街上遊歩(24)噴水と鳩2009/03/12 19:48

噴水と鳩とは、字面だけを眺めても、なかなか映りのよいものである。

 アポリネールに「刺殺された鳩と噴水」という詩があった。戦争に出ている友人たちの一人一人の顔を思いだして、噴水のほとりで嘆く詩である。マラルメにも、噴水の有名な詩があったが、このような噴水や鳩に関わる言葉の織物の厚みが、目の前の噴水と鳩とを、いっそう楽しいものにしてくれる。

 かつては、近くの世田谷公園でも、噴水のめぐりに憩う人々の足元を、いくつもの鳩がよたよたと歩いていた。何かの拍子に、くくくくと低く喉を鳴らしながら、いっせいに飛び立つことがある。そのときの、耳のあたりを掠めてゆく翼の脇のしなう音は、何とも言いあらわしがたい。何度も歌にしようとし、実際作っても見たが、どうもうまくいかなかった。

 もう何年も前のことになるが、公園に行っては、噴水のめぐりを鳩の群が飛び交うのを楽しみにしていたのに、急に鳩がいなくなった。どうしたのかと思えば、近くの木立のなかで、中年女性が大きな袋から餌をとりだしては撒くので、鳩たちはすっかりそちらに群がっているのである。その女性を中心に、地面に鳩たちが押し合いへし合いしては、餌を貪っている。

 それはちょっと反則じゃないか、鳩を自分だけで独占しようってのは・・・と、おおいに不満だったが、仕方なく、横目で見ながら通り過ぎる日が続いた。

 ところが、ある冬の夕方、もう薄暗くなりはじめたころのことである。いつものように中年女性が鳩の群を従えていたが、すっかり馴れた鳩を手で捕まえては、ちょっと調べる様子をして、大きな袋に押し込んでいる。何をしているのか。しばらく立ち止まってみていたが、声をかける勇気もなく、ついにわからなかった。

 病気の鳩の手当てをしようとして、捕まえていたのか。それとも餌をやって馴れたところを捕まえ、数を間引こうというのか。まさか、うまそうな鳩を選んでいたわけではあるまい。

 何度か、その不審な行動を目撃して、頭をひねっているうちに、公園に「鳩に餌をやらないでください」という、鳩の大きさに比べれば巨大な看板が立った。やがて、その中年女性の姿を見なくなり、鳩の群もいなくなってしまった。


                                    (西日本新聞2003.10.16)

一ノ関忠人による・・・2008/12/15 15:00

 阿木津英の五冊目の歌集は、『巌のちから』。その前の『宇宙舞踏』からは十三年の間がある。この間に阿木津は仮名遣いを完全に旧仮名遣いに切り換えた。『宇宙舞踏』も、旧仮名遣いで統一されているが、歌の案出の段階から旧仮名になったのは、今度の歌集をもって初めてのことだという。

 阿木津は、フェミニズムの問題をはじめ苦闘している。苦闘に見えるのは、阿木津の抱える問題が大きいからだが、挑戦の姿勢は阿木津の文学営為の初発からである。

「近代」と呼んでしまうとあまりにも大づかみに思えるかもしれないが、阿木津の作歌や批評活動は「近代」の全貌をつかみ、それを相対化しようとする戦いに他ならない。この壮大なる難問に挑む歌人はそう多くない。短歌のうえで意識的にこの問題に挑んだのは、折口信夫(釈迢空)と玉城徹くらいのものではないか。勿論、茂吉や白秋も同じ問題に突き当たっている。しかし、それを論理化しなかった。阿木津は、その課題を引き受ける。それだけに戦いは苦戦を強いられる。十三年間歌集が出なかった理由の一つは、その戦いの大きさにもよる。


 ・日輪はたかく懸かれりみづうみの波間に焔ゆらめき立ちて

 ・かいつぶり鳴くこゑふくむ湖を春かぜをとめ揺らしやまずも


 この大柄で豊かな量感を感じさせる調べをもった二首は、阿木津の歌というだけでなく、近年の収穫と言っていいだろう。自然を捉えて、力感に溢れている。

  産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか

は、阿木津の初期の歌だが、この二首は、阿木津が苦闘の末につかんだ果実である。捉えた自然の大きさはそれに向き合う人間と対応している。自然に内包された人間存在の小ささに思いは及ぶものの、それを対象化した作者が大きく見えてくる。歌集名にもなったこの一連には、

