街上遊歩 (12)文の味わい2008/05/29 08:14

 子どものころ、小説冒頭の風景描写を読むのが面倒だった。ストーリーばかりが面白くてたどっていたわたしが、自然描写の味わいというものに初めて目を開いたのは、中学校での国語の授業だった。井中先生という、南方の戦線で戦ってきた先生で、生意気盛りの生徒たちが舐(な)めようったって舐められない、隙(すき)のない締まった空気を作り出す厳しさがあったが、この先生の授業がすばらしかった。

 今でも覚えているが、「梓川の流れ」という文章を、一文ずつ解説してくれるのを聴いているうちに、眼前に雪渓の残っている梓川のほとりが見えてきた。そこをのぼっていく作者の息づかいさえ感じられた。ストーリーに引きずられていくのとはまったく異なる、文の味わいとでもいうようなものが、身のうちに立ちのぼってきたのである。

 ひとりで読んだときには、面白くも何ともない紀行文が、導き手について歩いていくうちにいままで見えなかった世界がそこに開かれた。

 かといって、すぐにわたしの好みが変わり、心が成長したというわけではない。 二十四歳のとき、


  赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり


という斎藤茂吉の歌に偶然出会い、このような歌がすでにあったのかと驚嘆して、さっそく岩波文庫の『斎藤茂吉歌集』を買い、本気で短歌をやり始めたが、さて、文庫本を開くと、とくに中期以後の歌は、自然の歌ばかり。ほんとに退屈だった。

 それでも、出会った作家である。投げ出さずに、勉強のつもりで、面白かろうが面白くなかろうが、わかろうがわかるまいが、義務でいいから声を出して読んで、好きな歌があったときには○をつけた。

 わからないものに出会ったときには、放り出したり拒んだりするのではなく、わからないまま丸ごと抱えておけばよいのである。わたしも、自分自身の作歌の階梯をひとつひとつ乗り越えていくうちに、いつの間にか、茂吉の中期以後の歌の良さを味わうようになった。

 いまや、眼前にある街路樹や、道端の猫じゃらしや、広がる湖面や、遠くにけぶる低い山脈と向き合っている歌のほうが、なまじっかな小説より楽しい。そこに生まれる空気の厚みを感じるとき、もっとも歌の味わいが深いようである。


                                    (西日本新聞2003.10.1)

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