街上遊歩(1) 奇妙なレッスン (西日本新聞2003.9.18) ― 2008/05/01 02:42
わたしの棲んでいる窓のすぐ外には、遊歩道が通っている。蛇崩(じゃくずれ)川という、蛇の出てきそうな街川が流れていたのだそうで、それをコンクリートで覆って暗渠にし、植え込みをして、人々の散歩道にしたのである。ここに棲みついてから、もう十年を越えるだろうか。
かつてエンゲルスは、巨大人口が集中化しつつあったロンドンを、「ロンドンのように、何時間歩いても終りの始まりにさえ来ず、郊外に近づいたと思わせるわずかな気配にも出会わない都市は、なんといっても独特なものだ」と言ったそうだが、およそ百五十年たった現代では、そんな都市は珍しくもなくなった。日本にもいたる所に小模型があって、なかんずく東京という都市の「何時間歩いても終りの始まりにさえ来」ない索漠とした徒労感は、比べようがない。
蛇崩川のような街川をコンクリートで塗り潰し、わずかに残った流れも川底までコンクリートでうち固め、道という道をまんべんなくアスファルトで覆いつくした街なのである。
ともあれ、このずんべらぼうの街上を、蛇崩遊歩道のほとりの建物の扉からわたしは出て歩く。そのとき、手のひらはアンテナだ。どこか遠くから響いてくる言葉をつかむのだ。かのボードレールは、まっぴるまの巴里の場末のちまたを歩いて、詩句を見つけた。
残酷な太陽が町に野に、屋根に麦畑に
はげしく降りそそぐとき、
わたしはひとり、風変りな剣技の稽古に出かける。
街のすみずみに韻律の僥倖を嗅ぎ出し
敷石につまずくように言葉につまずき
ときには久しく夢みていた詩句にぶつかりながら。
詩集『悪の華』より「太陽」抜粋
「風変りな剣技(ファンタスク・エスクリム)」のファンタスクは、変な、奇妙な、けったいなという意味で、エスクリムはフェンシング。ボードレールは、剣の修行をするような心持ちで街歩きをした。どこから攻めて来ても敏感に反応するあの心持ち。あの緊張を保ちながらする街歩きは、なるほど修行だ。
剣を使わないわたしは、両手を垂れ、全身を感覚にして、人から見れば、奇妙なレッスンに没頭する。
かつてエンゲルスは、巨大人口が集中化しつつあったロンドンを、「ロンドンのように、何時間歩いても終りの始まりにさえ来ず、郊外に近づいたと思わせるわずかな気配にも出会わない都市は、なんといっても独特なものだ」と言ったそうだが、およそ百五十年たった現代では、そんな都市は珍しくもなくなった。日本にもいたる所に小模型があって、なかんずく東京という都市の「何時間歩いても終りの始まりにさえ来」ない索漠とした徒労感は、比べようがない。
蛇崩川のような街川をコンクリートで塗り潰し、わずかに残った流れも川底までコンクリートでうち固め、道という道をまんべんなくアスファルトで覆いつくした街なのである。
ともあれ、このずんべらぼうの街上を、蛇崩遊歩道のほとりの建物の扉からわたしは出て歩く。そのとき、手のひらはアンテナだ。どこか遠くから響いてくる言葉をつかむのだ。かのボードレールは、まっぴるまの巴里の場末のちまたを歩いて、詩句を見つけた。
残酷な太陽が町に野に、屋根に麦畑に
はげしく降りそそぐとき、
わたしはひとり、風変りな剣技の稽古に出かける。
街のすみずみに韻律の僥倖を嗅ぎ出し
敷石につまずくように言葉につまずき
ときには久しく夢みていた詩句にぶつかりながら。
詩集『悪の華』より「太陽」抜粋
「風変りな剣技(ファンタスク・エスクリム)」のファンタスクは、変な、奇妙な、けったいなという意味で、エスクリムはフェンシング。ボードレールは、剣の修行をするような心持ちで街歩きをした。どこから攻めて来ても敏感に反応するあの心持ち。あの緊張を保ちながらする街歩きは、なるほど修行だ。
剣を使わないわたしは、両手を垂れ、全身を感覚にして、人から見れば、奇妙なレッスンに没頭する。
街上遊歩(2) うたごころ ― 2008/05/02 17:29
暑い。秋口に入ってようやく夏らしい今年の暑さだが、湿度がとれない。むっとした生ぬるい風が路上をたちのぼる。
