街上遊歩 (5) 巌石の袋2008/05/08 03:06

 蛇崩遊歩道の途中から祐天寺駅の方角へ折れて五、六分、東急東横線のガード下をくぐると、すぐ守屋図書館である。

 ある日、歩いているとき、この街の図書館に出会った。恐る恐る入って、揃えてある書物の幅の広さとレベルの高さを見たときには、宝の山に分け入ったような気がしたものである。昨今のコンビニ化した新刊書店とは比べものにならない。予約をすれば、コンピューターで二十三区中からたちどころに探し出して来てくれる。待ちさえすれば、国会図書館からでさえ、借り出してくれる。

 以来、歩いて十分の守屋図書館は、わたしの書庫となった。ここ十年くらいの仕事は、この図書館なしではできなかった。新刊を潤沢に買う金銭的余裕もなく、買っても置く場所に恵まれないわたしのような者が、ものを考えたり書いたりする仕事を何の不自由もなくできる幸いはいくら言っても言い足りない。まず文化的資産力あって、そのうえでなんぼの話なのだ。


 図書館を出で来しわれは肩提げの袋を巌(いはほ)石のごとくかつげり      英


 関連する資料をかたっぱしから借り出すうえに、新刊コーナーに思わず手の伸びる本があるので、帰りの袋は、大きな巌石が入っているかのようである。手弱女の肩に革の取り手がぐいと食い込み、首の筋を引っ張って、身体を傾げて、うんうんと気張って歩く。立ち止まって、巌石の袋を降ろし、それから肩を移して、ふたたび歩む。いつのまにか、わたしは大国主命の気持である。

 大国主、別名オオナムチには、たくさんの兄弟があった。そのだれもがヤカミヒメと結婚したくてイナバに行ったとき、みそっかすのオオナムチは従者代わりに大きな袋を背負わされた。ところが、例のイナバの白ウサギ、恩返しに、ヤカミヒメと結婚できるのはあなたですよ、と予言してくれたというのが古事記のお話。若者に試練を課した古代の成年式がこの説話の根幹をなしているともいう。

 兄さんたちにはるか遅れて、大きな重い袋を担ぐオオナムチは歩む。肩に食い込む巌石の袋には、試練に耐えているという実感があって、なかなか爽快なのである。


                               (西日本新聞2003.9.23)

街上遊歩 (6)幸運2008/05/11 21:17

 いまとは違う時代――たとえば千年前――に生まれていたら、と思うことがある。

 西暦一〇〇三年といえば摂関政治の最盛期、都ではちょうど、藤原道隆の娘定子が中宮から皇后へと体よく遠ざけられ、道長の娘彰子が中宮となったばかりで、これからいよいよ道長の盛んな時代に入っていくところだ。定子につかえた清少納言が『枕草子』を書き、紫式部も『源氏物語』を書き継いでいたかもしれない。女に教養のあることが、身の助けとなった時代であった。

 とはいえ、どうやらわたしは根っからの九州人、そんな遠い都の雲上人の話には何の関わりもない。太宰府あたりには都から赴任してきた教養人が住んでいただろうし、もしかしたらわたしの近隣の寺院などに知識のある僧侶もいたかもしれない。

 しかし、なにせ女の身である。文字が読めたとしても、読みたい本は借りて筆写するしかないが、いったい誰が貸してくれよう。更級日記の作者のように、都には面白い物語があるんだって・・・という噂に身を焦がしているだろうか。
 
 江戸時代ならば、浮世草子くらいは手に入ったかもしれないが、『論語』や『詩経』、また杜甫や李白の詩篇などの漢籍は、一般には女が読むものではなかった。
 
 さてさて、このように巡らしてくると、今の世がなんとありがたいことかと、しみじみ思われる。性別・身分に関わらず、読みたいものはなんでも容易に手にはいる。近代の活版印刷技術発明のおかげで、一冊五百円ばかりで買った岩波文庫をハンドバックに押し込んで歩ける。
 
 科学文明の発達と大量生産体制は世界を変えてしまった。もちろん、良いことばかりではない。その悪しき側面は二回にわたる世界戦争となって現われ、今なお最新鋭の科学兵器が開発され続けている。地球上のいたるところが非人道的な大量破壊兵器の実験場化している。

 それでも、わたし個人としては、二十世紀のしかも後半という時代に、よくぞ女として生まれあわせたものだと思う。この時代の刻印を、女としての身に受けたことを感謝する。

 つくづくとわが幸運を思いつつ、祐天寺駅裏のクリーニング店・お総菜屋・コンビニエンスストアと並ぶ通りを、それぞれに店内の明るく点っているのを見ながら、坂を下っていく。

                                      (西日本新聞2003.9.24)

街上遊歩 (7)わたしの場所2008/05/18 14:46

 片道一万円を割る格安航空券に釣られて、用事もないのに、九月初旬、熊本まで往復した。熊本は、「阿木津英」の生まれた場所である。この土地で、わたしは、歌を本気になって作り始めた。住みついたところが秋津新町、その名を取って「阿木津」と命名した。「英」は、本名の一字である。

