岡井隆による・・・2008/05/25 20:58

 樹下(こした)には浅き緑の炎立(ほむらだ)ち死ぬるまでわれ男愛さむ

                                 『青葉森』 阿木津 英



樹の下の草は浅みどりのいろに萌え立っている。それは「炎」のようにも見える。春の生命の若萌えをみながら「わたしは死ぬまで男を愛する運命にある」といっているのか、「死ぬまで愛していこう」という決意なのか。そのあたりは単純ではないのだろう。作者三十歳前後の作品である。


                              (東京新聞「けさのことば」2008.4.20)

街上遊歩 (10)仮想世界という鏡2008/05/25 21:09

 二、三年前から、パソコンを始めた。手慣らしにとも思って、子どもたちが夢中になっているゲームとはどんなものか、好奇心で首を突っ込んでみると、なるほど中毒になる。

 なかでも、ロールプレイングゲームではキャラクターのレベルをあげるために、画面のなかを歩き回って、小動物からモンスターまで、刀を振り上げては、殺しに殺す。肉に食い込む音も、血も、画面上に現われる。レベルをあげるにはいろいろ複雑な仕掛けがあって、しなければならない仕事があるのに、どうしても止められない。

 夜更かしして目がちらつくほど没頭したその朝方、目覚め際に、ゲームの画面が脳裏に浮かんでいたのには、われながらがっくりした。

 歌に専心しているときには、よく文字の夢を見る。どうしてもうまくいかなかった部分が夢のなかで解決することもある。評論や論文を書いているときには、あそこで言いたかったことはこう言い表せばいいのだと、文章が浮かぶこともある。

 この頃は年老いたか周王が夢に現われなくなった、と嘆いたのは、孔子であった。それほどに理想を願って、心を専一に日々を過ごした古人にはもちろん比ぶべくもないが、明け方の脳裏に浮かんでくる夢が、自分の心のありようをあらわしていることは、よくわかる。

 ゲームは一見複雑そうだが、心の働かせ方はステロタイプで簡単で、しかも速度感がある。ここに浸かっていると、微細な感覚やごく些細なことのゆっくりとした積み重ねが“うざったく”なる。また、ゲームは中毒するから、子どもも大人も、何十万何百万という人々が、寝ても覚めても、ゲームの画面上をほっつき歩き、擬似“賢者”の言葉や擬似“正義と悪”の言葉をアクセサリーに、刀を振り下ろしては生き物を殺して回っているのかと思うと、いささかわがこととして暗澹とする。

 しかし、考えてみれば、このようなゲーム・ソフトを開発したのは大人である。制作する大人のありようが、そのままソフトの組み方に織り込まれている。今のゲームの世界は、正真正銘、大人たちの心の反映なのだ。


                                (西日本新聞2003.9.29)