街上遊歩 (13)〈自分〉以外のもの ― 2008/06/05 21:54
ある時期から、自身のものも含めて歌壇の歌が騒がしくおしゃべりばかりしている、と思われるようになった。それはときに、耳をふさぎたいほど堪らないようでもあり、またそのころはまだ錯覚のようにも感じられた。第二歌集『天の鴉片』を作った直後くらい、一九八〇年半ばあたりのことである。
自分の歌はこのまま進むと薄っぺらな口先だけのおしゃべり歌になってしまうだろう、という予感がした。当時フェミニズムが一般ジャーナリズムにも取り沙汰されていた頃だったが、フェミニズム理論の断片みたいなものに堕するくらいなら、無理に歌など作らなくとも、本格的にフェミニズム理論をやればいい。わたしは、なぜ歌を作るのか。作り続けるのか。そういう問があった。
また熊本から東京へ環境を移したこともあった。自分の生きて棲みついている身のめぐりの地形と、その地にともに生きている木々や草花が、どんなに歌と結びついているか、ということを痛切に思うようになったのである。日本経済の絶頂期を迎えた東京というメトロポリスにありながら、わたしの目と心は、線路脇に咲いている梅の木や、何キロも歩いた先の林にしか向かなかった。
だいもーん、だいもにおーん。アスファルトぬくきがうへのこころは念ず 英
しかし、いくら歩いても、われを忘れさせてくれるような一つの花にさえ出会わなかった。梅雨時の暑い日ざしを吸い込んだアスファルトの上を歩きながら、わたしはついにこのアスファルトと自分の心とを縫い合わせることができない。その嘆きが「だいもーん、だいもにおーん」という呪文のような言葉となって噴出した。
東京ほど緑の多い都市はないなどというが、歌を作るということは、草花とか木々とか植物さえあればよいというわけにはいかない。目の前にある街路樹のハナミズキの一本と〈自分〉とを針できちんと縫い合わせることができたとき、はじめてハナミズキは意味を持つ。これが東京という地では、どういうわけかとても難しい。
針も糸もいらないのが〈自分〉だけのおしゃべり歌であって、均質的に都市化していく現代生活と無関係ではないのだろう。
(西日本新聞2003.10.2)
自分の歌はこのまま進むと薄っぺらな口先だけのおしゃべり歌になってしまうだろう、という予感がした。当時フェミニズムが一般ジャーナリズムにも取り沙汰されていた頃だったが、フェミニズム理論の断片みたいなものに堕するくらいなら、無理に歌など作らなくとも、本格的にフェミニズム理論をやればいい。わたしは、なぜ歌を作るのか。作り続けるのか。そういう問があった。
また熊本から東京へ環境を移したこともあった。自分の生きて棲みついている身のめぐりの地形と、その地にともに生きている木々や草花が、どんなに歌と結びついているか、ということを痛切に思うようになったのである。日本経済の絶頂期を迎えた東京というメトロポリスにありながら、わたしの目と心は、線路脇に咲いている梅の木や、何キロも歩いた先の林にしか向かなかった。
だいもーん、だいもにおーん。アスファルトぬくきがうへのこころは念ず 英
しかし、いくら歩いても、われを忘れさせてくれるような一つの花にさえ出会わなかった。梅雨時の暑い日ざしを吸い込んだアスファルトの上を歩きながら、わたしはついにこのアスファルトと自分の心とを縫い合わせることができない。その嘆きが「だいもーん、だいもにおーん」という呪文のような言葉となって噴出した。
東京ほど緑の多い都市はないなどというが、歌を作るということは、草花とか木々とか植物さえあればよいというわけにはいかない。目の前にある街路樹のハナミズキの一本と〈自分〉とを針できちんと縫い合わせることができたとき、はじめてハナミズキは意味を持つ。これが東京という地では、どういうわけかとても難しい。
針も糸もいらないのが〈自分〉だけのおしゃべり歌であって、均質的に都市化していく現代生活と無関係ではないのだろう。
(西日本新聞2003.10.2)
街上遊歩 (14)親密圏 ― 2008/06/05 22:20
〈公〉に対する〈私〉、〈国家〉に対する〈家族〉といったような対比ではなく、〈公共圏〉に対する〈親密圏〉といった概念が、数年前から論じられているようである。