  子を産まぬこと選び来つおのづからわが為すべきをなすがごとくに

という、「産むならば」の歌に対応した一首があって、この一連が現在の阿木津英だという表明だろう。

 この歌集の頂点には、こうした見事な短歌が並ぶいっぽうで、時代を反映した社会への鋭い批評が歌いこめられている。


 ・人間の空仰ぎしと言ひ出づる喜びの面うひうひしけれ

 ・家畜より成り上がれるが送り来つ個体識別番号付して

 ・身に火薬巻きつけて少女ゆく道をおもはざらめや照り返す日に


 「らい予防法」違憲判決に、国が控訴を断念。罪を認めたときの原告の言葉に反応した一首目。二首目はわれわれに与えられた個体識別番号への揶揄。そして三首目は自爆テロへの心寄せである。差別や新自由主義的な世界の動きへの批判が強く歌われる。

  キャベツの葉粗刻みして食らひをり昼曇りせるへやにしわれは

のように、逼迫した生活の反映かと思われる歌もあって、阿木津の現実存在の苦境がわかる。とはいえ、決してネガティブにはならない。ある種の雄々しさが歌集を貫いている。そて、なにより魅力的なのは、一首一首にゆったりとした時間が流れていることである。文語ならではの、豊饒がここにある。


 ・夕照りの竹群撓ひなびきてはうち反りゆく大窓に見ゆ

 ・九階にのぼり来たりて輝きを斂めむとする雲遠く見つ

 ・おほぞらを光微かにわたらへり鋪道をゆくわれをつつみて


 こうした歌を読んでいると阿木津は構築型の歌人であることがよくわかる。安易な抒情に流されることがない。この大柄な短歌と大きな思想を土台に阿木津の短歌の豊かな実りは、更にこの先に予定されているように見えてくる。


                        (歌誌『朝霧』2008.11「現代短歌鑑賞11 構築」)

街上遊歩 (23)火薬を巻きつけて2008/11/10 22:25

 「自爆犯は女性司法修習生」という見出しに顔写真を添えた記事を、先日、新聞で見た。
パレスチナ自治区ジェニン出身の二十九歳の女性である。
イスラム聖戦に所属していた兄弟の一人といとこが、この六月、イスラエル軍の侵攻作戦で殺されていた。イスラエル軍は、自爆の報復として、ジェニンの女性の実家を爆破したという。これで、女性自爆テロは四人目である。


 身に火薬巻きつけて少女ゆく道をおもはざらめや照り返す日に   英


 三人目は、ドゥヘイシェ難民キャンプで育った十八歳の少女だった。学校からの帰り道に火薬を受け取り、そのまままっすぐスーパー・マーケットへ行った。出入り口で守衛に呼び止められ、そこで自爆したという。

 この話は、昨年六月、数百人規模の虐殺があったのではないかといわれるジェニン難民キャンプ取材のニュース番組を、インターネットの動画配信で見て知ったのである。

 少女の親友の家は、イスラエル軍兵士のスナイパーに日頃から狙われていた。ゲームでもするように、向かいのビルから弾丸が小窓に撃ち込まれ、ある日、部屋にいた親友を貫いた。
身を寄せ合うようにして暮らす難民キャンプでは、その日頃からの圧迫感はわがことのように感じられていただろう。婚約者がいて、三ヶ月後には結婚するというのに、親友が殺されたのをきっかけに、ようやく堰き止めていた感情はおしとどめようがなくなる。

 自分の未来のすべてをなげうち、過激派のアジトに行って、殉教者となる誓約書を読む姿をビデオに撮ってもらい、火薬を受け取る。火薬には、殺傷力を増すために、太いねじ釘がたくさん混ぜ込まれてあり、ずっしりと重たかっただろう。

 怪しまれないように、衣服の下にその火薬を巻きつけ、道に出る。あたりには、学校がひけたあとの難民キャンプの子どもたちが遊んでいたかもしれない。

 まぶしいほどの午後の日ざしが、歩んでゆく道を照り返していただろう。イスラエル人がよく行くスーパー・マーケットまでのいくばくもない距離を、少女は歩みすすんでゆく。

 その思いつめたような歩みを、悲しまないでいられようか。


                              (西日本新聞2003.10.15)

街上遊歩 (22)日本語と台湾2008/10/23 10:00

 閻(えん)小妹といっしょに歩いた台湾は、忘れられない。

 知合いの中国人にビザが下りなかったため、わたしたちは成田空港で初めて顔を合わせた。腰高で脚がすんなりと長く、椅子式の生活様式が体にしみこんでいるような体型だった。目は細かったが、明眸皓歯の皓歯とはこのような歯をいうのかと感じ入った白い魅力的な歯をしていた。