子どものころの、夏の朝の気持ちよさといったらなかった。どういうわけか、いつもに似ず、誰よりも早く目が覚める。寝ていてもいいのに、起き出して、机の前に坐り、夏休みの宿題帳をひらく。にわかにいそいそとした勤勉な気持になるのである。
あの夏の朝の引き締まった空気をもういちど吸いたい――そんなことを思いながら、午後四時頃のちまたを歩く。路上に置く影を拾いながら、ぼくぽくといった感じで歩くわたしは、肩に大きな黄色の革のバッグを提げている。
バッグの中には、図書館へ返却する本が二冊、猫缶一つにドライフードを入れたビニール袋、それから校正したゲラ刷りの束。町の小さなタイプ印刷屋さんに、隔月で発行している短歌誌のゲラ刷りを持っていく途中である。
歩きながら、詩句を待ち受ける姿勢にこころを整えようとしてみるが、何だかすこしも締まらない。ゲラ刷りを渡すという用事がちゃんとした用事でありすぎるせいか。暑いせいか。こころがだらけているせいか。
木影を拾いながら歩いてゆき、角を曲がると、西日がまともに差してくる道に入った。まぶしさに手をかざして、路上の熱気に息を詰める。アスファルトに照りつける日ざしは路上の粗い粒子の影をきわだたせ、そのうえに一足ずつ置くようにして進んでいくと、この粗い粒子の路面が何ともいとおしい。嚢中の言葉をまさぐりつつ、角をもう一つ曲がると建物の影に入って、とうとう詩句にはならずじまい。
両の手をひらき垂れたる歩みにて遠き山嶺ひびき来たれり
時間の彼方にそびえ立つ大きな嶺々は、たとえばこの二、三年をかけてぽつぽつと読んできた陶淵明。また雪舟、セザンヌ、ボードレール、杜甫。時の試練に堪えてきた古人の業と自分のこころとの通路がついたときには、こんな宝物があったのかと、目も覚める思いがする。
ところがそれも、日常雑事に取り紛れ、宝物の蓋に塵積もるころ、あわれ、うたごころはふかき眠りへ。
(西日本新聞2003.9.19)
子どものころの、夏の朝の気持ちよさといったらなかった。どういうわけか、いつもに似ず、誰よりも早く目が覚める。寝ていてもいいのに、起き出して、机の前に坐り、夏休みの宿題帳をひらく。にわかにいそいそとした勤勉な気持になるのである。
あの夏の朝の引き締まった空気をもういちど吸いたい――そんなことを思いながら、午後四時頃のちまたを歩く。路上に置く影を拾いながら、ぼくぽくといった感じで歩くわたしは、肩に大きな黄色の革のバッグを提げている。
バッグの中には、図書館へ返却する本が二冊、猫缶一つにドライフードを入れたビニール袋、それから校正したゲラ刷りの束。町の小さなタイプ印刷屋さんに、隔月で発行している短歌誌のゲラ刷りを持っていく途中である。
歩きながら、詩句を待ち受ける姿勢にこころを整えようとしてみるが、何だかすこしも締まらない。ゲラ刷りを渡すという用事がちゃんとした用事でありすぎるせいか。暑いせいか。こころがだらけているせいか。
木影を拾いながら歩いてゆき、角を曲がると、西日がまともに差してくる道に入った。まぶしさに手をかざして、路上の熱気に息を詰める。アスファルトに照りつける日ざしは路上の粗い粒子の影をきわだたせ、そのうえに一足ずつ置くようにして進んでいくと、この粗い粒子の路面が何ともいとおしい。嚢中の言葉をまさぐりつつ、角をもう一つ曲がると建物の影に入って、とうとう詩句にはならずじまい。
両の手をひらき垂れたる歩みにて遠き山嶺ひびき来たれり
時間の彼方にそびえ立つ大きな嶺々は、たとえばこの二、三年をかけてぽつぽつと読んできた陶淵明。また雪舟、セザンヌ、ボードレール、杜甫。時の試練に堪えてきた古人の業と自分のこころとの通路がついたときには、こんな宝物があったのかと、目も覚める思いがする。
ところがそれも、日常雑事に取り紛れ、宝物の蓋に塵積もるころ、あわれ、うたごころはふかき眠りへ。
(西日本新聞2003.9.19)
牡丹 ― 2008/05/02 18:51
街上遊歩(3) 猫と立札 ― 2008/05/03 21:09
駒繋神社の猫のことを話しはじめたら、きりがない。