滅私奉公の〈私〉でもなく、内向きの凝集力が働きすぎる〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉は、わたしの想像力をとても刺激する。
〈私〉と〈家族〉とが結びつき、それを強調してゆくとき、自分さえよければよいといったエゴや私利私欲へ傾いてそれ以外の場所が見えなくなる。〈公〉〈国家〉と〈家族〉とを結びつけ、そこに天皇を絡ませれば、〈家族〉があげて〈国家〉に奉仕した戦前の家族国家観である。
そのような〈私〉でもなく〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉を得たとたん広やかな場所に出たようで、そうか、人には親密な関係を結ぶ間柄と、そうではない間柄とがあるのだな、と了解できるのだ。いわば、その人が死ぬと涙が流れる間柄とでも言おうか。
わたしたちは、イラクやパレスチナの人々が意味もなく殺されていることを痛ましいことだ、なんとかすべきだと思うけれども、涙は流れない。友人だって、死の知らせを聞いてすぐ忘れるものもあれば、面差しを忘れかねる関係もある。
ペット・ロス症候群というものがある。子どもが亡くなったように嘆くのを、犬猫くらいで、と、愚かしいように思ったりするけれども、あれは犬猫と親密な間柄にあったということだ。血の繋がらないのはもちろん、人と獣とで類も違うが、親密な間柄ということでは親子と少しも違わないのである。
獣ばかりではない。人は、草木とも親密な関係を結びうる。
岩むろの 田中に立てる ひとつ松あはれ 一つ松 濡れてを立てり
笠かさましを 一つ松あはれ
反歌
岩室の田中の松を今日見ればしぐれの雨にぬれつつ立てり
良寛の長歌およびその反歌である。日本書紀や古事記を踏まえた「一つ松」だけれども、たんに故事にもとづくばかりではない。妻子はもたない良寛と、「岩室の田中の松」との、こよない親密な間柄が、その歌のしらべにながれ出ているではないか。
(西日本新聞2003.10.3)
滅私奉公の〈私〉でもなく、内向きの凝集力が働きすぎる〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉は、わたしの想像力をとても刺激する。
〈私〉と〈家族〉とが結びつき、それを強調してゆくとき、自分さえよければよいといったエゴや私利私欲へ傾いてそれ以外の場所が見えなくなる。〈公〉〈国家〉と〈家族〉とを結びつけ、そこに天皇を絡ませれば、〈家族〉があげて〈国家〉に奉仕した戦前の家族国家観である。
そのような〈私〉でもなく〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉を得たとたん広やかな場所に出たようで、そうか、人には親密な関係を結ぶ間柄と、そうではない間柄とがあるのだな、と了解できるのだ。いわば、その人が死ぬと涙が流れる間柄とでも言おうか。
わたしたちは、イラクやパレスチナの人々が意味もなく殺されていることを痛ましいことだ、なんとかすべきだと思うけれども、涙は流れない。友人だって、死の知らせを聞いてすぐ忘れるものもあれば、面差しを忘れかねる関係もある。
ペット・ロス症候群というものがある。子どもが亡くなったように嘆くのを、犬猫くらいで、と、愚かしいように思ったりするけれども、あれは犬猫と親密な間柄にあったということだ。血の繋がらないのはもちろん、人と獣とで類も違うが、親密な間柄ということでは親子と少しも違わないのである。
獣ばかりではない。人は、草木とも親密な関係を結びうる。
岩むろの 田中に立てる ひとつ松あはれ 一つ松 濡れてを立てり
笠かさましを 一つ松あはれ
反歌
岩室の田中の松を今日見ればしぐれの雨にぬれつつ立てり
良寛の長歌およびその反歌である。日本書紀や古事記を踏まえた「一つ松」だけれども、たんに故事にもとづくばかりではない。妻子はもたない良寛と、「岩室の田中の松」との、こよない親密な間柄が、その歌のしらべにながれ出ているではないか。
(西日本新聞2003.10.3)
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