街上遊歩 (14)親密圏2008/06/05 22:20

 〈公〉に対する〈私〉、〈国家〉に対する〈家族〉といったような対比ではなく、〈公共圏〉に対する〈親密圏〉といった概念が、数年前から論じられているようである。

 滅私奉公の〈私〉でもなく、内向きの凝集力が働きすぎる〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉は、わたしの想像力をとても刺激する。

 〈私〉と〈家族〉とが結びつき、それを強調してゆくとき、自分さえよければよいといったエゴや私利私欲へ傾いてそれ以外の場所が見えなくなる。〈公〉〈国家〉と〈家族〉とを結びつけ、そこに天皇を絡ませれば、〈家族〉があげて〈国家〉に奉仕した戦前の家族国家観である。

 そのような〈私〉でもなく〈家族〉でもない、〈親密圏〉という言葉を得たとたん広やかな場所に出たようで、そうか、人には親密な関係を結ぶ間柄と、そうではない間柄とがあるのだな、と了解できるのだ。いわば、その人が死ぬと涙が流れる間柄とでも言おうか。

 わたしたちは、イラクやパレスチナの人々が意味もなく殺されていることを痛ましいことだ、なんとかすべきだと思うけれども、涙は流れない。友人だって、死の知らせを聞いてすぐ忘れるものもあれば、面差しを忘れかねる関係もある。
 
 ペット・ロス症候群というものがある。子どもが亡くなったように嘆くのを、犬猫くらいで、と、愚かしいように思ったりするけれども、あれは犬猫と親密な間柄にあったということだ。血の繋がらないのはもちろん、人と獣とで類も違うが、親密な間柄ということでは親子と少しも違わないのである。
 獣ばかりではない。人は、草木とも親密な関係を結びうる。



  岩むろの 田中に立てる ひとつ松あはれ 一つ松 濡れてを立てり      
  笠かさましを 一つ松あはれ

     反歌
  岩室の田中の松を今日見ればしぐれの雨にぬれつつ立てり



 良寛の長歌およびその反歌である。日本書紀や古事記を踏まえた「一つ松」だけれども、たんに故事にもとづくばかりではない。妻子はもたない良寛と、「岩室の田中の松」との、こよない親密な間柄が、その歌のしらべにながれ出ているではないか。


                                     (西日本新聞2003.10.3)

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