蛇崩川であった遊歩道の上流へむかって七、八分も歩けば、駒繋神社のうっそうと繁った木群が見える。遊歩道は、神社のふもとの木群を巻くようにして湾曲し、そのひとところに噴泉がある。
飼っていた猫に死なれたころ、このあたりを歩いていると、植え込みに黒い傘がひらいていた。覗けば、段ボール箱で作った猫のアパートである。
子猫が三匹ほどいた。冬のさなかだったが、黄色の雄猫が抱いて寝ているのだという。子猫の一匹は片目で、生まれたばかりのころ、鴉に突つかれたのだそうだ。
手のひらがあの柔らかい毛を撫でたくて禁断症状を呈していたわたしは、背中を撫でさせてもらいにキャットフードをもって通うようになった。
ところが、餌をやりながら猫と会話していると、かならずといってよいほど、ウォーキングをしているおばさんや、自転車に乗ったおじいさんや、サックを肩に掛けた青年や、子どもたちが、親しみをこめて声をかけてくる。東京に来ていらい、こんなことは初めてだ。この町に住んでいるのだ、という実感がじんわりと湧いてくるのにはわれながら驚いた。
噴泉のあるその場所を、犬の散歩やジョギングをする人々が行き交い、餌を食べる猫たちのそばで通りすがりの人々が立ち話をし、コミュニティの小さな息づきのようなものが感じられた。
ところが、ある日、まっ白い立札が立ったのである。噴泉の餌やり場を威嚇するかのような仁王立ちの立札には「この公園内で猫に餌をやらないでください」云々とあった。猫嫌いがいて、区役所に通報したのだろう。
病気の猫を捨てていく不心得者もいるし、猫嫌いの気持もわからないではないけれど、嫌なものは何でも公的力によって排除ということでいいのだろうか。
あの猫たちはどうなるのかと思えば、居ても立ってもたまらない。風刺の歌を作って、立札に貼り付けてやろうかしらん、とも真剣に考えた。
それから数年、立札の効力は絶大で、あの噴泉の場は、昼間でも薄暗く人の気の無い、荒れて寂(さび)れた空気の漂う場所となった。
猫は、三匹だけがようやく残った。
(西日本新聞2003.9.20)
蛇崩川であった遊歩道の上流へむかって七、八分も歩けば、駒繋神社のうっそうと繁った木群が見える。遊歩道は、神社のふもとの木群を巻くようにして湾曲し、そのひとところに噴泉がある。
飼っていた猫に死なれたころ、このあたりを歩いていると、植え込みに黒い傘がひらいていた。覗けば、段ボール箱で作った猫のアパートである。
子猫が三匹ほどいた。冬のさなかだったが、黄色の雄猫が抱いて寝ているのだという。子猫の一匹は片目で、生まれたばかりのころ、鴉に突つかれたのだそうだ。
手のひらがあの柔らかい毛を撫でたくて禁断症状を呈していたわたしは、背中を撫でさせてもらいにキャットフードをもって通うようになった。
ところが、餌をやりながら猫と会話していると、かならずといってよいほど、ウォーキングをしているおばさんや、自転車に乗ったおじいさんや、サックを肩に掛けた青年や、子どもたちが、親しみをこめて声をかけてくる。東京に来ていらい、こんなことは初めてだ。この町に住んでいるのだ、という実感がじんわりと湧いてくるのにはわれながら驚いた。
噴泉のあるその場所を、犬の散歩やジョギングをする人々が行き交い、餌を食べる猫たちのそばで通りすがりの人々が立ち話をし、コミュニティの小さな息づきのようなものが感じられた。
ところが、ある日、まっ白い立札が立ったのである。噴泉の餌やり場を威嚇するかのような仁王立ちの立札には「この公園内で猫に餌をやらないでください」云々とあった。猫嫌いがいて、区役所に通報したのだろう。
病気の猫を捨てていく不心得者もいるし、猫嫌いの気持もわからないではないけれど、嫌なものは何でも公的力によって排除ということでいいのだろうか。
あの猫たちはどうなるのかと思えば、居ても立ってもたまらない。風刺の歌を作って、立札に貼り付けてやろうかしらん、とも真剣に考えた。
それから数年、立札の効力は絶大で、あの噴泉の場は、昼間でも薄暗く人の気の無い、荒れて寂(さび)れた空気の漂う場所となった。
猫は、三匹だけがようやく残った。
