は、子猫の頃から育てたせいか、“猫”ではないように思われた。よその猫は、たんなる猫。あるとき、何の話だったか、「パトラはわたしが産んだの」といったら、大笑いされた。

 よその猫はどれも同じ、たんなる猫にしか見えないということは、罪深いことである。鬼子母神の話があるが、自分の子を持ったがゆえによその子はたんなる子で、喰うことさえできる、という罪深さを、昔の人は知っていた。

 家族はもちろん、長く親しくつきあった友人や、長年住み慣れた家や、土地や、そういった情愛の関係を結んだものと、まったく知らない人々や土地とでは、起きる感情が違う。人は誰でも、情愛を結んだわが領域を侵されると憎しみが湧き、相手を殺しても守ろうとする。ときには、わが領域を利する拡張のために、ほかの土地に住む人々はたんなるヒトでしかないのだから、平気で殺しに行くことができる。

 しかし、向こうは向こうで、情愛を結んだわが領域があるのだから、激しい抵抗のあるのは当たり前で、その抵抗の手応えが、〈自分ではないもの〉だといえよう。

 〈自分ではないもの〉の領域があるということを知ること、〈自分〉と〈自分ではないもの〉との相互の調和をはかろうとすること、これは情愛ではなく、理性をもって結びあう関係だ。そういう理性を働かせることができるのは、自分の結んでいる情愛深い関係を、他に類推する想像力があるからだ。

 歌は、抒情だとよく言われる。すなわち、情愛深い関係から生まれた思いをのべる器だということである。相聞と挽歌が歌の真骨頂であってきたのも、そういう理由だろうし、戦争中に「撃ちてしやまむ」などといって戦意昂揚したのも、そうだろう。

 しかし、わたしたちは、もう歌を情愛深い関係を結んだわが領域にのみ奉仕させることはできまい。大いなる理性と、大いなる想像力が必要だ。じつは、西行でも良寛でも、芭蕉でも、先人の業にすでにそれは現われているのである。

 そしてまた、慣れ親しんだと思いこんでいるわが領域にも、いたるところに〈自分ではないもの〉がある。その抵抗の手応えに出会うために、わたしは扉を押して出て、街を歩く。


                                  (西日本新聞2003.10.6)