 健軍電停終点から御船方向に三、四分も歩けば、今では東野と名を改めた秋津新町に着く。市街地だから、家並みが建て込んではいるが、熊本は空が大きくて、いつも上機嫌な明るさである。梅雨時の、文字通りバケツをひっくり返した雨の降り方には驚いたが、おおむね夜のうちにさっと降って、朝にはすっかり気持の良い光が降り注いでいる。

 南へ少し歩くと、市街地を抜けて、どこまでも平たい田んぼが連なっているが、その境に流れているのが秋津川だ。この秋津川のほとりから江津湖にかけての地域が、大好きなわたしの場所で、それがどのようにすばらしいか、誰彼なしに引っ張って行って見せたいくらいである。

 冬がとくに良い。空気に、九州の東側と違って、大陸的な透明さがある。いつの冬だったか、凍みるような寒い朝、秋津川の橋の上に立って包まれた青い空気は、忘れがたい。あの恍惚感を自分だけしか知らないのが残念でたまらず、熊本に遊びに来る人があるといえば連れていきたいと願った。けれど、結局声には出さずじまい。同じ気象が現れるとはかぎらないし。

 秋津川は、野の川である。葦や雑草の生い茂った両岸のあいだをゆるやかに流れる、浅い川である。東のかなたには、阿蘇の外輪山が、遠く低く連なるのが見える。外輪山の赤みを帯びた山肌は、その日々、その時々によって、色合いを変えるのである。きびすを返して、川沿いに下っていくと、やがて木山川・矢形川と合流し、水を湛えた大きな流れに変わる。両岸には、田んぼが連なり、農道を歩いていると、天から押しつぶされそうなくらい、広い。

 そこからほどなく下江津湖で、わたしの住んでいたころは、ほとりに動物園があるばかりの湖岸であった。よく犬をつれて、ぬかるみ道を歩み、地面から噴き出している水で、手を洗った。

 熊本に帰れば、このような道を歩くのがわたしの通例である。


                               (西日本新聞2003.9.25)

前登志夫による・・・2008/05/19 21:08

  両の手をひらき垂れたる歩みにて遠き山嶺ひびき来たれり

                                   阿木津 英『巌のちから』



 両手をひらいてぶらりと垂れたままの姿は、前方に存在するなべてを受容するかたちだろうか。はるかな山の頂きがりんりんと響き迫ってくる。ひどく暗示的な自然宇宙との交霊の一瞬でもあろうか。この上なく古代的な光景だが、原始的なシャーマンとは異なる思索者の姿もある。


               (前登志夫「巻頭秀歌 歌意」、『NHK短歌』No.134 2008.5)

街上遊歩 (8)酒盛りののち2008/05/22 09:12

 熊本にわたしが帰るというので、岡野百々さんという短歌修業中のうら若き(のように見える)女性が、歌人の石田比呂志宅へ大分から泊まりがけでやって来てくれた。歌人仲間の浜名理香さんも来た。夕方の開店時間を待って、さっそく近所のフランス料理(?)店で酒盛りがはじまる。ワインを二本空けて、ほろ酔い加減で家に戻り、さらにみんなが飲んだのは焼酎だったか、日本酒だったか。戸棚から封を切ったレミィ・マルタンを見つけだし、岡野百々はごくごくと、わたしはちびちびと、そのふくよかな香りを歓んだ。

 かくして、翌朝授業をしなければならない浜名理香も、石田比呂志からタクシー代をせしめたままついに沈没、酔っ払いの女ども三人は雑魚寝をしたのであった。

 翌日は、昼を過ぎても身体が使いものにならない。息の詰まるような熊本の暑さにへたばっていると、博多から村山寿朗さんが短歌研究賞受賞のお祝をもって来てくれた。

 村山さんも、わたしたちが熊本に来た当初からの古い友人である。九大の一年先輩だが、大学のときに重い躁鬱病を発病したらしい。出会ったときには寛解期で働いていたが、その後も入退院を繰り返す困難を端(はた)ながら見て来た。ところが、どのようなきっかけがあったのか知らないが、見事に病を克服して、今は立派な歌集一冊をもつ歌人として立っている。しかもすばらしく可愛い奥さんと三人の子持ちである。

 午後の三時というのに、石田比呂志はおもむろに酒を飲みはじめ、村山寿朗は何度もこんろ台に立っては干し魚をあぶる。そのあぶり方の不器用なのにわたしは文句を言いつつ、ほんのちょっとビールを嘗める。二十七、八年前のささいな事がらを三人で思い出しては、げらげら笑ったり、慨嘆したり、しているうちに、もう酒の飲めないわたしは、だんだん江津湖を見に行きたくてしようがなくなった。今、行っておかないと、明日の昼には発たなければならない。

 ついに「寿司を買ってくる」と言い置いて、外に出た。空は、もう日が落ちる前の明るさだ。アーケードのある健軍商店街を下りつつ、ふと、西に開いた通りを見ると、町並みのはての狭い空には赤い雲が広がっている。あの雲のひかりのしたの江津湖は、鳴り響くようであるに違いない。


                                   (西日本新聞2008.9.26)