(西日本新聞2003.9.20)
街上遊歩 (4) 駒繋神社の猫 ― 2008/05/05 20:35
蛇崩遊歩道に沿って駒繋(こまつなぎ)神社の方向へ歩いてゆくと、途中から桜の並木道になる。家裏を流れる街川のほとりの桜は、いまや遊歩道と道路のあいだに古々しい幹を連ねる桜である。空に張り渡す枝を仰ぐと、葉群はすでにまばらで、黄いろの葉が混じっている。さくらの落葉は、早い。
子どもたちが遊んでいる公園の傍を過ぎると、駒繋神社の森だ。神社の入り口には、小さな赤い橋が架かっていて、これも川の名残だろう。そこから先は、うっそうと繁った木群が、フェンスを越えてなだれかからんばかりに続いている。
ベンチなども設置してあるが、ちょっと坐って休もうという気色にはとてもなれない。例の立札が立ってからというもの、落葉が散りつもっているばかりでなく、菓子の空袋だのポリエチレン袋だのが目につくようになった。すっかり寂れた気配に、歩みを楽しむというより、身体のどこかが身構えてしまう。
駒繋神社の神主は猫嫌いだそうで、猫のアパートを見つけては捨てたと聞いたような気がする。夜には痴漢の出そうな、こんな通りにしちゃって・・・と思いながら、目はもう猫を探しはじめているのである。
噴泉の蛇口をひねって、器に注ぐ水音がすると、まずいちばんに鳴いて挨拶しながら現われるのは片目の猫である。もう、七、八歳にはなるだろう。子猫のころ、いのちが笑うとはこのことかと思ったほど、目汁鼻汁垂れながら、厳しい寒さのなかを全身が弾むように無邪気に遊ぶ猫だった。それがいまでは、すっかり大人びて世の苦の滲(し)みた風情で歩く。
やがて皿にキャットフードを入れる音のするころには、黄色の親父猫が「おれだ、おれだ」とばかりにやって来る。人馴れしない白い子猫も遠く坐って、こちらを窺(うかが)う。餌を食べる猫たちの傍にかがみこんだわたしは、あたりをはばからず、人間に向っては、かつて出したことのない妙なる声音で、もの言いかける。
猫どもと語らひ居ればほつたりとうなじに糞の落ちて温しも 英
なんと、上の枝にとまって、お余りのキャットフードを狙っている鴉が、糞を落したのであった。
(西日本新聞2003.9.22)
子どもたちが遊んでいる公園の傍を過ぎると、駒繋神社の森だ。神社の入り口には、小さな赤い橋が架かっていて、これも川の名残だろう。そこから先は、うっそうと繁った木群が、フェンスを越えてなだれかからんばかりに続いている。
ベンチなども設置してあるが、ちょっと坐って休もうという気色にはとてもなれない。例の立札が立ってからというもの、落葉が散りつもっているばかりでなく、菓子の空袋だのポリエチレン袋だのが目につくようになった。すっかり寂れた気配に、歩みを楽しむというより、身体のどこかが身構えてしまう。
駒繋神社の神主は猫嫌いだそうで、猫のアパートを見つけては捨てたと聞いたような気がする。夜には痴漢の出そうな、こんな通りにしちゃって・・・と思いながら、目はもう猫を探しはじめているのである。
噴泉の蛇口をひねって、器に注ぐ水音がすると、まずいちばんに鳴いて挨拶しながら現われるのは片目の猫である。もう、七、八歳にはなるだろう。子猫のころ、いのちが笑うとはこのことかと思ったほど、目汁鼻汁垂れながら、厳しい寒さのなかを全身が弾むように無邪気に遊ぶ猫だった。それがいまでは、すっかり大人びて世の苦の滲(し)みた風情で歩く。
やがて皿にキャットフードを入れる音のするころには、黄色の親父猫が「おれだ、おれだ」とばかりにやって来る。人馴れしない白い子猫も遠く坐って、こちらを窺(うかが)う。餌を食べる猫たちの傍にかがみこんだわたしは、あたりをはばからず、人間に向っては、かつて出したことのない妙なる声音で、もの言いかける。
猫どもと語らひ居ればほつたりとうなじに糞の落ちて温しも 英
なんと、上の枝にとまって、お余りのキャットフードを狙っている鴉が、糞を落したのであった。
(西日本新聞2003.9.22)
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