 文化大革命の最後の世代で、高校教師だった母親は右派として長い間牢獄に入れられ、大学教授の父親も不遇で、ほとんど一家離散の状態で少女期を過ごしたという。

 バスに乗っていると、突然「何か、とてつもない悪事を働きたいね」と言い出す。何をしたいのかと尋ねると、たとえば列車強盗とか、と言う。かっぱらいやキセルは日常的だったのだそうだ。

 文化大革命が終息し、検定試験を受けて大学に入学し、上田秋成研究を専攻して、おそらく現在もどこかの大学で中国語を教えているはずである。

 台湾は、閻さんにとっては、やがて一つになるべき地で、北京語は通じにくいとはいうものの、わが中国語の地に来たという誇りとよろこびが体中から感じられた。

 旅行の最後の日、台北郊外の淡水に、オランダやイギリスが領有していたという紅毛城を見た。暑い夏の日だったが、バスを降りて、淡水河沿いに古い町並をかなり歩いた。道を右手に折れて、坂を上り、竹藪かげの崖道を歩いているうちに、どうやら迷ったらしい。

 「この道かしらね」
 「誰かに聞いて見ようか」

 ちょうど前を歩いていた、手拭いを被った小さなおばあさんが、立ち止まった。わたしたちが追い越すようなかっこうになって、振り返ると、驚きのあまり茫然として立ちすくんでいるように見える。紅毛城はこの道でいいのかと訪ねる閻さんの中国語には答えず、わたしにはむしろそれを振り払うような気配が感じられた。黙ったまま、少しの間いっしょに歩いていたが、

 「わたしのうち、ここ」

と、日本語で言い、崖下の家を指して、それから下っていった。

 長い間聞くことのなかった日本語が、おばあさんに強い懐旧の情を引き起こしたように見えたが、その時間の襞に折り込まれていた思いはどのようなものだったのだろうか。


                               (西日本新聞2003.10.13)

街上遊歩 (21)アジアの背なか2008/09/11 20:58

 わたしが大学に入ったころの博多の街は、欧米人らしき外国人が多かった。天神の交差点で信号待ちをしていると、かならず道の向こうの人群のなかに肌の色の違う外国人が混じっていた。それがいかにも都会に来たというおしゃれな感じがしたものだが、思えば板付基地があったからで、博多はそのころ基地の街だったのだ。

 入学してようやく授業にも慣れはじめた一九六八年六月二日、九大本学に建設中であった電子計算機センターに米軍飛行機が墜落、全学挙げての基地撤去運動が始まり、これが七〇年安保闘争とも絡み合って激しい学生運動の時代にはいる。

 全共闘の渦中にあったキャンパスではうかつにも気づかなかったが、板付基地撤去はほどなく成就したのであった。やがて、街なかに外国人の姿を見なくなった。

 それから二十数年を経、ひさしぶりに博多の街に降りると、地下鉄の車窓をはじめ、いたるところにハングルや略体漢字で案内標識が書いてある。東京に住み慣れた目からすると、東アジアの一部といったイメージが街全体に浸透して、エキゾチックでさえある。

 これは福岡市の市政努力にもよるものだろうが、子どものころ、台湾や琉球といった言葉をしばしば耳にした、その東アジアとの近しさが思い出されもしたのである。

 仕事を終えた翌日、川のほとりだったとおもうが、街を歩いていて、福岡アジア美術館という斬新な建物に出会った。

 入ると、東アジアの近代絵画が展示されている。絵画の近代化としての油絵をどのように消化するか、アジアの諸地域でそれぞれに苦心してきたことがわかる展示で、そのこなし方の違いを面白く見ていくうちに、ある絵に出会った。

 上半身はだかの男が、膝の上の胡弓に覆いかぶさるようにして抱いて弾いている絵である。曲の感情のきわまるとき、おのずから折り曲げ伏す背なかが画面を占めているのだが、その胡弓に没頭する青黒い陰鬱な背なかは、むせび泣いているかのように震えている。

 アヘン戦争以来、幾重にも蹂躙されてきた人々の苦しみと痛みが、祈りをけっして手放さない激しさをもこめて、その背なかには戦慄していた。

 画家の名も絵の題もすっかり忘れたが、画面はいまでも眼前に呼び出すことができる。


                                   (西日本新聞2003.10.11)